翌朝、七時過ぎに菜々歌は目が覚めた。いつの間にか布団に千香が潜りこんでいて驚いた。この部屋にベッドはひとつしかないのだから当然と言えば当然の帰結だった。

 無事を伝える菜々歌のメッセージに、夜の間に史郎から返事があった。今日、車で迎えに来てくれるという。るららテラスの場所はネット検索でわかったそうだ。シェアハウスとしてではなく、民泊として案内するサイトがあった。初夏から秋まで登山客向けに宿として営業しているという。

「私が作ったサイトだね」朝食を運んできてくれた千香が自慢げな顔をした。

「買い出しのついでに乗せてってあげようかと思ってたけど、それなら大丈夫か」

 るららテラスの住人たちは交代制で買い出し当番を務めるという。今日は千香の日で、朝食を終えると千香はでかけた。一人残された菜々歌は二度寝した。目が覚めたときには十二時近くになっており、史郎から新しいメッセージが届いていた。

〈道に迷ったかもしれない。遅れると思います〉

 大丈夫だろうか。そういえば昨晩はひどい雨だった。菜々歌が窓に目を向けると、薄い雲に覆われていた。雲越しに太陽が輝いており、少なくとも雨が降っているようではない。

 他人の服はどうも落ち着かない。菜々歌は服を着替えた。泥まみれだったはずだが洗濯してくれたらしい。転んだときにぶつけた膝は青痣ができており、腕や足首にはいくつも擦過傷があった。昨日からトイレとの往復くらいで寝てばかりだった。少し体を動かしたい。ゆっくり歩くぶんには足も問題ないことを確かめ、菜々歌は廊下にでた。

「ラトリー、お座り」

 男性の声が聞こえた。窓が土埃で汚れていて見えづらいが、外に誰かいるようだ。

 玄関をでると広場があった。土が剥き出しで、ところどころ雑草に覆われている。昨夜の雨の名残りで、あちこち水溜まりができている。遠くに鉄棒や登り棒、地面に埋めたタイヤの列があった。かつてはここを児童たちが駆け回っていたのだろう。

「お座り!」

 若い男性がいた。三十代くらいだろうか、顎まわりに髭を生やしている。ラトリーと呼ばれた犬に男はくりかえし「お座り」と命令するが、犬はそっぽを向いていた。

 菜々歌はたじろいだ。あまり犬は好きではない。体高は五十センチくらいか。全身が真っ黒で、毛が短く痩せた身体つき、耳が羽根を広げたコウモリのような形をしている。

「ラトリー、お座り」

 静かな声がした。男の声ではない。声の方向に目をやり、菜々歌はハッとなった。赤いケープコートを着た少女が立っていた。男と犬を離れたところで見守っていたらしい。犬が渋々という表情でお座りをしてみせた。

「もう大丈夫なんですか、えっと、はる……」

 男がふりかえった。作務衣の上にどてらを羽織っている。足元は素足に下駄だ。

「おかげさまで。春洲です、春洲菜々歌」

 会釈する菜々歌の横で、ラトリーのリードを手にした少女が歩きだす。「待って」とっさに菜々歌は呼びかけたが、少女と犬はみるみるうちに遠ざかっていった。

「あの、ありがとう! 助けてくれて、本当にありがとー!」

 菜々歌は大きく手をふった。少女が見ていないのはわかっていたが、そうしないと気が収まらなかった。「すみませんね」髭もじゃの男が頭を掻きながら言った。

「ぶっきらぼうなところがある子で」

「どこに行くんですか?」

「いや、帰るだけですよ。さっきまで散歩してましたから。あれはウィペットとかいう品種で、狩猟犬だから最低でも一日に一時間は散歩しないとダメみたいで。春洲さんをみつけたのも、散歩の途中で逃げたラトリーを探していたからだそうです」

「だったら、ラトリーの元気に感謝かな」

「あの犬は本当に気まぐれで。今日も薬子が散歩にでたんですが――ああ、あの子は灰月薬子という名前で――また逃げられて。僕も手伝って探しまわったんですよ」

 いやあ、ひさしぶりに労働した。男は苦笑いしており、不快そうな表情ではなかった。

「薬子ちゃんの言うことなら従うってわけでもないんですね」

「女の子の歩く速さじゃ満足しないってことかな。マガトがいればなあ」

 終わりのほうは独り言のように小声になった。マガト? 人の名前だろうか。そうだとすると変わった名前だ。

「熊がでたりはしないんですか」

 犬を連れているとはいえ、大型の獣に襲われたら危ないと菜々歌は思った。

「目撃情報はありますが、年に数件くらいかな。人が襲われたなんて話は聞かないですね。猿とか猪とか鹿とか、あっちこっちで話は聞きますけど、ここらは大丈夫ですよ」

 話すのを不意にやめ、思いだしたように男は頭を下げた。

「申し遅れました、僕は越木飛雄と言います」

 耳に覚えのある名前だった。買い出しにでかける前、なにかあったときのためにと千香は電話番号を二つ教えてくれた。一つはもちろん千香、もう一つがこの人の番号だった。

 改めて菜々歌も自己紹介をした。薬子は中学一年生で、飛雄は伯父にあたるという。

「春休みだから姪御さんが遊びに来てるんですね」

「えっと」飛雄が唇をへの字に歪めた。「そうだね、そんな感じ」

 なにかごまかされたような。追求すべきか菜々歌が迷っていると、低い音がした。「失礼」飛雄が作務衣の内ポケットからスマートフォンをとりだし通話を始める。かすかに聞こえる声からして、相手は千香らしい。

「帰れなくなった?」

 飛雄が目を丸くした。髭もじゃの達磨そっくりな顔になった。

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