6-4
宿を出たロスラフは、ユルゲンに先導されて街外れにある鬱蒼とした林道を歩いていた。
人家の明かりが遠ざかり周囲が木々に覆われると、いよいよ地図にない洞窟を進むような恐怖感が押し寄せてくる。
「こんなところがあったんですね。暗いから何か出てきそうです」
ロスラフは気を紛らすために一歩先を行くユルゲンに話しかけた。
木々の間から今にも魔物が出現しそうな雰囲気であった。
「街の人もこんな道のことは話していませんでした。この先には何があるんですか?」
「……ジルベルトはスラム街を練り歩いていてこの道を見つけた。私は一回しか通っ
ていないが、記憶にある風景とあまり変わっていないようだね」
ロスラフを振り返りもせずに説明くさく言った。
ユルゲンの言葉に触発されてロスラフは周囲を見回す。
だがロスラフの見える範囲には、懐中電灯の微かな光に照らされた灌木の茂みや名前を知らない木々が取り囲んでいるだけだ。
「昼間になれば何か見えるんでしょうか?」
「……そう思うなら、好きな時にまた来てみるといい」
考え事でもしていたのか遅れ気味にユルゲンの声が返ってくる。
昼間に来てみようかな、とロスラフが呟いた時、ユルゲンが立ち止まり懐中電灯の光を暗所での点検のように上下左右に揺り動かした。
「何かありますか?」
「いや。道を間違えないように、と思ってね」
「分岐路でもあるんですか?」
「そういうわけではないが、この森の奥にはスラム街からもあぶれた人非人達の根城があるという噂だからね。そちらの方へ迷い込まないように気を付けないといけない」
「どんな人たちなんですかね。街の掟でも破ったんですか?」
「そんな生易しいものではないだろう」
ユルゲンはそれだけ答え、懐中電灯を正面に戻して先導を再開した。
急に鳥肌が立ったような感覚でロスラフは後を着いていく。
しばらく体感的に直進していると、会話を欲しがったようにユルゲンが口を開いた。
「唐突な質問だがロスラフ君」
「はい……なんですか?」
不意打ちの問いにロスラフはゆっくりと訊き返した。
ユルゲンが顔の半分だけを見せるように振り向く。
「フリッカの事についてだが、どんな男性なら結婚相手に見合うと思うかね?」
「うーん、結婚相手となると両家族間の問題になりますから難しいですね」
遠回しに答えを濁した。
ロスラフの返答に呆れたようにユルゲンが顔を正面に戻す。
「フリッカはもう二十四歳だ。そろそろ相応しい男性がいてもおかしくはない。フリッカと仲の良いロスラフ君なら見合う相手がわかるんじゃないかね?」
「そうは言われましても、フリッカ自身の意思もありますから」
遠慮の体で確答を避けた。
ユルゲンから露骨な溜息が聞こえる。
「私はフリッカの事だけが気掛かりなのだ。ロスラフ君の政治活動に付き合ってばかりで自分の事はそっちのけだったろうからな」
「まるで僕が悪いみたいじゃないですか。反論は出来ないですけど」
「どうかね。誰かいないかね?」
「そうですね……僕の観点ではなんとも」
考えるふりをして責任を捨てるかのように言葉を返した。
君に聞いたのは間違いだったかな、とユルゲンは諦めてそれきり黙ってしまった。
ロスラフも不甲斐ない気持ちで言い訳もせずに口を噤むことにした。
時計の秒針二周ぐらいの時間、土を踏む二人の足音と木々の間を抜ける風音だけが場を占めていたが、出し抜けにユルゲンが足を止めた。
懐中電灯の光で暗闇の奥を照らしてロスラフの方へ顔を向ける。
「着いたよロスラフ君。ここだ」
ユルゲンの声に促されるようにロスラフは懐中電灯の光の先を窺った。
光の輪の中で亜麻色の穂をつけた芦の群生が夜風に揺られている。
「足元が見えづらいから気を付けて」
揺れる芦を見入るロスラフに注意を呼び掛けてから、懐中電灯を持たない手で胸ぐらいまである高さのある芦を掻き分け進んでいった。
ロスラフはユルゲンの作った道を辿るように両手で芦を掻き分けて随行する。
「この先には、池があるのだよ」
芦を退ける拍子に言葉を切りながらユルゲンが説明した。
「池ですか、それが父さん、の真相と何か、関係があるんですか?」
「見れば、わかる」
「そうですか」
無理に今すぐ聞き出す必要はないとロスラフは合いの手を返すに留める。
芦の群生を進むユルゲンの足が止まった。
ロスラフが背後から覗き見ると、ユルゲンの懐中電灯の光の先には芦で周りを覆われた小さく波立つ水面があり、その空間のみが月明かりに照らされぽっかりと空いていた。
「こっちに来たまえ」
ユルゲンは水際まで寄ると一歩左へ移動してロスラフを隣へ誘った。
微苦笑を返しながらロスラフはユルゲンの傍へ歩み寄る。
「そこで止まってくれ。ロスラフ君」
不意に指図すると、懐中電灯を持っていない方の手をロスラフへ出した。
手には月明かりの下でも黒々とした拳銃が引き金に指が掛かった状態で握られている。
ロスラフは驚く暇もなく、ユルゲンの顔へ訳を問う目を向けた。
「なんですか、これは?」
「見て分からんかね。拳銃だよ」
「……っ!」
ユルゲンの手にある拳銃の意味を遅れて理解したロスラフは、全身の筋肉が固まったように緊張した。
平然とした様子でユルゲンが言う。
「事件の真相を教えると言って連れてきたがね、実は真相というのが私自身なんだよ」
「……どういうことです?」
拳銃を前にして息を詰まらせながらもロスラフはかろうじて問い返す。
ユルゲンが懐中電灯を地面に落として拳銃を両手に持ち直した。
「君も鈍いね。ジルベルトの襲撃を計画したのは私だ」
「…………えっ」
信じ難い告白であった。
ロスラフは突きつけられた拳銃に怯えているのか、ユルゲンが父の事件の首謀者であることに驚いているのか、自分の感情が判別できなかった。
――ユルゲンさんが父さんを襲う計画を立てた? 僕に拳銃を向けて脅している?
悪夢だったとしても突飛すぎるよ。
「君も事件の真相を知らないままでは死に切れないだろう。死ぬ前に教えてあげよう……」
憐みを含んだ声音で訥々と話し出す。
ロスラフは話を遮る勇気がなく黙って耳を貸した。
「ジルベルトは人を惹きつけるカリスマ性を備えていた。国政に参加したいという夢を描いていた私にはとても魅力的な才能だったよ。
だが自分にはカリスマ性はなかった。そこで平民党に入党してジルベルトの才能を借りることにした。
初めは見向きもされなかった平民党がジルベルトの尽力で段々と支持者を増やしていき、スラム街で配給活動を始めた一〇年前はついに国政の議席獲得が現実味を帯びた」
ユルゲンは言葉を切り、思い出し笑いのように鼻を鳴らした。
「平民党が議席を獲得すれば、当然党首であるジルベルトは国政に参加できる。私の手の届くところまで議席が近づいたわけだ。そこで私はジルベルトの殺害を思いつき、実行に移した。もちろん自分が疑われない方法でね。知り合いの黒人を金で雇い、配給活動中のジルベルトを襲撃するように命じた」
ユルゲンの昔語りの体を成した打ち明けに、ロスラフは瞬間的に腑に落ちる。
――なぜ父が支持者ばかりのスラム街で黒人に襲われたのか。それは全てこの人の仕組んだことだったからなんだ。
強い憤りを感じると同時にユルゲンへの救い難い悲しみも滲み出て、無性に胸が痛んだ。
「首尾よくジルベルト殺害に成功した私だったが、国政に参加できたのはその一年の
み。
才能のない私では人々を惹きつけられず、平民党の支持は年々減少していった。
自分の力では到底議席獲得は無理だと悟り、ジルベルトの形見を利用することにした。それがロスラフ・シュラー、君だよ」
――利用。そうだ、僕はまんまとこの人に利用されたんだ。
ロスラフの中で頼り甲斐のあるユルゲンの人物像が粉々に砕け散る。
――父の意思を継ぐという熱意も、議席獲得という目標も、権利の平等を掲げた政治活動も、全てこの人の計画に含まれていたのか。
ユルゲンに対する篝火のようだった静かな怒りが、ついに猛火の如く滾った。
「私は次こそ国政に参加するため根回しを行った。それが有社党による平民党の吸収だよ。都合よく有社党の党首であるヨーゼフ・クローゼが君をえらく買っていたからね、五年のうちに平民党が議席を獲得できなければロスラフ君を有社党に入れて国政に出してくれるようにお願いしたんだよ。
そうして五年の歳月が経過し、選挙の勝敗に関係なく国政の議席を手の届く所まで引き寄せられた」
話が終わったのかユルゲンが息継ぎをするように言葉を止めた。
途端に不快感を覚えたように顔を顰める。
「ジルベルトの時と同じように雇った黒人に君の殺害を指示したのだが、仕事を放棄して逃げたようでね。自らの手を汚さなくてはいけなくなった」
――どう転んでも僕は殺される運命だったのか。
ロスラフは諦念に近い心境で池の水面を見つめた。
微かに揺れる水面に波打たせた銅板みたいな月が映っている。
凶弾で死んでしまうには惜しいぐらい明媚な光景であった。
――運命にちょっと抗ってみようか。
「ユルゲンさん」
スッと滞りなく声が出た。
なんだね、と無表情に問い返すユルゲンにロスラフは答える。
「月が綺麗ですね」
「他に言い残すことはないかね」
「言い残すことですか。そうですね……」
真剣に考える素振りをして、実際は辞世の句など思い浮かんでいない。
死なないで済むなら死にたくない、というのが本音だ。
けれども避け得るだろうか。何も術がなく、他に誰もいないこの場所で――。
目を瞑った。
夜風が少し肌寒い。
耳元で銃声が響いた。
――結局、抗う術はなかったのだ。
「クソっ。誰だ!」
ユルゲンの苛立った怒声がロスラフの耳に突如入ってくる。
「逃げろ。ロスラフ・シュラー!」
――――はい?
自分とユルゲンしかいない空間に何者かの声が闖入した。
ロスラフは慌ててユルゲンの方を見る。
ユルゲンは拳銃を地面に落とし、慌てた様子で周囲へ首をせわしく巡らせていた。
目の前の理解しがたい展開にロスラフの頭の中で雨後の筍の如く疑問符が連立する。
状況把握のために辺りを見回そうとしたロスラフの腰に、不意に何者かの手が触れた。
心臓を縮み上がらせて腰に触れている手を目で辿ると、月明かりに照り映える絹のような長い銀髪がなびいていた。
魅入ってしまいそうなほどに美しい銀髪は彼の記憶に印象強く残っている。
「リアンさ……」
「早く逃げろ!」
名を口にする前に腰を力一杯押された。
芦の群生へつんのめるロスラフの耳に、リアンの声が立て続けに入ってくる。
「頭を出さないようにして逃げろ!」
「は、はい」
有無を言わさぬ命令口調に背筋が正される思いで首肯する。
――よくわかんないけど助けに来たのかな、とロスラフは解釈をして芦を隠れ蓑にしてその場から姿を消すことにした。
ユルゲンの苛ついた声と銀髪が夜風になびくのを目の端に捉えたが、リアンの指示に従うことを第一にして背を屈ませて芦の海の中を進んでいった。
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