通話を終えた飛雄は、菜々歌に次のように説明した。るららハウスから人里へは一本の道路しか通じていない。その途中に川を渡るための橋がある。昨夜の豪雨の影響で水位が上がり、橋が水没した。車はもちろん、流れが速いため泳いで渡ることすら無理だという。

 この辺りでは晴れたが、上流の地域で雨が降り続いている。例年よりも早い春の訪れで雪解けにより水かさが増しているのも一因らしい。時間が経って水が退けば橋を渡ることができる。ただしそれがいつになるかは予測がつかない。過去にも似た出来事があった。そのときは秋の大型台風による影響で、水が退くまで丸一日を要した。今回は条件が異なるので、もっと時間がかかるかもしれない。

 千香はるららテラスへ戻るのをあきらめ、知人宅に身を寄せているという。史郎はどうなっただろう。菜々歌はスマートフォンからメッセージを送ったが、いつまで待っても返信はなかった。それどころか既読の状態にさえならなかった。

 夕方、菜々歌は一心に包丁でジャガイモの皮を剥いていた。かつて公民館だった建物の炊事場で夕食の支度を手伝っていた。

「ひょっとして、あれだったのかな」

 皮を捨てる大きな籠を床に置いている。それを挟んで向かい側に若い男が座っていた。ついさっき大門敬次と名乗りを受けた。彫りが深く、イースター島のモアイ像を思わせる顔だ。半袖のシャツから伸びる腕がたくましく、ジャガイモがずいぶん小さく見える。菜々歌の倍近い速さで次々と皮を剥いていく。

「海亀さんだったか? その人の車、見たかもしれないな」

「赤いスポーツカーでしたか」

 そんな感じだったなと敬次は縦に首を揺らし、後ろをふりかえった。「雪乃は見なかったか」コンロの前で圧力鍋の蓋を閉めようとしているエプロン姿の女性に声をかける。

 女性は静かに首を左右にふった。垂れ目で大人しい印象だ。そういえば、この人の声をまだ耳にしていない。鎌ヶ家雪乃という名前すら敬次から紹介された。二人は婚姻届けの提出を済ませた夫婦だが、夫婦別姓を希望しているため差支えのない場では雪乃は旧姓を使うのだという。

「畑の様子を見てきた帰りに見たんだ」

 この近くに畑があり、二人はキャベツや大根、ネギ、里芋などを育てている。農家と呼べるほど大規模ではなく、知り合いにお裾分けをする程度だという。包丁を繰る手を休ませないまま敬次は語り続けた。

「ただね、車のそばにいたのは女だった気がする」

「顔は見なかったんですか」

「レインコートを着てたんだよ。フードを被っていて顔が見えなかった」

 今日は薄曇りだったものの雨は降らなかった。露骨に怪しいと菜々歌は感じた。

「遠かったし、すれ違っただけだから勘違いかもしれんな。とにかくそのときは女だと思ったから、海亀さんとは違うなと思って通り過ぎたんだ」

 敬次は山道を通っていた。赤い車は橋へ続くアスファルト道路の端に駐めてあり、木々の隙間から敬次は目にした。女は車窓から中を覗きこんでいたという。三十メートルほどの距離があり、気にはなったものの誰か迷いこんだだけだろうと敬次は通り過ぎた。

 この時点で敬次と雪乃はまだ橋が浸水したことを知らされていなかった。知っていたら、迷いこんだよそ者が帰る道を失って途方に暮れているかもしれないと声をかけただろう。

「何時頃でしたか」

「昼飯の後にでかけて……ざっくり二時前後だよ」

 菜々歌はとまどった。千香から橋が水没したと連絡があったのは十二時頃だった。遅くともそれまでには橋を渡っていたことになる。スマートフォンを確認することすらせず、史郎は二時間もなにをしていたのだろう。

「よせ、俺がやる」皮を剥きかけのジャガイモを放るようにして敬次が立ちあがった。

 小皿料理をのせた長手盆を雪乃が運ぼうとしたところだった。敬次が半ば奪いとるようにしてお盆を受けとる。

 菜々歌は我知らず流しのほうに目を向けた。アルミ製の赤銅色した杖が斜めに立てかけられている。幼い頃に雪乃は交通事故に遭ったという。その後遺症で歩くときには杖を使う。ちょっとした移動は問題ないが、長い距離や段差があるところは杖が要るのだという。

「こういうときって、どうしたらいいんでしょう」

 眉を曇らせながら菜々歌は皮を剥き終わったジャガイモをまたひとつボールに入れた。

「警察に通報したところで今はどうせ来れないしな。スマフォは充電が切れたとか、ひょっとしたら故障してるのか。明日の朝まで様子を見ても良いんじゃないか」

 そう言いながら敬次はお盆を両手に炊事場をでていった。エプロンの胸元をつかみ、憂い顔をした雪乃がそれを見送った。


 ロールキャベツ、小松菜のおひたし、菜の花和えのサラダ。座卓は春めいた品々で溢れかえっている。菜々歌の労働の対価はスパニッシュオムレツに生まれ変わっていた。

 さっきまで薬子もいたが、食事を終えると姿を消した。リモコンでテレビを点けようとして飛雄に咎められていた。きっと食事中はテレビ鑑賞をしないルールなのだろう。

「るららテラスなんて名前、なかったんだ。平目さんが勝手につけたんだよ」

 酔っているのだろう、缶ビールを無意味に揺らしながら敬次が呆れ口調で言った。

「まあ、いいじゃないですか。民泊でお金が入るようになりましたし」

 飛雄がなだめる。こちらも頬を赤くさせているが、まだ缶ビール一本さえ飲みきっていない。アルコールに弱いたちなのか。

 二人はぽつりぽつりとシェアハウス成立の経緯を語った。越木飛雄は大学こそ農学部に進んだものの、次第に工学方面へ興味が傾いた。農業機械に関する特許をいくつか個人で取得、使用料でまとまった金を稼いだ。大学卒業後は気ままなバイト暮らしをしていたが、敬次の結婚式に招かれたことを機に交流を再開、田舎暮らしの夢に賛同する。実家が裕福な飛雄はこの辺りの土地を買い、いまや引きこもり同然の日々を過ごしているという。

 大門敬次は飛雄にとって大学の研究室の先輩にあたる。大手食品会社で研究者としての仕事を得て雪乃と職場結婚した。自給自足の生活を送る夢を捨てきれず、飛雄との縁もあり三十代を目前にして退社、この土地へやってきた。

 このあたりは三十年ほど前まで村があった。限界集落から老人たちが姿を消し、廃墟だけが残された。公民館だった建物を改修し、敬次と雪乃は二階に、飛雄と薬子は一階に部屋がある。小学校のほうをリフォームしたのは千香が来てからだという。どういう縁なのか菜々歌が尋ねると、敬次は「俺は知らんよ」と言い放ち、飛雄も首を傾げた。

「いつの間にかって感じでしたね。いや、感謝はしてるんですよ、たまにお客さんが来て交流できるのは刺激になって良い。ただ僕らは採算なんて度外視でのんびりしたいから、千香さんとは考えが違うなと思うことはある」

「いや、俺は働き甲斐があるほうがいいぞ。のんびりしてるのはおまえだけだ」

 憤然とした表情で敬次が里芋を口に捻じこむ。ラトリーが物欲しそうな顔でそれを見上げている。座卓に飛び乗っておかずを盗み食いしないかと菜々歌は冷やひやしていたが、気まぐれなようでこの犬はちゃんとそういうところはわきまえているらしい。

「いろんな生き方があるんですね」

 まだ十九歳の菜々歌はサイダーを満たしたグラスを口元に寄せた。続きの言葉は口にせず、甘い炭酸飲料と一緒に喉の奥へ流すことにした――私は普通の人生がいいなあ。

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