六
結果は初めからわかっていた。スプリングコートを着た青年は仰向けに倒れ、渓流に右足の脛を浸している。凍えそうなほど冷たい雪解け水にトレッキングシューズが洗われ、スラックスが濡れて黒ずんでいる。それなのに動こうとしない。細い眉、やや尖った唇。神経質そうな顔立ちの青年は瞼を半開きにしている。その奥にある瞳は微動だにしない。
だから答えはわかりきっていた。青年の右手首に指先をあてていた飛雄が立ちあがり、無言で首を左右にふっても覚悟はできていた。それなのに、冷たいものを一気に呑みこんだような気持ちの悪さが胸に広がった。
「どうだい」
敬次がふりかえる。その隣、杖を手にした雪乃が夫の肩へすがりつくようにして死者を見下ろしている。
どうしようか。菜々歌は迷った。もっと近づいて、腰を落として、まじまじと近くから観察すべきか。人違いかもしれない。他人の空似かもしれない。そもそも私はこの人の顔をきちんと思いだせるほど親しかっただろうか。
迷いながらも菜々歌は頷いた。海亀史郎は死んでいた。
死体を発見したのは飛雄と薬子だった。朝食後、橋の様子を確認すべく飛雄は車ででかけた。薬子は興味本位でついていったらしい。
橋は依然として水没したままだった。その帰り、助手席で車窓を眺めていた薬子が声をあげた。木々の隙間から渓流をかろうじて望むことができた。倒れている人影があった。
橋へ行くときにも気づいていたが、赤いスポーツカーが路肩に駐車していた。車の近くに脇道があった。土が剥き出しの山道だ。アップダウンが激しく、曲がりくねって見通しが悪い。そんな道を苦労しながら歩くと渓流にでた。間違いなく人間であることを確認し、飛雄は敬次に連絡した。
敬次のワゴン車に雪乃と菜々歌も同乗した。敬次によれば、赤い車の位置は昨日の昼過ぎに見かけたときと同じ位置のままだった。渓流とは反対方向の山道から見かけたという。菜々歌は車窓を覗きこんだ。赤い車は間違いなく史郎のものだった。
敬次たちを待つ間に飛雄は警察への通報を済ませていた。死体はそのまま動かさず、犯行現場を荒らさないよう命じられた。薬子は飛雄の車に残し、四人で死体を囲んだ。飛雄が脈をとって死亡を確認した。
「千香さんが写真を送れって」
菜々歌の背後で声がしていた。飛雄が敬次に相談しているようだ。
「ほっとけ」
「死亡推定時刻を調べたいんだってさ」
「ドラマの見過ぎだ、警察にどやされるぞ。事故なのにそんなもん要らんだろ」
菜々歌は顔を上げた。目の前は崖がそびえている。せいぜい四、五メートルくらいか。アクション俳優なら平気で飛び降りてみせるだろうが、素人が転げ落ちたなら話は別だ。こそげとったように土の色が一部変わっているのは滑落した跡だろう。
「事故じゃないよ」
「あ? そうか、血痕か」
史郎の車から脇道へ十メートルほど進んだところに大小いくつかの血痕があった。血は乾ききって赤黒く変色していた。
死体は前髪や額が血に塗れている。転落したとき頭をぶつけたのか、それとも誰かに殴られたのか、素人には見分けがつかない。しかし血痕のことを加味すれば話は別だ。
菜々歌は視線を上げた。死体の真上、山道があるあたりは藪が茂っていた。藪へ突っこんで崖を落ちるとは考えにくい。何者かに追われていたのでもないかぎり。
史郎は車を運転していて、山道に誰かみかけたのではないか。途中で道に迷ったので、この先にるららテラスが本当にあるか心配になっていた。車を駐め、山道に入り、何者かに話しかけた。そして――理由はわからないが――相手は豹変し、襲いかかってきた。
史郎は頭を殴られ、流血した。山道に血痕が落ちた。本来なら車のほうへ逃げるべきだろう。相手に道を塞がれでもしたのか、史郎は山道を奥へ逃げた。藪の中へ身を隠そうとしたのかもしれない。崖があるとは知らずに足を踏み外して転落した。
(ころされた)
流れる水の音が大量の蝿の羽音のように聞こえる。
(誰に?)
肩に手を置かれた。菜々歌が顔を向けると、間近に雪乃の顔があった。「車に……」戻りましょう。そう言いかけたようだった。ごくんとなにかを呑みこむようにして雪乃は言葉を途切らせた。
菜々歌は直感した。この人は恐らく会話が苦手なのだろう。それでも私のことをみかねて、勇気をふりしぼって声をかけてくれた。
「大丈夫です」笑顔を浮かべて、肩に置かれた雪乃の手に菜々歌は自分の手を重ねた。
「そうですよね。ここ寒いし、早く戻らないと風邪ひいちゃう」
努めて明るい声をだす自分がまるで他人のようだった。皮を被って春洲菜々歌という人間を演じている気がした。
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