鏡の悪魔

名取信一

鏡の悪魔

 私には忘れられない思い出がある。それは11歳の時に祖父母の家に泊まった時の出来事だ。父は里帰りということもあって、すっかり羽根を伸ばしていた。それとは正反対に、母は姑にあたる祖母に常に気を遣っていた。母は普段の姿からは想像もつかないくらいに縮こまっていたのが印象的だった。


 当時の私は年頃の女の子だったので、鏡を見るのが大好きだった。三面鏡の前に座って、伸ばしていた髪を母にとかしてもらうのが楽しみだったのを覚えている。祖父母の家を探検していると、家の一階の使ってない部屋に大きな鏡があることに気がついた。その時は母に昼食に呼ばれて鏡の前にじっくり立つことはできなかったのだが、私はその鏡が気になって仕方がなかった。


 昼食後に両親は2人で出掛けてしまった。祖母も雪かきをするために庭に出ていた気がする。私は祖父と一緒にコタツに入ってミカンを食べていた。私は祖父に三面鏡で自分の顔を見るのが大好きだと話すと、祖父は唐突に真顔で怪談話を始めた。


 「合わせ鏡の向こうにはな、魔物が住んでいるんだ。もし話しかけられても絶対に相手をしてはダメだ」


 祖父はコタツで気持ち良くなったのか、うたた寝を始めた。話し相手のいなくなった私は、気になっていた一階の部屋に入り、じっくりと鏡に自分を映した。自分の顔は普段見ることができない。だから、鏡に映る自分の顔を見るのは非常に面白かった。


 母親似の大きな目、父親似の高い鼻、そしてコンプレックスに感じている、左目の下の大きなほくろを眺める。本来だったら両親に似て、顔のパーツは整っているはずだ。この邪魔なホクロさえ無ければなあ、と当時の私は考えていた。


 その時だった。鏡の前の私が笑った気がした。気のせいだと思って最初は気に留めなかったが、もう一度鏡の方を見つめてみると、鏡の中のもう一人の私はニヤニヤと笑い出した。


 「そんなバカな」私は子供心におかしいと思った。鏡に映った姿が違った動きをするはずがない。私の顔が無意識にニヤけているのだろうか。しかし、しかめっ面をしてみても鏡に映る私の顔はニヤニヤしたままだった。


 鏡に映る私は口を歪めて話し始めた。

「あなたを気に入った」


私は途端に恐怖を感じた。鏡の向こうのわたしは手招きを始める。

「こっちに来てよ」

口は歪んだままだ。ニヤけた顔からは不気味な雰囲気が伝わってくる。


 怖い。私は金縛りのように凍りついた体をなんとか動かして鏡から離れようとした。その時である。


「来いよ」


 野太い声が響いた。同時に鏡から二本の手が突然伸び、私の腕を掴んだ。振り払おうとしても強く握られていて外れない。「いやだ!いやだ!」私は恐怖で泣き叫んだ。しかし二本の手はますます私の腕に食い込み、鏡の向こうの私は乾いた笑みを浮かべている。右目の下のほくろが歪む。

 


 その時だった。バタンを音を立てて部屋のドアが開いた。「どうしたんだ?」そこにいたのはこたつでうたた寝をしていたはずの祖父だった。鏡の方向を向くといつの間に白い腕は消えており、一階の部屋の様子が何も変わりなく映っていた。


 私は先程の事態を正直に祖父に告げることができず、とっさに嘘を付いた。部屋に毛虫がいて、顔に絡みついてきたということにしたのだ。


 それからというもの、私は鏡のことがすっかり恐ろしくなった。三面鏡の前に座って母に髪をとかしてもらうことも嫌がった。母は「急にどうしたの」と聞いてきたが、理由を答える気にはならなかった。






 あれから10年ほどが経ったのかと私は思った。私は都内の国立大学に進学し、ワンルームマンションで一人暮らしをしていた。最初は慣れない暮らしだったが、2年も経てばすっかり馴染んでしまう。ただ、大学に入った時に周囲の女子大生たちが軒並み化粧をしっかり決めて、垢抜けた服装をしていたのには驚いた。地方にいた時はジャージで登校するのが当たり前のように行われていたからだ。私は化粧をきっちり決めないと恥をかくことを学んだ。


 しかし、問題はきちんと化粧をするためには鏡を見ないといけないことだった。私は鏡がすっかり嫌いになっていた。鏡で自分の姿を見るたびに、映る顔が私ではないように思えるのだ。私とは異なる誰か。私とは逆の右目の下にほくろを持ち、私と同じ動作をする誰か。そしてその誰かはいつか私を引きずり込むのではないか。そういった恐怖が拭い去れなかった。


 大学を歩いていると右も左も垢抜けている。文系の学生にはついていけそうにない。彼らは都心のキャンパスで遊びを謳歌し、大手に就職していく。私のように化粧もロクにできない人間はお呼びでないだろう。私は華やかな集団に混じるのを諦め、地味な旅行サークルに入った。同期はおとなしめの系統が多く、私でも馴染むことができた。私の通っている大学は幸いにして大学2年の時に転部が可能だったので、勉強を頑張ってバイオ系の学部に進学することができた。


 その日は夏が終わり、秋が始まりかけた頃だった。サークルの企画で高尾山に登るという予定が立っていた。リュックサックに登山中に食べる保存食をパンパンに詰め込んで、朝早くに家を出た。始発に間に合うように、とにかく急いでいたと思う。


 自室から出て、マンションのエレベーターに乗り込むと、目の前に大きな鏡がある。エレベーターは車椅子の人が使いやすいように、入って向かい側に鏡が設置されていることが多い。こればかりは日常生活の中でも回避できない。私はいつも鏡を目に入れざるを得なかった。


 急いで家を出たので、ロクに身だしなみをチェックしていないことに私は気がついた。乗り気はしなかったものの、私はエレベーターが一階に着くまでの間、鏡に映る自分の顔を覗き込んで髪の毛をセットし直した。鏡に映るのはいつものような大きな目と、左目の下の大きなほくろだった。


 その時だった。鏡に写った私の口が歪んだ気がした。気のせいと思って目をこすり、もう一度鏡を見つめると、そこには私の姿が何一つ変わったところが無く映っていた。エレベーターが一階に着き、ドアが開いた。気のせいだろうと思い、私は駅に向かった。


 集合場所のターミナル駅に着くと、サークルの部長がしかめっ面をしていた。急に天気が悪化し、登山は中止にせざるを得ないらしい。楽しみにしていたが、こればかりは仕方がない。悪天候の登山など、正気ではない。みるみる間に空は曇っていき、ポツポツと雨が降り始めた。私はサークルの友達と途中まで一緒に帰った。この後仲間内で一緒に飲みに行こうという話も出たのだが、荷物が重かったし、どうにも酒を飲みたい雰囲気ではなかったので断って、家に帰ることにした。


 自宅の最寄り駅に着くと急にトイレに行きたくなった。用を足して洗面台で手を洗い、そそくさとトイレを出る。洗面台には一面に鏡が張ってあり、長居したくないからだ。しかし、出口まで行ったところで女性の声で呼び止められた。


「洗面台の蛇口を閉めなきゃダメですよ」


 慌てて洗面台の前に戻る。私が手を洗っていた場所見ると水が出しっぱなしになっていた。「ちゃんと閉めたはずなのに」と不思議に思って蛇口に手を伸ばした。私の腕と、洗面台に映った私の腕が近づいていく。


 「待ってたよ」


 獣のような声が響いた。直後に鏡から突然白い手が伸びてきた。手は私の右腕を掴み、鏡の中に引きずり込もうとしていた。私は渾身の力を持って抵抗する。私はその時、胸ポケットにボールペンを入れっぱなしであることに気がついた。私は掴まれていない左手でボールペンを抜き取ると、思い切り鏡から出てきた手に突き刺した。


 その瞬間、金切り声を上げて腕は引っ込んでいき、私はなんとか命拾いをした。心臓がバクバクになりながら、私は家への道を突っ走った。辺りには雷鳴がとどろき、天気は土砂降りになっていたが、なりふり構わない。私は傘もささずに家までの道を一目散に走っていった。


 マンションの一階に着くと、息が上がってしまい、私は座り込んだ。心臓は相変わらず早鐘を打っている。鏡の向こうの「アイツ」は消え去ってなどいなかった。ずっと私を追いかけていたのだ。10年前のあの日から。


 エレベーターに乗ろうとしたが、ボタンを押したところで気がついた。エレベーターに乗ったら目の前に大きな鏡がある。またアイツに引きずり込まれる。エレベーターはもう使えない。私は恐怖に震えながら階段を上っていった。


 マンションの外階段は外から常に雨水が降り掛かってきて、びしょびしょだった。靴が濡れるのも構わず、私は上っていく。踊り場で息が上がって休憩したその時だった。下を見ると水たまりに光が反射し、私の姿が映った。その時だった。再びあの声が響いた。


「油断したな」


 次の瞬間、水たまりから二本の手が伸びてきて、私の足を掴んで引きずり込んだ。なんとか床を掴んで抗おうとしたが、無駄だった。剥がれそうな爪を床の僅かな凸凹に立てて踏ん張ったが、ついに力尽き、私は鏡の向こうに引きずり込まれていった。



 気がつくとエレベーターの中に座り込んでいた。眼の前に大きな鏡がある。そして、その向こうには私と良く似た人物が立っていた。右目の下には大きなほくろがある。


「私、ずっとあなたと入れ替わりたかったの」


 びっくりするような野太い声で鏡の向こうの「アイツ」はそう言った。

「あなた誰なの」

 私は震える声で質問する。


「あなたはもう戻れない。明日からは私がこっちで生きていくの。あなたの代わりに大学に通って、あなたの代わりにサークルで遊んで、あなたの代わりに里帰りをする。誰もあなたが消えたことに気づかない」


 鏡の向こうの「アイツ」はケタケタと笑い声を挙げた。今まで一度も聞いたことのない不気味な響きの笑いだった。

「バレるとしたら、左右逆になったこのホクロくらい。ほんと邪魔ね」

 鏡の向こうの「アイツ」はそう言うと、右目の下の大きなほくろを引っ掻いた。


「なにが目的?何者なの」

 私は渾身の力を込めて叫んだ。


「あなたはもう戻れない。知ることはできない。」

 「アイツ」はそう言うと体の向きを変えて鏡の向こうのエレベータのドアを開け、外へと進んでいった。


「待って!」

 私は追いかけようとしたが、鏡に弾き返された。もう戻れない。これからは「アイツ」が私になりすまして生きていくのだ。私は鏡に閉じ込められたきり、もう二度と帰ることはできない。私の目には涙が流れてきた。


 私はエレベータのドアの方を向いた。パネルの文字は全て左右反対になっている。私は鏡文字になった「開く」のボタンを押して、エレベーターの外に出た。


 マンションの外廊下から外の風景を見回す。空は黄昏時のように暗く、夕日とは別種の赤黒い色をしていた。外は普段の風景と変わらぬ町並みが広がっているが、誰一人歩いていない。車も走っていないようだ。無人の車道と歩道がどこまでも広がっている。


 よく目を凝らすと、視界の端に動く灰色のものが見えた。それは人間のようなシルエットをしているが、遥かに大きく、建物の二階を超す身長だった。人間ではあり得ない痩せた胴体と異常に長い手足をヒョコヒョコさせながら、ゆっくり車道を歩いている。この世のものではないのは明らかだった。祖父は鏡の向こうには悪魔が住んでいると言っていた。ここはこの世とは違う、人の踏み入れざる世界なのだ。そのことを実感し背筋が凍りついた。


 私は外階段を上がり、本来だったら私の部屋がある場所へ来た。部屋の中に入ろうとしたが、鍵が開かない。私の持っている鍵は左右逆だから、鏡の中では使えないことに気がついた。何回かガチャガチャとやったが、無駄だった。


 マンションの中には誰一人として人の気配はなかった。マンションの外は恐ろしくて出れそうにない。薄暗い夕日の中で、車道をノロノロと進む人ならざるバケモノを思い出しただけで私は鳥肌が立った。


 行く宛がなく、私は結局エレベーターの中に戻ってきてしまった。小さい箱の中は独特の落ち着きがある。不気味な外の世界よりはマシだ。私は床に座り込んでうずくまると、恐怖と絶望のあまり泣き続けた。何時間経っただろうか。お腹がぐうと鳴り始めた。私は登山に持っていくはずだったリュックから保存食のビスケットを取り出し、食べた。何の変哲もないビスケットだったが、異界に1人取り残された私にとっては格別のご褒美だった。


 ビスケットを食べ終わり、ごろりと寝転んでエレベーターの天井を眺めたその時だった。私の頭に一つのアイデアが浮かんだのだ。もしかしたら元の世界に戻れるかもしれない。なんとか頑張れば「アイツ」をギャフンと言わせることができるかもしれない。


 「アイツ」は一つ重大な見落としをしていたのだ。私はリュックに無駄に詰め込んだ保存食を取り出し、数を数えた。多めに入れておいて本当に良かった。少しずつ食べていけば結構な期間は持つかもしれない。ここからは根比べだ。私は突然湧いてきたアイデアを心から賛美した。もしあのまま文系の学部に進学していたら、私は詰んでいたかも知れないなと思った。


 それからの数日というもの、私はなるべくエネルギーを消耗しないように、エレベーターの中で寝そべっていた。一日ごとに少しずつ保存食を食べ、「アイツ」が戻ってくるのをじっくり待っていたのだ。アイツがついに根負けして戻ってきたのは私が鏡に引きずり込まれてから3週間後だった。


 鏡の前に戻ってきた「アイツ」はガリガリに痩せ、骨と皮になっていた。歩いているのもやっとの様子だ。


 「やあ、遅かったじゃないか」

 私は勝ち誇った顔で「アイツ」に話しかける。


「戻らせて」

 鏡の向こうの「アイツ」は前回の態度が嘘のように小さくなっている。その口調は懇願しているようだった。顔は別人のように痩せこけているが、私とは逆の側に付いている、右目の下の大きなホクロはますます目立っていた。


「こちら側に来たのは失敗だった。私の体質ではこちらでは生きられないらみたい。もうあなたに迷惑をかけるつもりはない。」

 どうやら私が承諾しないと「アイツ」は鏡の世界には戻ってこれないらしい。私は「しめた」と思った。


「もう二度と鏡に出てこないって約束してくれる?」

「もう二度とあなたには手出ししない。だから頼む」

 鏡の向こうのアイツの目からは涙が流れた。この3週間、相当飢えていたらしい。

「じゃあ入れ替わりましょう」


 その瞬間、フラッシュのようなものが光り、気がつくと私はエレベーターの中で倒れていた。

 エレベーターの扉が開き、若いカップルが入ってくる。

「あんた寝転がって何やってんの?邪魔だよ。」

「すみません。ほんとすみません」


 私は恥ずかしくなってエレベーターから逃げるように外に出た。エレベーターの文字盤は鏡文字から元の正しい文字に戻っていた。私はこの世に帰ることができたのだ。諦めないでよかった。私は爽快感でいっぱいだった。


 突然グウとお腹が鳴る。3週間ロクに食べていないので、とにかくお腹が空いていた。財布は幸いにしてポケットの中に入っていたので、近所のコンビニでおにぎりを買って口に詰め込んだ。何の変哲もないサケのおにぎりだったけど、今まで食べたおにぎりの中で一番美味しく感じられた。






 鏡の中では全てが反対になる。エレベーターの文字は左右逆になっていたし、私の持っている鍵も左右反対になっていたので、鏡の向こうでは使えなかった。右手と左手が重ね合わせられないように、鏡像世界の物体は根本的に重ね合わすことができないのだ。


 この構図は実は私達の体を構成するアミノ酸にも適用される。鏡に映った物体のアミノ酸配列は左右が逆になるため、わたしたちの体のアミノ酸とは異質なのだ。これを鏡像異性体という。鏡像異性体は通常の生体内の化学反応に使う事ができない。私の持っていた鍵が鍵穴に合わなかったのと同じだ。


 鏡の向こうの「アイツ」は私と全く同じ姿をしていたが、左右は逆だった。私の左目の下にあるホクロは、「アイツ」の場合右目の下についていた。同様に「アイツ」の体を構成するアミノ酸も全て左右逆だったと思われる。生物に存在するアミノ酸は全てL型というタイプで、「アイツ」の体を構成するD型とは鏡像異性体の関係にある。


 したがって、「アイツ」は私達の世界の食べ物を食べてもアミノ酸を栄養として吸収することができない。いわば、車の交換パーツが全て左右逆で届くようなものなのだ。この3週間、「アイツ」は何を食べてもロクな味がしなかっただろう。


 「アイツ」は飢えに苦しんでいく一方で、私は運良く自分の世界から持ち込んだ保存食を持っていたから飢えることはなかった。ただアイツが根負けするのを待っていれば勝利することができたのだ。まさかこんなところで生物の知識が生きるとは思わなかった。「学問は身を助ける」とは言ったものだ。




 次の日、私は3週間ぶりに大学に登校することにした。まだ体は疲労でいっぱいだが、休むわけには行かない。私が鏡の向こうに閉じ込められていた間、アイツが大学に行っていたのかは分からないが、何かトラブルでもあったら面倒だ。なるべく早く誤魔化さないといけない。友達には過激なダイエットに失敗したことにしておくか。


 私はシャワーを浴びた後、ドライヤーで髪の毛を乾かし、家を出る準備をする。そして鏡を広げ、時間をかけて化粧をした。左目の下のホクロをコンシーラーで目立たなくすると、私は今までにないくらい念入りに化粧に取り組めたことに満足し、家を出た。

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鏡の悪魔 名取信一 @natorisinnichi

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