きみの内側に届かない
遥陽と翼が付き合い始めて、早数週間がたった。
最近の休み時間では、遥陽はよく翼の教室に遊びに行っていた。
光と遥陽が一緒に下校することも、ほとんどなくなった。
当然、光には暇な時間が増えた。
遥陽と光がまったく話さなくなった訳ではない。
しかし、付き合い始めてから時間が経つにつれ、そして、遥陽と翼の関係が徐々に深まっていくにつれ、光と遥陽の関係は徐々に薄くなっていくようだった。
光にはそれがたまらなく辛かった。
自分の肉体が細切れにされているような感覚だった。
とはいえ、光はそのような内心を遥陽に吐露する訳にもいかず。
やがて鬱屈とした気分は、水槽の中の汚れのように溜まっていき、そしてそのせいで光の遥陽の関係はより濁っていた。悪循環だった。
遥陽と話しているとき、まるで会話が空回りしているような感覚すら、光は感じていた。
このままはいけない。光は思った。
そういえば、最近は休日にも遥陽と殆ど遥陽と遊んでいない。
一ヶ月くらい前に、遥陽が見に行きたいと言っていた映画があったことを思い出した。
遥陽を誘って見に行こうと思った。
@@@
早速、昼休みに遥陽に話しかけた。
最近は、油断していると遥陽は直ぐに翼の教室に行ってしまうので、話す機会を見つけるということもなかなか大変なことだった。
「遥陽」
「あ、光。どうしたの?」
遥陽は口をもぐもぐさせながら振り返った。
ハムスターみたいで可愛かった。
「今度さ、一緒に映画見に行かない? ほら、この間遥陽が見たいって言ってたやつ」
光は、できる限り明るい声で問いかけた。
なぜかはわからないが、自分が焦っているように感じた。
そして、矢継ぎ早に続けた。
「今度の日曜日とか、どうかな?」
「……あー、あれか。実はあれ、もう見ちゃったんだよね」
遥陽はバツが悪そうに返事した。
「あ、そうなんだ」
誰と見に行ったのだろうと、光は思った。
焦りはどんどんと募っていった。
「じゃあさ、別の何か見に行くってのはどう?」
光は自分が普段通りに話せているかどうかもわからないでいた。
沈黙が少しの間続いた。
「来週の日曜日だよね、ごめん、私、多分その日デートだから……」
再び、遥陽が目をそらしながら言った。
さっきよりも気まずそうにしている。
「……そっか、なら大丈夫。ごめんね、なんか変なこと言っちゃって」
「いやいや、私の方こそ。せっかく誘ってくれたのに」
遥陽は本当に申し訳なさそうだった。
しかし、これではまるで定型文の応酬だった。
再び、気まずい沈黙が過ぎていった。
また、この感覚だ。
光はなんだか遥陽とのコミュニケーションが上滑りしているように感じた。
このよくわからない焦りが原因かもしれないと、光は思った。
そして、遥陽の顔を眺めていると、ふと違和感に気がついた。
首元に絆創膏が貼ってあった。昨日まではなかったものだ。
「あれ、ここどうしたの?」
光は遥陽に訊いた。さっきよりも自然なこえが出せた気がした。
しかし、そのことを聞いた途端、遥陽は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がった。
「こ、これ!? これは、あー……その、虫に刺されちゃってさ。昨日寝てる間に。朝起きたら赤くなってたから、絆創膏貼ってきたの」
遥陽は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに答えた。
いや、答えたというよりは、必死に弁明しているような雰囲気だった。
絶対に嘘だと、遥陽は思った。嘘をつくとき、遥陽はこういう非情にわかりやすい態度を取るのだった。第一、虫刺され如きにわざわざ絆創膏を使うほど、遥陽は繊細な人間ではないことを、光は知っていた。
ただ、この傷が何なのかは深く追求しない方がいいと光は本能的に悟った。
もしこの傷の正体が何か知ってしまったら、そして遥陽がそれを認めてしまったら、光は終に発狂してしまうような気がした。
そして、遥陽は相当聞かれたくないことだったのか、急に焦って弁当を食べ始め、そして直ぐに食べ終わると、弁当を手早く片付けようとした。
そのとき、机の上にあったシャーペンがコロコロ転がり、そのまま下に落ちた。
光はそれを拾い上げようとして屈んだ。
起き上がろうとしたとき、すでに遥陽は弁当を片付け終えていて、立ち上がってこちらに背を向けていた。
「じゃあ、私、翼の教室行ってくるから」
そのまま、遥陽は足早に去って行ってしまった。こちらを振り返ることはなかった。
光の目の前には、主を失った遥陽の机が残された。
手には遥陽のシャーペンが空しく握られていた。
遥陽への映画の誘いは、完全に失敗したと言って良かった。
別の言い方をすれば、光は遥陽に振られた。
気分は最悪だ。
昼休みはまだ始まったばかりだった。光はただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。
光は頭の中で、無意識に先ほどの会話を思い出していた。
遥陽が聞かれて焦ったこと。つまり、あの首元の傷の正体を、光はわかるような気がした。
ただ、わかりたくなかった。
わかってしまったら、そして、遥陽がそれを認めてしまったら。
それは、光にとって、酷くおぞましい結末になるに違いなかった。
ただ、遥陽が傷の正体を認めていないと言うことは、まだ一縷の望みはあった。
だから、光はそれを確かめようと思った。
この決断に、光は自分でも驚いた。
光が考えているのは恐ろしい行為だった。
自ら傷つくことを恐れて遠ざけたものを、自らのぞきに行くのだから。
それはまさしく、自傷行為そのものに違いなかった。
ただ、光はもう辛抱することができなかった。
このえもいわれぬ気持ちに、決着をつけてしまいたかった。
だから光は、次の日曜日、遥陽のデートを尾行することに決めた。
@@@
遥陽のデートにこっそりついて行くと決めたのはいいものの、光は集合時間や行き先などの仔細な情報を一切知らなかった。
なので光は遥陽の家の近くで朝から張ることにした。
フードを目深にかぶって、直接見られてもばれない程度にマスクとアクセサリーで着飾った。自分は背が高い方ではないから、不審者と思われるようなこともそうそうないだろうと光は思った。
大体昼を過ぎた頃に、遥陽は家から出てきた。
光の見たことのない服を着て、そして光が見たことないほど手の入った化粧をしているという単純な事実が、光の胸を抉った。
どうやら、遥陽と翼は近所のバス停で待ち合わせをしているようだった。
バスに乗るのかと思い、光は一瞬焦ったが、二人はどうやら、バス停を単純に目印として使っているだけのようで、バスには乗らずに歩いて行くようだった。
思わぬ誤算に、光は安心したが、迷惑だから辞めた方がいいと思った。
遥陽と翼は合流すると、そのまま出発した。
行き先は近所のショッピングモールだった。
過去に何度か、光も遥陽と一緒に行った経験があった。
特筆すべきこともない、極めて一般的な高校生のデートだった。
ただ、それを見ていることは、光にとって拷問に等しかった。
遥陽が翼に笑いかける度に、自分には見せたことのない表情が次々と出てくる度に、光は辛い気持ちになった。
途中で何回も、帰ろうかと思った。
しかし、あの首元の傷の正体を確かめようという一心でとどまっていた。
恐ろしいのは、怖いもの見たさの好奇心だった。
長い間見ていれば、デートは単調だった。
大体が、昔に遥陽と光が一緒にやっていたことの焼き直しだった。
しかし、次第に日が沈みはじめ、夜になり、肌寒くなってくると、遥陽と翼は繁華街の方へ歩き出した。
やがて二人は、夜の中にギラギラとした看板の光る、妖しげな雰囲気の道へと入っていった。
そして、ある建物の前で止まった。
「あ」
そこでふと、思わず大きな声が出た。
その建物は、ネオンの看板を持った、独特の”ある”雰囲気をもった店――宿だった。
光が声を出したせいで、道行く人々の視線が、こちらを向いた。
情欲渦巻くこの繁華街の中で、確かに光の存在は確かに浮いていた。
そんななかでも、光はただ立ち尽くすしかなかった。
周りのことを気にかけている余裕はなかった。
薄々気がついていたことではあったが、実際に、事実として目の当たりにしたときの衝撃は形容しがたかった。
そして、光が、自分は二人から隠れているのだということを忘れた瞬間。
辺りに風が吹いた。
光のかぶっていたフードが外れた。
翼の背中越しに、遥陽の顔が見えた。
こちらを向いていた。
目が合った。
遥陽ははじめ驚いた様子だった。
そして、直ぐに困った様子に変わった。
それと同時に、翼の耳元に何かをささやき、翼もこちら側を向いた。
翼は驚いていた。そして遥陽と、なにやら目配せをした。
遥陽の表情は、悲しそうだった。
膝の力が抜けた。
光はその場にひざまずいた。そして俯いた。
遥陽と翼の顔を見ることができなかった。
光は悟った。
越えてはならない明確な一線を、光は越えてしまった。
そして、光は衝動のまま逃げ出した。
この場所にいては、嫉妬と自責で頭がおかしくなりそうだった。
光は走った。
妖しげなネオン灯の光。ゴミで埋まった駐車場。
それらを通り過ぎて、道路の脇を走った。
子供連れの親子が遊ぶ公園を通り過ぎ、ホテル街に着く前に二人が寄っていたコンビニを通り過ぎ、そして二人の待ち合わせていた場所を通り過ぎ、かつて通っていた小学校を通り過ぎた。
肺が痛くなって、走れなくなるまで走り、そこからは歩いた。
気がつけば自分の家に着いていた。
光は倒れ込むようにして玄関の扉を開けて、その中に入った。
2階にある自分の部屋に行く余裕もなかった。
しばらくは玄関で茫然自失のままでいた。
そしてようやく立ち上がって、ノロノロと自分の部屋へと歩いていった。
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