菜々歌が閉じこめられたのは木造校舎の二階にある教室だった。飛雄と敬次が手分けして大工仕事にとりくんだ。二つある扉には南京錠を取りつけた。廊下側の窓は平たい板を窓枠に釘打ちすることで開かないようにした。

 問題は外に面した窓だった。内側から板を打ちつけても、なんらかの工夫で釘を抜かれるかもしれない。外から釘を打つのは足場がないため無理だ。

 けっきょく男たちはあきらめることにした。決死の覚悟なら飛び降りられなくもない。だが真下はセメントの犬走りだ。しかも日が落ちて暗くなりつつある。よほど運動神経が良くなければ怪我は免れないだろう。にこやかな顔をして飛雄は「無理ですよね?」と監禁する相手に訊いた。「あの展望台にくらべたら余裕ですね、まだ若いし」菜々歌はそんな返事を思いついたが、なんとか衝動をこらえて頷いた。

 教室は朽ちかけていた。教卓側はまともだが、後ろのほうは雨漏りでもしているのか天井も床も黴で黒ずんでいる。蛍光灯は外されており、そもそも電気が通じておらずコンセントを使えない。ランタンの形をしたLEDライトだけが唯一の光源だ。机をかき集め、その上に布団を敷いて即席のベッドとした。トイレに行きたくなったり、なにか問題が起きたときはスマートフォンで連絡するよう告げて男たちは立ち去った。

 充電ができないのでスマートフォンで暇を潰すわけにはいかない。室内とはいえ三月下旬、暖房がないと手が凍えてくる。菜々歌には布団に潜りこむしか選択肢がなかった。

(犯人は、雪乃さん?)

 黴と埃の匂いから努めて気を逸らしながら考える。敬次が目撃したのは誰だったのか。この辺りは誰も出入りができず、薬子なら背の低さですぐにわかる。他に女性といえば雪乃だけだ。けれど、雪乃には史郎を殺す動機がない。

 すると菜々歌の知らない第三者なのか。事情はわからないが史郎と同行した女がいたのかもしれない。指名手配されたことをニュースで知って口論になった。橋を渡れず、今頃は史郎の車かどこかで夜を明かすはめになっているだろう。いや、レインコートが本当に返り血への対策だったなら計画的犯行のはずだ。どうもしっくりこない。

 事件のことを考えだすと眠れない。一から百まで数え、百から一まで数えた。ぼんやりとしてきた頭で菜々歌はいつしか昔のことを思いだしていた。

 菜々歌の顔は整っているほうらしい。当たり前の優しさのつもりが、友人たちに言わせれば男子を勘違いさせるふるまいだったらしい。中学と高校で合計五人の男子たちから告白された。そのうち三人と、とりあえずお友達からという常套句で始めた関係は長くても四ヶ月で終わってしまった。

 違和感に耐えられなかった。目の前にいるこの男子は私のことを好きでいるらしい。なにか特別な存在だと思ってくれているらしい。けれど自分はなにも感じない。目と耳が二つずつ、鼻と口が一つずつのたいして面白くもない顔がそこにあるだけだ。

 アセクシャルという言葉を初めて知ったのは大学生になって友人から借りたマンガからだった。他人に恋愛感情や性的欲求を抱かない、そんな人が世の中にはいるらしい。

 自分を省みるとアセクシャルとは少し違うように感じた。小学五年生のとき祖父が亡くなった。長い闘病の末に病院のベッドで臨終を迎えた。母に連れられて見舞いに行ったとき、祖父に頭を撫でられているうちに涙ぐんでいた。自分でもどうかしたのかと思うほど胸が不安でいっぱいになり、祖父の膝にとりすがって泣いた。

 情が欠けているわけではなく、感情表現が許されていない。自分の中に暗い顔をしたもう一人の自分がいて、蛇口を緩めようとする手を押さえつけられる。ちょろちょろとした細い流れしかでてこない。熱い気持ちが迸って制御できなくなることを恐れている。

(ああ、もう)

 それからしばらくして菜々歌は婚活サイトに申しこんだ。会員登録時には身分証明書の提示を求められ、コンシェルジェが助言をしてくれる、格の高いところだ。

(もったいない)

 海亀史郎に展望台から突き落とされ、もちろん恐怖した。殺されると思って逃げた。スマートフォンが鳴っても即座に切り、電源を落とした。闇雲に歩き、どうやら追ってこないとわかると助けを呼ばなければと思った。スマートフォンの電源を入れようとして指が止まった。胸に込みあげた感情は「もったいない」だった。

 食事、映画、ショッピング、美術展、水族館。デート代はほとんど史郎が支払ってくれた。それでも時間は取り戻せない。史郎と出会うまで他の男たちとも時間を費やしている。一年が過ぎれば年会費だって支払わなければならない。親に打ち明けられない金を学生が稼ぐにはアルバイトをしなければならなかった。膨大な労力と時間がすべて無駄になる。

 菜々歌は普通に生きたかった。早く誰かと結婚して、平凡な家庭を築きたかった。玉の輿に乗って専業主婦として楽をしたいわけではなかった。若くて市場価値がある年齢のうちに売ってしまおうなんて馬鹿なことも考えなかった。ただ、普通ではない自分が普通になるには生涯の伴侶を手に入れるのが早道に思えた。

(それだけだったんだけどな)

 考えてみれば、もし初めから史郎が婚活サイトを利用して人殺しをたくらんでいたなら、名前くらい偽っても良さそうなものだ。ニュースで報道されたのは本名だろうから、史郎はただ結婚相手を探すべく婚活サイトを利用したのだろう。

 展望台で菜々歌の背中を押したのは、思わぬ好機に暴力衝動が目覚めてしまったのか。その意味では刺激した菜々歌が悪かったとも言える。史郎が殺されさえしなかったら、話しあっておたがいを理解し、やり直すことできたかもしれない。

(私、なに間違えたんだろ)

 ノックの音がした。

 初めは錯覚だと思った。木のきしむ音かなにかだと。だが、音はくりかえされた。菜々歌は視線を向けた。ノックの音とともに窓ガラスが振動している。あるはずのないところに少女の顔があった。

 幽霊の二文字が頭の中を過ぎった。ひやりとした感情が背筋を走り、それから菜々歌は頭をぶるぶる震わせると身を起こした。ベッドを下りて窓に近づく。

 窓枠に手をかけ、一気に開ける。命を救ってくれた相手がいた。

「こんばんは」

 灰月薬子が夜の挨拶をした。これは夢なんだろうか、まじまじと少女の顔をみつめながら菜々歌は「こんばんは」と応じた。長い睫毛、憂いのある目つき、市松人形を思わせる黒髪。けれど、なんだろう。姿は子供なのに顔は大人のようなアンバランスさがある。

 ひっぱって。そう言ってバンザイをするように少女が両手を挙げた。どうやら夢ではないようだった。窓の外を覗きこむと、薬子の足元に木製の梯子があった。高さが足りず、窓枠の位置に薬子の肩があった。これをよじ登るのは確かに難しいだろう。

 どうやら菜々歌にはまだ現実感が足りていなかったらしい。命じられるままに少女の両手をつかんだ。力を込めて引きあげながら「これって危なくない?」と思ったが、途中でやめるわけにもいかなかった。気づいたときには後ろへ転んでいた。悲鳴をあげ、薬子と半ば抱きあうようにして教室の床へ倒れた。

「ご苦労さま」

「危ない! 危ないって!」

「もう終わってるよ」

「死んじゃう! え?」

 菜々歌が身を起こすと、薬子は埃を払い落とすべく服を叩いているところだった。ドレープたっぷりな濃紫のワンピース、その上に深紅のケープコートを羽織っている。

「それじゃあ事件のこと話して」

「えっと、その」

「初めから話して、終わりまで来たらやめればいいから」

「そうじゃなくて」

「そっか、立ち話は疲れるか」

 椅子を二つ運んで、薬子は向かい合わせに並べた、片方に薬子が腰を落とし、さあどうぞとばかりに向かいの椅子を指し示す。

「そうじゃなくてね。薬子ちゃん、どうしてここに来たの?」

 落ち着け、と菜々歌は自分に言い聞かせた。床に手をついて立ちあがる。寒さを感じたのでアノラックを羽織った。不承不承に薬子の向かい側へ腰を下ろす。

「犯人を推理しに」

「だから、まだ中学生のあなたがどうして」

「いけなかった?」薬子は顔を斜めにした。

「お姉さんのことが心配だから。それだけのことなんだけど」

 ぐっと菜々歌は言葉に詰まった。世間の常識を説く言葉がいくらでも思いつくのに、それを口から解き放つことができない。少女の顔をみつめる。睨むような目つきをしている。本当にこの子は私を心配しているんだろうか。とてもそうとは思えない。けれどなにか、有無を言わせない張りつめた空気があった。この子の言うことに従わないと、とんでもないことになりそうな気がする。

「――わかった」

 小娘を相手に感じた怯えをごまかし、菜々歌は語った。史郎に誘われてドライブにでかけ、展望台で突き落とされた。薬子にみつけてもらい、るららテラスへ運ばれた。菜々歌は初めて知ったが、薬子はスマートフォンで飛雄たちを呼んだという。確かに薬子だけでは菜々歌を運べるわけがない。

 迎えに来るはずだった史郎は来なかった。敬次が史郎の車と不審者をみかけた。死体がみつかり、血痕からして他殺の疑いがあった。史郎が指名手配されていると知らされ、犯人扱いされた菜々歌はここに閉じこめられた。朝のテレビニュースは薬子も飛雄たちと一緒に視聴しており、おかげで菜々歌にとって気まずいところは詳しく話さずに済んだ。

「忘れてたけど、これ雪乃さんから」

 菜々歌の話が終わると、薬子は一枚の紙片を手渡した。メモ帳かなにかを破りとったものらしい。折り畳まれていた紙を開くと「いちばん後ろの窓」とだけ書かれていた。

 なんのことだろう。菜々歌が首を傾げていると、いつの間にか隣に少女の顔があった。足音も立てずに忍び寄ったらしい。「なんだ、そんなこと」薬子はそう言って、猫を思わせる素早いみのこなしで教室の後ろ、廊下側の窓へ近づいた。窓枠に薬子が手をかけると、がらりと音を立てて開いた。

「先に言ってくれれば梯子なんて使わずに済んだのに」

「どういうこと?」

「釘を抜いたのね。ここを抜けだせるように」

 そういえば外に面する窓をどうするか飛雄や敬次と教室内で話しあった。そのとき雪乃はこっそり廊下へ来て、釘を抜いたということか。廊下に工具箱を置き去りにしていたから釘抜きを手にとるのはたやすかっただろう。

 薬子が戻ってきた。椅子に座るのかと思えば上の空の表情で歩いている。瞼をほとんど閉ざし、思案顔で教室の中をでたらめに歩き回る。ぶつぶつと小さな声でつぶやき、ときどき頷いたり首をふったりしている。「わかんない」「ちがうの?」「めんどくさい」自問自答をくりかえしているのがかすかに聞きとれた。

「ゲームしましょ」

 足を止め、少女がふりかえった。ケープコートの裾がふわりと広がる。顔を斜めにし、悪戯でもたくらむかのような薄い笑みを浮かべている。

「私、犯人がわかった。誰を犯人だと思ってるのか当ててみて」

「あのね、薬子ちゃん」

 これは遊びじゃないの。続けるべき言葉が喉で止まった。おかしい。怖い。菜々歌は唾を呑みこんだ。闇に覆われた教室に少女の形をしたなにかがいる。

「質問して。私の推理と合っていたら頷く、違っていたら首をふるから。そうね、イエスでもノーでもない場合は首を傾げるね」

 説明しながら薬子は再び椅子に腰を下ろした。瞑想でもするかのように瞼を半分閉じ、わずかに顔をうつむける。

 菜々歌は何年か前に流行った「水平思考ゲーム」という遊びを思いだした。ある特異な状況について断片的な情報だけが明かされる。参加者たちは質問をくりかえすが、出題者はイエスとノー、どちらでもないのどれかしか答えない。それを手掛かりになにが起きていたのか明るみにするゲームだ。

「それじゃ、えっと」

 さて、どうしたものか。まずは基本的なことから詰めるべきだろう。菜々歌は深く息を吸った。心を落ち着けると、ゲームの始まりとなる問いを発した。

「史郎さんは誰かに殺されたの?」

 薬子は頷いた。イエスということだ。

 ――やりとりを交わし始めてから数分後。

 菜々歌は困惑していた。自殺でも事故でもなく、海亀史郎は間違いなく誰かに殺された。その人物はるららテラスにいる。るららテラスの住人、そして自分さえ含めて一人ずつ名前を挙げて確認した。それなのに誰も犯人ではない。そんなことがあるだろうか。

 あ、そういうことか。

「私の知らない人? るららテラスにこっそりいるってこと?」

 ――ノー。

「わかった、共犯! 二人とか三人とか、みんなで一緒に突き落としたんだ。もう、イエスでもノーでもないときはどちらでもないって答えるって約束したじゃない」

 ――ノー。

「そっか、大門雪乃さんだ! 鎌ヶ家は旧姓だから、戸籍上の名前で言えってことね。さすがにそれはズルいよ、普通はそんなこと気にしないってば」

 ――ノー。

「なにそれ、もう答えなんて……ちょっと待って」

 ある。たったひとつだけ、この不思議な状況を巧く説明できる答えがある。

 それなら、あの血痕はどういうことだろう。誰が殴ったのか。敬次が目にしたレインコート姿の人物とはどうつながるのか。時間帯が離れすぎている。ひょっとして――。

 しばらく考えに耽っていた菜々歌は、おもむろに顔を上げた。

「薬子ちゃん、お願いしてもいい?」

「なあに」瞑想しているような顔つきだった薬子が元の表情に戻った。

「そうね、まず……私を閉じこめてくれる?」

 菜々歌がそう頼むと、薬子は鼻をつままれたような顔をした。

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