敬次に襲いかかった雪乃が取り押さえられた。そう知らされたのは、薬子とのゲームから二時間余りが過ぎた後だった。

 教室をでた薬子に廊下側の窓を開かないようにしてもらった。忘れ去られたように雑巾が廊下に落ちており、それを窓枠の合わせ目に捻じこむことで固定した。薬子が去った後、菜々歌は飛雄に電話した。雪乃が敬次を襲うかもしれないと訴えたが、飛雄は酔っているらしくまともな返事がなかった。

 代わりに頼ったのが千香だった。薬子とのゲームのことを明かすとややこしくなるため伏せた。そのせいか菜々歌の説明はしどろもどろになった。「落ち着いて」と励ます千香に、けっきょく事件について自分の知ることを頭から説明しなおした。「わかった」という一言だけを残して通話が切れた。

 後になって教えられたことだが、千香は深夜にもかかわらず知人宅を飛びでて、るららテラスへ車を走らせたらしい。タイミングよく水は引いており、橋を渡ることができた。元公民館の広間へ足を踏み入れると、酔いつぶれて大の字になった飛雄が眠っていた。平手打ちと足蹴りで飛雄を起こし、二人で外にでた。

 間一髪だった。公民館脇のカーポートに敬次と雪乃の姿があった。敬次は頭から血を流しながら崩れるように地面へ倒れ、それ以上の打撃に怯えるかのように手の平を雪乃のほうへ突きだしていた。杖をふりあげた雪乃は、それまで千香が一度も目にしたことのない凄愴な顔をしていた。飛雄が手にした懐中電灯で顔を照らされると、雪乃は憑き物が落ちたように杖を手から落とし、へなへなと膝から崩れ落ちた。

 薬子は千香に頼まれ、再び木造校舎へ足を運んだ。窓枠に捻じこんだ雑巾を外してもらい、ようやく菜々歌は教室からでることができた。「あとで結果を教えてね」そう薬子に頼まれた上で、公民館の広間へ足を運んだ。

 千香が保健室から持ってきた救急箱で敬次は手当てを受けていた。ラトリーが千香の手助けをしているつもりなのか敬次の手の甲を舐めていた。飛雄はなぜか正座させられていた。敬次の傷はたいしたことがないらしく、千香に事情を訊かれるとしっかりした口調で答えた。水が退いたか、もう一度確認しておきたい。そう雪乃に懇願されて二人で外にでて、車に乗りこもうとしたところを襲われたという。

 話しながら敬次はしばしば妻のほうに目をやった。座卓にもたれかかり、萎れた花のように雪乃は崩れた姿勢で座ったまま身動ぎすらしなかった。

「さて」テレビの横に仁王立ちした千香がステンカラーコートの裾を翻らせた。

「名誉のため言っとくけど、真相に気づいたのは私じゃないの」

 菜々歌のほうに視線を向ける。飛雄が、千香と菜々歌の間で忙しく視線を往復させた。

「だけど私から説明しちゃいましょう。とても単純な推理です」

 眼鏡のブリッジを中指で押しあげ、千香は不敵な笑みを浮かべた。

「昨日の午後二時前後、敬次さんは被害者である海亀史郎の車を覗きこむ不審な女を目撃しています。よそ者でなければ、この女性は誰の可能性があるでしょう」

「雪乃さんか春洲さんだね。薬子は背が低いから見間違えようがない」

 正座したままの飛雄が答えた。

「そのとおり。じゃあ、ここから春洲さんの視点で考えてみて。その不審者は自分じゃない。だとすれば雪乃さんに間違いない。でも、なんのために車を覗いてたのかなあ?」

 下唇に人差し指をあてて首を傾げる。まさか菜々歌を真似ているつもりなのか。

「そこで春洲さんは発想を転換したわけ。なにか目的があって覗いたんじゃなく、誰かに目撃されること自体が目的だったのでは?」

 。そうつぶやきながら飛雄が達磨のように目を丸くした。

「そのとおり!」ご名答とばかりに千香が指を飛雄に突きつけた。

「もし大門さんが殺されていたら、どう解釈されたか。ミステリだと、きっと大門さんはなにか犯人特定につながりそうなまずいものを目撃したからだってことになったよね。それが雪乃さんの狙ったストーリーだった」

 ごほん、と千香はわざとらしい咳をした。

「理由は知らないけど、雪乃さんは大門さんにずっと殺意があった。たまたま春洲さんが遭難して海亀がやってきた。この状況を利用して大門さんを殺し、その罪を春洲さんに着せる計画を練ったわけ。まず海亀を殺した。レインコートを着て誰なのかわからないようにして、大門さんを待ち伏せて、車を覗きこんでいるところをわざと目撃させた。あとは本命の大門さんを殺せば、どちらの殺人も春洲さんの仕業に見せかけることができるってわけ。ただ計算違いがひとつあった」

「僕らが春洲さんを閉じこめたことか」

「そう、閉じこめられてちゃ春洲さんが大門さんを殺したことにできない。朝には水が退いて警察がやってくるかもしれない。それまでに雪乃さんは本命のほうの殺しをしなくちゃいけなかった。だから雪乃さんはこっそり釘を外して教室の窓を開けられるようにした。いつでも春洲さんは外に出られたんだってことにしたわけ」

 春洲さんはそこから逆算して雪乃さんのたくらみを悟ったんだけどね。そう付け足す千香に、菜々歌はあいまいに頷いてみせた。

「あの、ちょっと訂正させてください。犯人は雪乃さんじゃないんです」

 千香が目を丸くした。たしかに驚くだろう。教室に閉じこめられていたときはそこまで説明する余裕がなかった。

「史郎さんを殺したのはなんです」

 それこそが薬子とのゲームで菜々歌が最後にたどりついた答えだった。るららテラスにいて、そして住人たちと菜々歌を除いて人を殺せそうな者、いや、生き物は他にいない。

 菜々歌の推理はそこからスタートした。昨日の昼、ラトリーは散歩中に逃げたと飛雄は言っていた。史郎を殺したのはそのときだろう。だとすれば午後二時にもなって史郎の車を覗いていた女はなにがしたかったのか。そこから逆算して雪乃のたくらみに思い至った。

「だって、そうじゃないですか。私はここに来てまだ三日目ですけど、雪乃さんがそんな恐ろしいことを計画できる人だとは思えないです。そもそも史郎さんがるららテラスへいつ姿を見せるかわからないんだから計画のしようがないし。朝のテレビニュースで史郎さんは指名手配されている人だと雪乃さんは知った。女性に暴力をふるったひどい人です。山道を歩いていたら急にその人に話しかけられた。雪乃さんは怯えて思わず杖で殴ってしまったんじゃないですか」

 恐らく史郎はるららテラスへの道を確かめたかっただけだろう。だが、気の小さい雪乃は過剰反応をしてしまった。

「史郎さんは倒れ、意識を失った。そして血痕が残った。想像ですけど、雪乃さんは逃げだしたんじゃないですか? 後になって戻ってみると、史郎さんの姿はなかった。渓流のほうで死体になっていた。頭を殴られたことで意識もうろうとなって転落したくらいに解釈したのかもしれませんね。とにかく人を死なせてしまったと知り、逃げ場を失った雪乃さんは逆にこの機会を利用しようとした」

 菜々歌は雪乃の肩に手を置いた。しかし雪乃は反応しなかった。ラトリーがくぅんと喉を鳴らした。

「いくら頭を殴られたからって、車があるのとは反対の方向に、しかも藪の中に突っこむなんてありえないです。あれはきっとラトリーに追いかけられたんですよ。史郎さんはたまたま目が覚めたところだった。熊かなにかが襲ってきたと勘違いしたんじゃないですか? 必死に逃げようとして、全力疾走して足を滑らせて藪に突っこんだ。崖から落ちて、打ちどころが悪くて死んでしまった。不幸な事故だったんです」

 泣きたいような気持が込みあげてきた。鼻を啜りながら菜々歌は言葉を続けた。

「ねえ、雪乃さん。二十歳にもならない私が言うのも変だけど、人生に間違いってあるんです。悪い男の人に騙されてたんだって私はわかりました。雪乃さんはなにがわかったんですか?」

 死人のように青白い顔をした雪乃の唇が、あえぐように動いた。

「ここで、しにたくない」

 敬次が呻いた。傷の痛みに呻いたのではないことを、ラトリーを除いた全員が察した。


 救急外来に行くか行かないかで一悶着があった。敬次が首を縦にふらず、千香が「知らないからね」と捨て台詞を吐いた。千香に目配せされ、菜々歌は一緒に外へでた。

 月のない夜だった。澄んだ夜空に星が美しい。木造校舎のほうへ肩を並べて歩いた。

「大門さんたち、どうするんでしょうね」

 かつて公民館だった建物をふりかえり、菜々歌は言った。「さあ、どうすんのかな」からかうような、他人事めいた口調で千香が答えた。

「物的証拠はないけど、雪乃さんが殺したんじゃないっていう春洲さんの意見は私も納得したよ。ラトリーみたいな狩猟犬って、逃げる相手がいると面白半分で追いかけちゃう習性があるんだよね」

 菜々歌は胸がざわつくのを感じた。なんだろう、千香の言葉のどこかがひっかかった。

「警察に突きだしたら雪乃さんは傷害罪ってことになるかな。でも大門さんのことだから雪乃さんのこと許しちゃいそうな気もするな。きっと二人でここをでていくことになるし、そうなると飛雄さんも人生設計やり直し。るららテラス、解散かあ。太陽光パネルを設置する話がまだ始めたばかりだから、タイミング的にはむしろ良かったかな」

 両腕を挙げ、千香は大きく背伸びをした。この人はいったい何者なんだろう。隣を歩く女の横顔を菜々歌はまじまじとみつめた。

「千香さんこそ、これからどうするんですか」

「私? そうねえ……私ね、ここが初めてじゃないんだ」

 ぽつぽつと千香は語った。かつて山陰地方の市役所に勤務し、村おこしや限界集落の活性化に携わったという。公務としてできることの限界を知り、大手のIT企業に就職した。そこも三年ほどで退職して自由の身となった。

「けっきょく千香さんって、なにがしたいんですか」

 ぶしつけすぎるかな、と思いながらも菜々歌は訊かずにいられなかった。「なんだろね」と千香は頭を左右に揺らした。

「いつか春洲さんもわかるよ。人は独りでは生きていけないって言葉の本当の意味が。ある日、どうしようもなく出会うの。理想の生き方って独りで探したって独りよがりにしかならないんだよ。とんでもない人を知って、自分の欠けているところに気づいて、本当の人生がそこから始まるの。ううん、始めさせられるんだよ」

「ロマンチックですね」

「そういう意味じゃなくて、もっと残酷な……まあ、いっか」

「けっきょくこれからどうするんですか」

「うーん、わかんない」

 飛雄くん次第かな。かすかに隣から聞こえた声を、菜々歌は聞こえなかったふりをした。


 またベッドを二人で使うのは気が引けて、菜々歌は二階の教室で眠ることにした。保健室をでて暗い廊下を歩く。ここも明かりが点かない。深夜の木造校舎だけに肝試しの気分だ。スマートフォンを懐中電灯替わりに恐るおそる歩を進めていると、隣から声がした。

「どうだった?」

 間近に少女の顔があった。飛び跳ねそうになるほど菜々歌は驚いた。広間での話し合いを説明すると、薬子は「ふうん」と関心があるような無いような中途半端な反応をした。

「ねえ、ひとつ教えて。マガトって、ひょっとしてお兄さんの名前?」

 一通りの説明を終えると、菜々歌は気になっていたことを口にした。昨日の昼、ラトリーにお座りを教えていた飛雄がつぶやいた名前だ。

「そうだよ、死んじゃったけど」

「え?」菜々歌はまばたきをした。そんなはずはない。

「私を助けてくれたとき、お兄さんとスマフォで話してなかった?」

 ――兄さんも、そう思わない?

 薬子の声が耳に蘇る。そう、だからこそ飛雄が口にしたマガトとは薬子の兄ではないかと想像した。菜々歌が意識を取り戻して瞼を開いたとき、薬子はスマートフォンを手にしていた。春休みを利用して薬子は伯父である飛雄のもとへ遊びに来ている。兄のほうは事情があって同行せず、自宅にいるのだろう。そんなふうに思っていた。

「聞いてたんだ」唇の端を歪めて薬子は微笑んだ。

「通り魔に刺されてね、死んじゃったの」

 名前は「真賀人」という字を書くという。打ち明けられた事情は次のとおりだった。先月、薬子は遅くまで学校に残っていた。これから帰ると連絡すると、真賀人は心配して迎えにでかけたらしい。二人が暮らす街では通り魔に少女が襲われる事件が続いていた。いつものように薬子が公園を通り抜けようとすると、黒づくめの人物が迫ってきた。暴漢と薬子との間に割って入ったのが真賀人だった。まだ高校一年生、十六歳だったという。

「ここにはね、ラトリーとお別れするために来たの」

 なんでもないことのように少女は言った。

「私、新学期から別の親戚の家にひきとられるの。その家だと飼えないから、代わりに伯父さんに面倒看てもらうため連れてきたわけ」

「寂しいね」

「別に」

 強がりだろうか。それにしては表情が変わらない。

「だって、あんなに散歩してたじゃない。伯父さんにひきとってもらうため来たのなら、伯父さんに散歩してもらわないと」

 薬子はしばらく菜々歌の言葉の意味を噛みしめるように目を伏せていた。やがて顔を菜々歌に向けると「そうかも」と言った。

「ここで暮らすほうがラトリーには幸せなんだって伯父さんに言われて、私は納得してたの。ラトリーの面倒を看てたのってほとんど兄さんで、私はあまり関心なかったから。でも、うん……そうなのかな」

 顔を上下に揺らす薬子は、年齢相応の少女の顔をしていた。ひょっとするとこの子も私と同じなのかもしれない。そんなことが頭を過ぎったが、菜々歌は口にするのはやめておくことにした。

「ご両親は?」

 兄が亡くなったというだけで親戚の家に引きとられるのはおかしい。そう思い、菜々歌は質問した。

「アメリカのどっか西のほう。ナントカ医学研究所にいるんだって。初めて兄さんと会ってから……もう四年も経ったんだ」

 薬子が指を折りながら言った。菜々歌が質問を重ねると特殊な家庭事情が見えてきた。

 真賀人の父親は妻に先立たれ、薬子の母親と再婚した。当時、真賀人は中学一年生。ハウスキーバーを雇って家事の大半を頼んだり、近所に住む真賀人の亡き母の友人がしばしば顔を見せに来たという。だとしても中学生と小学生の義兄妹に二人暮らしをさせるとは、世間の常識とかけ離れた家庭だったようだ。

「兄さん、ミステリオタクで。よく人の悩み事に関わったりしてて」

「まさかとは思うけど」ためらいながらも菜々歌は直感を言葉にした。

「教室で推理したのはお兄さん?」

「うん、私の中にいるの」隣を歩く少女が頷く。

 菜々歌は口ごもった。それ以上、なにを訊けばいいのかわからなくなった。

 デリケートな問題だ。まさか本物の幽霊がいるわけがない。まだ中学一年生、未熟な年頃だ。この子はきっと兄の死に精神的なショックを受けているのだろう。イマジナリー・フレンドのように、無意識のうちに灰月真賀人の人格を心の中に創造したのではないか。

 そう考えると、いろいろと説明がつく。恐らく薬子は真賀人の人格と自在に会話ができるわけではないのだろう。簡単な身振り、意思表示をかすかに感じとるのがせいぜいなのかもしれない。

 教室に来た薬子のふるまいを思いだす。菜々歌から事件について話を聞き、しばらく教室内を歩きまわりながら考えこんでいた。ぶつぶつと独り言をつぶやいていたのは脳内の兄とやりとりしていたのだろう。兄がどんな推理をしたのか探るのが面倒になり、菜々歌に代理として水平思考ゲームをやらせた。

 奔流のようにさまざまな考えが湧き起こる。ふと菜々歌は、薬子にみつけてもらったときの言葉を思いだした。

 ――いっそ食べちゃおっか。

 あれはどういう意味だったのか。菜々歌が目を覚まさなかったら、なにが起きたのか。

 気づけば階段まで来ていた。木製の手すりと踏み面の列が伸びていき、闇に溶けている。「じゃあ、おやすみ」菜々歌が階段に足をかけると木の軋む音がした。

 おやすみ。背後から返事があった。しかし立ち去る足音はしなかった。少女はまだそこにいる。いや、この子は音を立てずに動くのが得意だ。話は終わったのだから、きっといなくなっただろう。そうに違いない。階段をゆっくりと上がりながら、菜々歌は背後をふりかえらないよう努めた。

「あのね、お姉さん」

 ラトリーは殺してないよ。暗闇の底から、あどけない声が響いた。

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