5-4

 議席の獲得が決まったロスラフはしばしの間フリッカと喜びを分かち合っていたが、受信機から別の放送が流れ始めたのを機に平静を取り戻した。

 喜びを隠せない様子のフリッカに祝杯を誘われたが、明日にしようと断り各々家路に就くことにした。

 フリッカと別れて事務所を後にし、ロスラフは市場にある酒屋へと向かう。

 父が生きている頃から続いている酒屋に着くなり、迷うことなく商品棚から一本のビール瓶を手に取った。

 そのビールは彼の父が生前気に入って飲んでいた銘柄だ。


「あれ。お客さんだね」


 逸る気持ちでビール瓶を会計へ持っていこうとしたロスラフに、店の裏側から出てきた店主が気付いて話しかけた。

 ロスラフは店主を見ると手にしていたビール瓶を差し出す。


「これください」

「これね。えーと……」


 店主が銘柄と瓶の大きさを確かめて値段を告げるよりも先に、ロスラフは財布をコートから出した。

 店主が値段を告げるタイミングで財布から同額を手に掴む。


「これでお願いします」

「丁度だね。まいどあり」


 支払金額の確認を店主が済ますよりも先にビール瓶をひったくるようにして受け取る。

 それでは、とだけ言ってロスラフは酒屋を出た。

 ビール瓶を袋にも入れずに両手で抱えたまま自宅のあるアパートへ急いだ。急いでいる彼の顔が少年のように綻んでいるのは議席を獲得した嬉しさだけではないだろう。


 待ちきれない思いでようやくアパートの自室の前に到着すると、両手に抱えていたビール瓶を右手に提げた。

 左手でコートから鍵を出し、鍵穴に刺し込んで捻る。

 解錠して鍵を仕舞うと一度息を大きく吸った。

 ドアノブを掴んで引き開ける。

 こんな嬉しい日の帰宅第一声はすでに決まっていた。


「ただいま」


 ――父さん。


 もちろん返事などない。

 けれども今日だけは父と祝杯を交わすと約束していた。

 死んでしまった父の姿は見えないが、胸の中にいる父に向かって報告する。


 ――議席、獲得できました。


 うおおおお、と父は諸手を上げて喜んでくれるかもしれない。

 やったなロスラフ、と頑張りを褒めてくれるかもしれない。

 これからが大変だぞ、と浮かれ気分に釘を刺してくれるかもしれない。

 父のいろんな反応を想像してから、ずっと伝えたかった言葉を送る。


 ――今までありがとう、父さん。


「……さあ、飲もう」


 照れ臭さを誤魔化すように言って部屋に入った。

窓の横に設えたタンスの上に写真立てが飾ってある。中には少年時代のロスラフと彼に笑顔を寄せるジルベルトの姿が何枚も写っていた。


「時間が掛かり過ぎだよね」


 ロスラフは写真立ての中の一葉を見ながら謝るような口調で呟いた。

 ビール瓶をテーブルに置くとタンスに近寄り、引き出しから栓抜きを取り出す。


 ――祝いの一杯だ。


 栓抜きをビール瓶の蓋に引っかけて一思いに手首を返した。

 次の瞬間、ビール瓶の口から白い泡が噴水のように溢れ出す。

 ロスラフは慌ててビール瓶の口に唇を付けた。


 ――そういえば。父さんもビールを開けるたびに泡を啜っていたっけ。


 口を離しながら生前の父を思い出す。

 ロスラフしか知らない父親としてのジルベルトの姿。


 ――泡がこぼれなくなると、いつも決まってこう飲んでいたな。


 写真の中から父が見てくれているような気がした。

 大人になった自分を今ここで示したい。


「いくよ。父さん」



 実際にはいない父へ宣言してから、ロスラフはビール瓶を片手に掴んだ。

 ビール瓶を唇で塞ぐと、瓶ごと顔を仰向けてラッパ飲みする。

 父が嗜んでいたのと同じ味わいが口内を満たした。

 喉を動かして嚥下し、瓶の中身がだいぶ軽くなってようやく瓶から唇を離す。


「ぷはぁぁぁぁぁぁ」


 盛大に止めていた息を吐き出した。

 父と肩を並べたという満足感がロスラフの身体に漲る。


「これでもう父さんとの約束は全て果たした」


 不敵っぽく写真の中の父へ告げる。

 人種差別の根絶を目指し、皆が互いに助け合える社会作りのきっかけになる。それが平民党を引き継ぐときに誓ったロスラフの約束だった。そしてそれは父の願いでもあった。

 議席の獲得は理想への第一歩だ。


 ――父さんは笑ってくれるだろうか。 

 ――いや、まだだ。一つだけやり残したことがある。


「差しで飲みたいって言ってたよね」


 ビール瓶を持ったまま立ち上がり、タンスの引き出しから透明なコップ二つを指で挟んで取り出した。

 一つを写真立ての前に置いて瓶の中身を注ぐ。

 注ぎ終えると反対の手に持っているコップにも注いだ。

差し向かいになるように窓の傍の壁にもたれかかる。

 ふと窓の外から見えた夜空は、いつもより星々の輝きが強かった。


 ――強く感じるだけか。


 星々はいつもと変わらないのかもしれない。

 違っているのは僕の方だ、とロスラフは自覚する。


 ――浮かれてるね、間違いなく。


 父が自分の好きだった豪快な笑顔を向けてくれた気がした。

 ロスラフは父に向かってコップを掲げる。


 ――平民党の議席獲得を祝して、


「乾杯」

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