るららテラスに戻ると、菜々歌はかつて保健室だった部屋にひきこもった。ベッドに腰かけ、横たわり、そうかと思えば室内を歩きまわり、再びベッドに腰かけた。さまざまなことが断片的に頭を過ぎった。史郎の家族に連絡すべきだろう。だが連絡先を知らない。そういうことは警察がやってくれるものだろうか。

 実家のことを思い浮かべた。父と母、年の離れた兄は今頃どうしているだろう。菜々歌は大学進学にともない川崎で一人暮らしをしている。遭難したことも、ここにいることも菜々歌は伝えていなかった。殺人事件に巻きこまれたと伝えたら、どんな顔をするだろう。

 気づけば昼食の時刻を過ぎていた。散歩でもしてこようかと考えた。あの渓流まで歩けない距離ではない。一本道だから迷うはずもない。もう一度、史郎の顔を目にしたい。

(そんなことして、なんになるの?)

 溜め息を吐いた。いつの間にか菜々歌は浅い眠りに落ちていた。

 目が覚めると夕方だった。あまり顔を見せずにいると心配をかけるかもしれない。ベッドから身を起こすと菜々歌は公民館へ足を運んだ。

 広間には薬子を除く全員が顔をそろえていた。ラトリーもいないということは散歩にでかけたのか。飛雄と敬次が熱心に話しこんでいたが、菜々歌の顔を目にするとハッとして話を止めた。雪乃がお茶を淹れてくれた。急須からお茶が注ぐことが一大事になったかのように誰も言葉を口にしない。

「あの、警察の方は」

 沈黙に耐えかね、菜々歌は口を開いた。「まだ橋を渡れないみたいだね。一時間くらい前に連絡があったよ」飛雄が答えた。大型テレビにはニュース番組が映っていた。都心に新しくできたショッピングモールの紹介をしている。固い雰囲気に気づかないふりをして菜々歌はしばらくそれを眺めていた。

「ちょっといいか」敬次が口を開いたのは、飛雄に脇腹を肘でつつかれた後だった。

「あの人を殺したの、春洲さんだろ」

 手の中の湯呑みが温かい。ぼんやりとした頭で、菜々歌は言われたことを咀嚼した。

「私が……え?」

 再び沈黙が下りた。渋々といった様子で飛雄が口を開いた。

「単純な話ですよ、僕らには動機がない」

 眠そうな目をした飛雄は淡々とした声で言った。

「いいかな、今の状況は推理小説でお馴染みのクローズドサークルです。橋が水没して、この辺りは誰も出入りができなくなった。春洲さんみたいに遭難でもしないかぎり外部の人間がやってくることはない。犯人はるららテラスにいる誰か。そして海亀史郎という人と個人的なつながりがあるのは春洲さんだけ。まあ、アリバイはみんな無いけどね。さっきまで話してたんですが、ほとんどバラバラに行動していたし、そもそも死亡推定時刻がわからないから事件がいつ起きたかわからない。誰が犯人でもおかしくないんだ。ああ、千香さんだけは確実なアリバイが……いや、ごめん、そんなのどうでも良かったですね」

 湯呑みをつかむと飛雄は一口お茶を飲んだ。

「誰でも機会があったけど、だからって見ず知らずの人を理由もなく襲ったりしないですよ。そんなサイコキラーみたいな奴はここにはいない。春洲さん、自首したほうが良い」

 真空のような間があった。さまざまな想いが菜々歌の胸を過ぎった。そうだ、たしかにそのとおりだ。誰かが史郎を殺した。不思議だ。保健室に閉じこもってあれだけ考えを巡らせていたのに、そんなことはちっとも考えなかった。

(私、悲しいんだ)奇妙な温かさを感じた。

(史郎さんを喪って、本当に悲しいんだ)

 ふと我に返った。六つの眼がじっと菜々歌の答えを待っていた。

「やってません」湯呑みを卓上に戻し、大きく息を吸う。

「あの、越木さんのおっしゃったことは確かにそのとおりだと思います。私が疑われてもしかたないのは理解できました。でも、本当にやってないんです。昨日はまだ少し足が痛かったし、るららテラスから離れてません。アリバイでしたっけ、そういうの証言してくれる人もいません。ですから……信じてもらうしかないんですけど」

「プライベートに触れるのはなんだけど」飛雄が口を開いた。

「春洲さんと海亀さんとの関係はどうだったの」

「関係ですか? それは」

 恋人です。そう言いかけて菜々歌は気づいた。そんなこと、とっくにこの人たちは知っているはずだ。

「質問の仕方を変えるか」横から敬次が口を挟んだ。

「春洲さん、なぜ展望台から落ちた」

 なぜ、今そんなことを? 首を傾げたが、菜々歌は答えた。

「千香さんに説明したとおりです。うっかり転んで、柵を乗り越えてしまって」

「蛟ヶ谷の展望台は行ったことがある。あそこの柵は確かに低い。乗り越えようと思えば女性でもできる。だがな、さすがに転んだ勢いで落ちるほど低くはない」

 敬次は飛雄に目配せをした。「もう言ってもいいよな」そんな声が聞こえた気がした。

「昨日の朝、平目さんから話があった。そこにツッコミ入れるのはやめておこうってな」

「なんの話ですか」

「展望台に来ました。恋人が柵を乗り越えて落ちてしまいました。探したけれどみつかりません。スマフォも通じません。そんなとき、まともな大人ならどうする」

 足元に亀裂が入る音がした。菜々歌はようやく気づいた。自分がどれだけ拙いことをしていたのか、崖っぷちの道だと知らずに歩いていたことを思い知らされた。

「警察に知らせるだろう。山狩りだってするさ。女子大生が行方不明、警察は地元消防団や猟友会などと協力して捜索中。平目さんはニュースサイトやネット掲示板なんかも調べたらしいが、そんな話はどこにもなかった。春洲さんが遭難したことは泥まみれの姿からして疑わなかったさ。だったら怪しむべきは男のほうだ。そいつは通報しなかった。恋人の命が危ないってのになにもしなかった」

「ちがう、史郎さんは」でてこない。言い訳が思い浮かばない。

「なにかの間違いです。きっと史郎さんにも事情があったんです。だから、その……」

「突き落とされたんじゃないのか?」

 敬次の言葉は銃弾のようだった。それは菜々歌の胸を撃ち抜き、風穴を開けた。

 ふざけ半分だった。鉄棒で前回りでもするかのように、手すりに腕をついて身体を持ちあげた。爪先がぶらぶらと揺れた。きっと史郎は慌てるだろう。危ない、早く下りてと父親のようにたしなめるだろう。そう思いながらふりかえった。

 恋人の顔があった。史郎は微笑んでいた。イタリア料理店でパスタを褒めたときとも、アカデミー賞を受賞した映画の感想を口にしたときとも違う笑顔だった。何時間もの追跡の果てに獲物を捕まえた猟師のように悦びに震える顔。次の瞬間には背中を押されていた。

「これを見てください」

 飛雄はスマートフォンを操作していたが、それを座卓越しに菜々歌へ手渡した。

「言わないでおこうって千香さんが提案したのは、もうひとつあったんです」

 大手新聞社のニュースサイトだった。見出しに「SNSで知り合った女性に暴行、男は逃走か」とあった。出会い系サイトで知り合った二人の女性を殴り打撲などのけがを負わせたとして神奈川県警は横浜市に住む会社員、海亀史郎(25)を指名手配した。連絡が取れなくなっており、警察は逃亡を図ったとみている。

「昨日の朝、テレビでも報道されました。顔写真も映ったんですよ。わざわざ春洲さんに確認してもらいましたけど、本当は死体をみつけたとき誰なのかすぐにわかったんです」

「おまえ、騙されてたんだよ」吐き捨てるような口調で敬次が言った。

 菜々歌はようやく理解した。昨日の夕食時、テレビを点けようとした薬子を飛雄が咎めていた。食事中はテレビ鑑賞をしないルールがあったわけではなかった。海亀史郎の指名手配に関するニュースが放送され、菜々歌の目に触れるのを恐れたのだろう。

 飛雄たちはそれほど徹底して隠そうとしたわけではなかったのだろう。スマートフォンを介してニュースサイトなどから知ったかもしれない。結果的に菜々歌は気づかなった。自分だけが空回りをしていることに。

「あんたの恋人がここに来たら、俺たちは問い詰めるつもりだったんだ。ごまかしたり、暴れたりするようなら警察を呼ぼうとか、そんな覚悟をしてた。俺たち中途半端だったな。交代で道路を見張るくらいのことをすべきだった。すまん、春洲さんにも初めから話しておくべきだったな。そうしていれば、こんな間違ったことにはならずに済んだ」

 苦悩するように目を伏せ、敬次はますますモアイじみた顔になった。

「やってません」

 うつむいたまま菜々歌は言った。ニュースサイトの画面を映すディスプレイが暗くなった。顔を上げ、菜々歌は男たちの顔を睨んだ。

「本当に私は殺してないんです」

 それでいいですよ、と飛雄が口を開いた。

「そう主張したければ別に良いです。でも、僕らが春洲さんを信じられない状況というのは理解してもらえますよね」

「どういうことですか?」

「申し訳ないですけど、閉じこめさせてください」

 顎鬚を撫でつつ、明日の天気でも心配するような口ぶりで飛雄は言った。

「橋はまだ通れない。警察は来ない。僕らが心配しているのは被害の拡大です。まさか連続殺人が起きるなんて本気で思ってませんよ? でも、万が一ということがある。大の男でも寝込みを襲われるのは怖いんですよ」

「私が犯人なら、史郎さんの車を覗いてたのも私ですよね。レインコートはきっと返り血を浴びても平気なように着た、つまり計画的犯行。でも橋が通れなくなったことを私は知らされてました。間違いなく疑われる状況なのに、どうして私は殺したんですか」

「えっと、」飛雄は目を白黒させて絶句した。考えていなかったらしい。

「じゃあ私が史郎さんを殺したとします。だからって、みなさんまで殺す理由なんて無いじゃないですか。皆殺しにして口封じするってことですか?」

 飛雄は達磨のように目を丸くした。考えていなかったらしい。

「やりすぎじゃ……」

 蚊の鳴くような声がした。泣きだしそうな表情の雪乃が敬次の袖をつまんでいた。

 わかりました。長い沈黙を挟んで、菜々歌は深い溜め息を吐いた末にそう言った。

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