卒業式
卒業式の日、光は久しぶりに登校した。
教室にはいると、辺りはざわついた。
数週間不登校だった人間が、最後の最後に学校に来たのだから当然だ。
視界の端に、遥陽が素っ頓狂な顔をしているのが見えた。
そして、直ぐにバツの悪そうな顔に変わった。
担任は、光が来ているのを見つけると、やっぱり驚いた様子だったが、それはすぐにうれしそうな表情に変わって、彼女は光に対してウインクをした。
光は席に着いた。久しぶりに座る感覚はもはや懐かしかった。
机の中には、休んでいた間のプリントが詰め込まれていた。
それをあさっていたら、周りの女子生徒が、あれはこのプリントだ、これはこのプリントだなどと教えてくれた。
そして卒業式の段取りまでも教えてくれたから、光はわざわざ誰かに聞きに行く必要はなかった。
そんな中でも、遥陽が光の元に来ようとする様子はなかった。
向こうも戸惑っているようだった。
光もどうすればいいのかわからなかった。
やはり関係はギクシャクしたままだった。
遥陽と席が遠くて良かった、と光は生まれて初めて思った。
卒業式は粛々と行われた。
沢山の生徒の前で、光は卒業証書を受け取り,そして在校生から花束を受け取った。
何人かの生徒は泣いていた。
しかし、光は自分から涙が一切出てこないことに気がついた。
もう枯れたのかもな、と思って、光は自嘲気味に笑った。
卒業式が終わると、中庭の辺りで記念撮影が始まった。
光はこの空気感があまり好きではなかった。
そして、遥陽がたくさんの友達と、仲よさげに写真を撮っているのを見ると、光はまた、良くない気持ちになるのだった。
光は中庭から逃げた。
後者に入り、地下へ潜った。
地下は涼しかった。
そこで光は壁にもたれかかって座り込んで、そして目をつむった。
壁をつたって、中庭での黄色い歓声が伝わってきた。
それを聞く度に、光は自分が卑屈になっていくような気がした。
地下には誰もいなかった。
地上での声が聞こえる以外に、なにも音はしなかった。
冷たく、時が止まっているかのようだった。
光はこの空間が嫌いではなかった。落ち着けて、居心地が良い場所であるような気がした。
そのとき、階段を下る、コツコツという足音が廊下に響いた。
「やっと見つけた」
そして、聞いたことのある声が響いた。
そこに立っていたのは、意外な人物だった。
そして、光が今、二番目に顔を見たくない人物でもあった。
すらりと高い身長。爽やかなルックス。
翼だ。
翼はこちらに歩いてくると、光の顔を見て、開口一番に言った。
「探しましたよ」
「何の用」
光の返答はつっけんどんだった。
これはもう八つ当たりと言って良かった。光はもう、翼に対しても申し訳ない気持ちだった。
しかし、翼はこのことをあまり気にかけた様子はなかった。
そして、足早に次の質問を投げかけてきた。
「宇部先輩は、本当にこのままでいいんですか」
「……なに、何の話?」
光は胸がざわつくのを感じた。
翼は確かに、今、光の心の中の闇の部分に手を触れようとしていた。
光の心の中の何かが、触るなと強く叫んでいた。
ただ、それと同時に、光の心の中のどこかに、もう解放されたいという気持ちがあるのも確かだった。
「遥陽先輩に思いを伝えなくていいのかってことです」
後頭部を殴られたような感覚。
「……別に関係ないでしょ。ていうか、遥陽のこと名前で呼んでるし。もともとこれは二人の問題だから……いや、そもそも問題ですらない、こんなこと」
光は気怠げにボソボソと答えた。
何より、翼にこのことを言われることが、惨めで仕方なかった。
その声は後ろにいくにつれて小さくなっていって、最後の方は蚊の鳴くような声だった。
しかし、翼はめざとくそれを聞き逃さなかった。
「十分問題です! 宇部先輩は、遥陽先輩に思いを伝えに行くべきです。……それに、遥陽先輩だって心配してました。宇部先輩のこと。」
「へえ、遥陽が」
他人から遥陽のことを聞くのは二回目だった。
光は遥陽が自分のことを心配していたという事実に、再び安堵した。
そして、その自分の浅ましさが嫌いだった。
「もし今伝えなかったら、一生後悔すると思います。もう会えないかもしれないんです」
翼は必死そうな様子だった。
光は唇を噛んだ。そんなことはわかっていた。
そして、次に口を開く頃には、光の語気は強まっていた。
「だからさ、関係ないじゃん。大体、何でこんなこと君が言うわけ、部外者の癖して、他でもない君が……」
静寂が辺りを包んだ。翼は静かに口を開いた。
「……僕、わかるんです。宇部先輩の気持ち」
光は呆れて笑った。
翼のいいたいことはわかった。
ただ、他でもない翼には言われたくない言葉だった。
「……何言ってんだよ。君に僕の何がわかるんだよ」
そうだ。何もわからない。
わかってたまるものか。
「わかります! 好きな人に焦がれる気持ちも、思いを伝えられないでくすぶる気持ちも。僕だってずっとそうだったんです。だからっ、先輩にも後悔してほしくないんです」
光は翼の顔を直視できなかった。顔を見ずとも、翼がそれを本気で言っていることが伝わってきた。
もうやめてくれと、内側から叫び出しそうだった。
もうそれ以上、僕をいじめないでくれ。
そしてそれは、反動として、言動の中に顕れた。
「だから! 君にっ、僕の何がっ……!」
光は、そのとき初めて顔を上げた。
そして初めて翼の顔を見た。
綺麗な眼は濡れていた。
目元は赤く腫れていた。
声は鼻声だった。
一筋の涙が、頬をつたっていた。
彼は泣いていた。
その時、光の中で一つの疑問が氷解した気がした。
簡単なことだった。
だから遥陽はこの子に惚れたのだ。
わざわざここまで追いかけてきて、気持ちの悪い女に寄り添い涙を流す、どこまでも純朴で、誠実で、透き通った眼をした彼だからこそ、遥陽は惚れたのだ。
「そんなの、ずるい……」
口から乾いた笑いが出てきた。
涙も出てこなかった。
光は吹っ切れていた。
今なら、翼が言ったことを、真正面から受け取ることができるように感じた。
そして、光はよろけながら立ち上がると、持っていた卒業証書も、花束も投げ出して走り出した。
景色が後ろに流れていった。春の校舎は卒業式に人を吸いだされ、静謐な雰囲気だった。空気は澄んでいた。
光は走った。伝えなければならないことがあった。小さい頃から一緒だったあの幼馴染みに、今伝えなくては、二度と会えなくなる気すらした。
中庭に出る頃には、光は汗だくだった。辺りの桜は満開だった。目の前には、花束と卒業証書を持った遥陽が、驚いた顔で立っていた。
「光、どうしたの?」
彼女は動揺していた。それもそうだろうと光は思った。何せ、ここ数週間まともに口をきいていなかったのだから。
「っ、遥」
光は始めからつっかえた。
「なに」
二人の間を風が通り抜けた。
「伝えたい……ことが、あってさ」
そう言うと、光は少し間を置いた。
ブラウスの内側は、汗でびしょ濡れだった。
伝えるのには、時間が必要だった。思いを反芻する時間が。
けれど、もうそれは十分に過ぎ去った。
「僕、君のことが好きみたいだ」
辺りは五月蠅いはずなのに、なにも聞こえなかった。
舞い散る桜の花びらの数さえ、数えきることができそうだった。
やがて、永遠にも思われるような時間が過ぎて、遥陽は口を開いた。
「……それはさ、異性としての好きってこと?」
光にとって、遥陽の言葉がナイフのように感じられた。
「……うん」
光はスカートの裾を握って、蚊の鳴くような声で言った。
目を合わせられなかった。
なんだか咎められているような気分だった。
「ねえ、光」
「なに」
コンクリートの灰色、辺りの喧噪、桜の木の陰。
「なんで、泣いてるの?」
その時、光は初めて、自分が泣いていることに気がついた。
視界は涙で歪んでいた。
そして、それを意識した瞬間、ツンとした香りが鼻を差して、とめどなく涙があふれてくるのだった。
「ごめん」
光は絞り出すような声で言った。
ようやく言えた気がした。
これが自分の素直な気持ちだった。
光は謝りたいだけだった。
光は喉の奥につっかえていたザラザラが、綺麗に抜け出したような気分だった。
遥陽はこちらに歩み寄ってくると、そのまま光のことを抱きしめた。
戸惑いながらも、光は、遥陽の顔に胸を埋めた。
「ごめん、ごめん、本当はずっと謝りたかったんだ。下らない意地張って、馬鹿にして……」
一度言葉にして口から出してみれば、後はもう、口を衝いて言葉があふれ出た。いままで話してなかったのが嘘みたいだった。
「気持ち悪かったよね、ずっとつきまって、ごめんね……好きでいてごめんね……」
言葉が澱むことなくスラスラと出てきた。不思議な気持ちだった。
一通り言い終えると、長い沈黙があった。
遥陽は光の言った言葉を、時間をかけて咀嚼しているようだった。
「……本当はね、気づいてたんだ。光が私のことを好きだってこと」
遥陽の声が、静寂を穏やかに切り裂いた。
「え」
「だって光、中学の頃から、私が何か言う度にすぐに髪型変えてくるんだもん。気づくよ」
遥陽の声は震えていた。
光を包み込む腕の力が、少し強くなった。光の肩が濡れた。彼女も泣いていた。
光は何故だか、そのことが嬉しかった。
「私、どうしていいのかわからなかったの。だからずっと、知らない振りしてた。光にはずっと、辛い思いさせちゃったよね、ごめんね、ずっと、気づいてないふりして、無視して、ごめんね、約束を守ってあげられなくて、ごめんね、お嫁さんになれなってあげられなくて、ごめんね……」
覚えていてくれたんだ、と光は思った。なんだか救われたような気分だった。
光の涙が、遥陽の前髪を濡らした。
彼女のために短くした髪。
ジクジクと痛んでいた傷跡が、今では勲章のように思えた。
「いいの、いいんだよ。ごめん、こっちこそ、ごめん。諦められなくて、ごめん。ごめん、ごめん……」
二人は泣いた。
涙の雨はしとしと降り注いで、そして二人の制服に水たまりを作った。
何日にも感じられるような時間だった。
いや、二人の関係の断絶を考えれば、そしてその紡いできた絆を考えれば、その長さは必然だったのかもしれない。
二人は抱き合っていた。光の腕のなかは、今まで話していなかったのが嘘であるかのように暖かく、心地よかった。
この時間が続けばいいのにと、光は思った。
やがて、ふたりは自然に腕を緩めた。
光は周りを見渡した。
周りの女学生達も、卒業の桜吹雪の中、泣きながら抱擁を交わしているようだった。
光はもう一度、遥陽の胸に顔を埋めた。
光は泣いた。泣いて、泣いて、また泣いた。
遥陽は変わらず、優しく光を包み込んでくれた。
その感覚が気持ちがよかった。
ずっとそこにいたかった。
そして、その温かな抱擁の中で、嗚呼、自分は否応もなく女なのだと、光は思った。
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