05-04
「前職で……部下……?」
かろうじて出せた声は、蚊の鳴くような小さなものだった。
予想もしていなかった関係性に、思考がついていかない。オウムのように、アオヤギ先生の言葉を繰り返すだけで精一杯だ。
「そう。ノアボックスのセキュリティ部門で、電脳空間『ボックス』の、主にネットワーク面でのセキュリティに関する施策の検討、実行を担ってたんだ」
「せ、先生、ホントなの? そんなこと初めて聞いたよ?」
ヒカリの声が震えている。
恐らく、俺と同じく、想定外の情報に曝され動揺しているのだろう。
「うん。……あれ? 言ってなかったかな?」
「初めて聞きましたよ。前職がネットワークのセキュリティに関するものだということすら、ついこの間ネコタニから聞いたくらいですから」
「あれ、前職のことも言ってなかったか。ごめんごめん、実はそうなんだ。しかしネコタニはなんで知ってたんだろうな、お前たちに話してないなら他の誰にも話してない気がするんだが」
「趣味まで知ってましたからね」
「ははは、調査する能力において彼女の右に出るものはいないね」
カラカラと笑いながらアオヤギ先生は話す。
こっちの気も知らないで、と思いながら少し溜息をつくと、ミレイが会話に割って入る。
「……衝撃で少し混乱しています……整理させてください。先生は、教員になる前は私共の会社に勤めていらしたのですね? 何年前ですか? 先生が勤務されていた記録はきっとあるのでしょうが、恐縮ながら私は存じ上げておらず……」
「ミレイさん、ごめんね、置いてきぼりにしてしまって」
アオヤギ先生はミレイの方に向き直り、少しだけ頭を下げた。続けて、ミレイの問いに答える。
「ノアボックスに勤めていたのは25年ほど前までだ。その後、現職に転職した」
「25年前……私が産まれるよりも前だったのですね。そして、セキュリティ部門で母と一緒に業務をしていた?」
「そう。ノアボックスには中途採用で、マネジメントの立場で入ったんだ。そしたら、部下にミソノさんがいた」
「非常に優秀な方だったよ。……ミレイさんは、お母さんが具体的にどんな仕事をしていたか知っている?」
アオヤギ先生は優しい目で語りかけた。
ミレイの少し乾いた声が続く。
「…………いえ、セキュリティ部門で働いていたということしか……。具体的にどのような業務を担当していて、どのような成果をあげていたかは聞いておりません」
少しだけ、しゅんとした面持ちだった。
「…………そうか。――少しだけ、昔話をしようか。こいつと格闘しながら」
アオヤギ先生は一瞬パソコンに目を落とし、それを完全に開いて液晶を指差しながら、朗らかに答えた。
「彼女の仕事っぷりは凄まじいからね、きっとこいつの相手も厄介だ。結構待たせちゃうだろうから」
「……ふふ、よろしくお願いします」
窓の外の陽は、少し赤味を増していた。
――――――
「えーっと、たしか、この辺に……あ、あったあった」
アオヤギ先生は、自身のデスクの引出をガサゴソと漁ったかと思うと、古ぼけたノートのようなものを取り出した。
「解析ソフトを使って総当たりしてもいいんだけど、時間がかかるだろうから、まずはパスワードをバイパスできないか試そうと思う」
「バイパス?」
「パスワードを入力しなくても中にアクセスできないか試すってことさ。普段こんなことやらないから、カンペ見ないとね」
アオヤギ先生は微笑みながら、年季の感じるそのノートを顔の横にかざしている。
そして、続けて見慣れないデバイスを同じく引出から取り出すと、いそいそとミレイのお母さん――ミソノさん――のパソコンにつなぎ、カタカタと何かを入力し始めた。
どうやら早速作業を開始してくれているようだ。
部屋に響く、キーボードの音。
規則的に、時には不規則にリズムを刻む打鍵音。
逢魔が時、この小さな部屋には、その音はあまりに大きかった。
ふと、打鍵音が止む。
唐突な静寂に、皆がアオヤギ先生に目を見遣る。
「……一旦、再起動するね」
作業が思わしく進んでいないわけではなさそうだ。
ミレイ、ヒカリが同時にフッと小さく息を吐いた。
「……ミソノさんのお話だったね。ミレイさんにとっては釈迦に説法かもしれないが、一応、この話から始めよう」
アオヤギ先生は、ひと呼吸置いて、話し始めた。
「『ボックス』は物理空間に設置されたサーバによって構築されている世界だ」
「リスク管理の観点から、それらのサーバはある一箇所ではなく複数の場所に分散配置されているが、それらをネットワークで繋ぎ相互に演算処理を負担することで、電脳空間に住む私達にとっては地続きの一つの地球に見せている」
「つまり、物理空間のサーバのハード面での健全性もさることながら、ネットワークをはじめ、ソフト面での安全性もこの世界を維持するためには重要だ」
「簡単に言えば、コンピュータウイルスには絶対に感染してはならない、ということさ。ネットワークを介して瞬く間に広まって止められなくなるから」
「かつて人類が物理空間のみに住んでいた時代は、コンピュータウイルスが自分のパソコンに感染したとしても、自分の身体に直接的に害が及ぶことはありえなかったし、感染したパソコンはネットワークから切り離せば影響の波及を阻止でき、まずは一安心できた」
「だが、この『ボックス』はそうはいかない。コンピュータウイルスの感染はまさしく致命的なんだ」
「まず、ネットワークを切り離すという処置ができない。切り離すとすればサーバ単位で切り離されることになるから、そのサーバに格納されている人、モノ、土地ごと切り離すことになる。切り離されたそれらは世界との同期が取れなくなるので、切り離された瞬間から演算を進めることが不可能になる」
「つまり、格納されているデータは歴史から取り残され――限りなく死に近い状態になる。……よって、基本的人権の観点からも、いくら緊急を要する事態であっても、ネットワークを切り離すことは人を殺すことにほぼ同義であるため、実行することはできない。超法規的措置を取る場合を除けばね」
「次に、感染で生じる被害が比較にならないほど大きい。我々の住んでいる『ボックス』も、我々がこの世界の中で使うパソコンも、結局は同じ次元の、同じサーバとネットワークの中のプログラムの集合体だ。つまり、ここ、『ボックス』の中では、コンピュータウイルスはパソコンだろうが我々人間だろうが容赦なく蝕んでいく」
「大昔のマルウェアのように、 隣人がいきなりよくわからない画像データに置き換えられたら恐ろしいだろう?」
「だから、それを防ぐための仕事を僕とミソノさんはしていたんだ」
「ネットワークを常に監視し、コンピュータウイルスなど、この世界に害をなす因子を排除するシステム『虫』の運用、更新、保守をね」
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