5/25〜10/25

 なぜ好きになったのかは、よく覚えていない。覚えているのは、初めて意識した異性であることくらいだ。

 孵化したばかりの雛鳥が初めて見たものを親と思い込むように、目を開けて飛び込んだ光にふらふらと着いていくかのように、ただ彼女に愛を告げたことは覚えている。未熟な心が誰かから聞き齧った恋の概念を勝手に当て嵌め、雛鳥は訳もわからずにそれに従う。学童保育の教室に差す放課後の夕日が妙に眩しかった。

 今思えば、随分マセたガキだった。彼女から見れば、年下の少年が出会って早々告白してくるような状況だ。お互いに幼かったとはいえ、困惑しても仕方ない。それでも、彼女は明るく笑って答えた。


「ごめんねー。他に好きな人、いるんだよね!」


 初めての恋と初めての失恋は、同時だった。まだ“恋人”が何かすら分かってすらいなかった僕はそれを素直に受け止め、相手の提案する「まずは友だちからね」という言葉を受け入れる。彼女が自分の家から程近い場所に住んでいることを知ったのは、数時間後だった。

 僕と彼女——亜貴ちゃんとの出会いは確かそんなきっかけで、5歳の自分にとって2年の歳の差はマリアナ海溝より深かった。家族以外に初めて認識した異性で、子供の少ない田舎の集落には珍しい同年代の相手だ。同じ学校に通い始めても、僕はずっと彼女の背中を追っていた。


 思い返すと突飛でエキセントリックな人だった。気まぐれで、活発で、変なものを集めてくる。

 初めて家に遊びに行った日。彼女は引き出しから区分けされた菓子箱を取り出し、僕に嬉々としてそれを見せてくる。カラフルな折り紙で折られた小さな箱に入った大きな綿毛のような物体は、彼女曰く“ケセランパサラン”なのだという。近くの神社で集めたそれに白粉おしろいの餌を与え、箱の底は白く染まっていた。


「誰かにバレたら幸運になれないらしいから、ハル君にだけの内緒ね。なんか叶えたい事とかある?」

「……亜貴ちゃんと一緒に歩きたい」

「じゃあ、あたしはお金持ち!!」


 生まれつき自分の足が満足に動かないことにコンプレックスを抱いたのは、誰かと触れ合うようになったからだろうか。部屋の中で本を読むことが娯楽だった僕にとって、外を駆け回る彼女の脚はどこか羨望の対象だった。

 ある日はポストの中に詰まった大量の彼岸花。ある日は煌めく星を覗くような万華鏡。自らの眼で見た綺麗なモノを共有するかのように、亜貴ちゃんは部屋の中の僕に外の世界を知らせる。

 彼女は、ただ自分の持っている物を自慢したいだけだ。それでも、そのどこか満足気な笑みを見て救われた自分も確かに居た。その笑みが僕に向けられている限り、彼女のことを好きでいるのだろう。恋というものを徐々に理解していくごとに、そんなことを思った。

 彼女自身の好きな男子に対する感情は、季節が巡るたびに落ち着いていった。それに反比例するかのように、僕の感情は風船のように膨らみ続けている。


 家の近所の遊び場など田園の傍に伸びる農道や手入れされていない広場しかなく、僕たちは狭い農道を駆け抜けるように走る。車椅子のタイヤが舗装されていない畦道に跡を刻み、9月の空はどこまでも高い。


「……どうよ!」

「すげー! はっや!!」


 後ろの手押しハンドルを握る彼女の息遣いを耳元で感じながら、僕は同じスピードで動いていることに素直な喜びを覚える。流れ続ける用水路のせせらぎさえ邪魔で、周りには誰もいない。ふざけてスピードを上げようとする亜貴ちゃんを煽りつつ、僕は浴びる風の心地良さで胸を満たす。

 狭い田舎も、動かない足も、ずっと嫌いだった。僕が見ている世界と動ける世界には大きな隔たりがあって、周りと同じように動けないことへの鬱屈や焦りが耳鳴りのように止まない。

 それでも。彼女と駆けている時間だけは、この景色も、動かない足も、悪くないと思えた。


 僕は高揚のままに頭を振り、身体を動かす。小高い畦道に乗っていた前輪が浮き上がり、車椅子はバランスを崩した。横倒しになりそうな僕の腕を掴んでなんとか元に戻したのは、亜貴ちゃんだ。


「大丈夫かー?」

「……ごめん、はしゃぎすぎた」


 亜貴ちゃんが僕を覗き込む格好だ。緩く吹いている風でポニーテールが揺れ、午後の太陽が彼女を後光めいて照らす。

 僕はこの人のことが好きだ。何度も繰り返した結論を再認識する。


 直後に行った2度目の告白に否定でも肯定でもない回答が返ってきたのは、僕が10歳の時だ。

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