5-3

 投票日を終えて迎えた開票日。

 議席獲得へ向けて投票前日まで演説やスラム街での配給活動を続けたロスラフは、この日は朝から落ち着きがなかった。


 やれるだけの事はやったが、今年が最後という現実が彼に重くのしかかっている。

 事務所に居ても窓辺とソファを往復したり、見かねたフリッカが昼時に外食へ誘っても食事の手は進まないし、困ったフリッカがコーヒーを淹れても飲もうとしないし、手を焼いたフリッカが自宅に連れて行き手作りの夕食を振舞っても、事務的に食べて美味しいよぐらいしか喋らず、フリッカがいなかったら食事すら摂らなかったであろう。

 フリッカの自宅で夕食を済ませて事務所に戻ってからも半時ほどフリッカとともに過ごしていたロスラフだが、壁の時計が七時を指したころ唐突にソファから立ち上がった。

 どうしたのロスラフ、と真向かいで読書していたフリッカが尋ねると記憶を探るような顔のまま振り向く。


「フリッカ。ラジオどこにあるか知らない?」

「ラジオ? あー、開票結果が放送される時間ね」


 ロスラフがラジオ受信機を探す意図を察し、フリッカも在処を思い出そうとする。

 少しして思い出せたのか本を閉じて微苦笑した。


「ごめん。私の席の引き出しに仕舞っちゃったわ」

「最近使ってなかったもんね」


 ロスラフは気遣うように言ってからフリッカの席に近づいた。

 足元にある引き出しを開けて中を覗く。

 雑多な資料の奥に隠れるようにしてラジオ受信機が入っていた。

 受信機を持ってソファテーブルに置く。


「開票結果の放送の事は覚えてたのね」

「それしか頭になかったんだよ。他の事に手が付かないぐらいに」


 フリッカと会話をしながらチャンネルのつまみを調整する。

 擦れるようなノイズの後、アナウンサーの声が聞き取れる所でつまみから手を離した。


【各地区の当選者と政党ごとの得票率を発表いたします。まず第一地区――】


 ロスラフが出馬しているインネレシュタット市は第十四地区に分類され、地区内の人口により議席数も変わり、人口の少ない農村地域では議席数が一つだったりする。国政に参加できるのは議席を取った者だけであり、国全体で第十五地区まであり議席数は計三十五席と決まっている。

 第一区から第六地区までは全議席を選挙前の予想通り有社党の候補者が当選、第七地区は一議席だが農業改革を標榜する政党の候補者が当選した。第八地区から第十三地区までは有社党が議席を独占した。

 そしてついに第十四地区の当選者と得票率が発表される。


【第十四地区。政党ごと得票率は有権社会党74.6%、平等民主党33.4%、その他2%の結果になりました。インネレシュタット市の議席は有権社会党が三席全てを……】


 アナウンサーが開票結果を読み上げる前に、ロスラフは溜息を吐いてから受信機のつまみを回した。

 受信機からクラシック音楽の清澄な調べが流れ始める。


「最後まで聴かなくていいの?」

「もう必要ないよ。音楽でも流してよう」 


 潔いぐらいの諦めの声で言い、しばらく二人で受信機から流れる交響楽を聞き入った。

 一曲終わったところでロスラフが真面目な表情を作り、膝に肘をついて身を乗り出す。


「フリッカ。話がある」

「唐突ね。何?」

「今後の事について話し合おう」

「議席を取れなかったから?」

「そうだね。今日で平民党は解散しないといけない」


 インネレシュタット市で議席を獲得するには、最低でも有効票のうちの三十四%の得票率が条件だ。平民党はわずかに及ばず議席獲得には至らなかった。

 平民党の最後は惜敗に終わったのだ。


「でもロスラフ。今後の事って何か考えてあるの?」


 フリッカが話の邪魔になるかのように閉じた本をテーブルに置きながら尋ねる。

 ロスラフは肯定の意で微笑む。


「まだはっきりとはしてないんだけど、人の役に立つ事をやりたいと考えてるんだ」

「へえ、それって今までと一緒じゃない?」


 ロスラフの新芽のような決意にフリッカは理解しがたそうに首を捻った。


「そ、そうかな?」

「そうよ。だってロスラフは蔑ろにされている人達の権利を平等にするために平民党として活動してきたでしょ。どう解釈しても人のための政党じゃない」

「そりゃ私利私欲のためにやってたわけじゃないけどさ」

「具体的に何をやろうと思ってるの?」

「スラム街に学校でも作ろうかな?」

「そんなお金ないわよ。それに銀行にも返さないといけないわ」

「それじゃまずは働き口を探さないとね。どんな仕事がいいかな?」


 ロスラフの中には平民党をやめてからの明確な未来像などなかった。 

意見を求められたフリッカが楽しそうな笑みを溢す。


「二人で何か商売でも始める?」

「商売か。それは構わないけどフリッカは自分の好きな仕事に就けばいいよ。平民党やめてからも僕に付き合うことない」

「ロスラフがいらないって言うなら身を引くけど、そうじゃないなら私はロスラフに付いていきたいわ」

「フリッカ……」

「ロスラフと一緒に居たいの。ダメ?」


 上目遣いに見て小首を傾ける。

 男心をくすぐるような申し出にもロスラフは天井を仰いで腕組んだ。


「フリッカと二人で商売か。悪くはないけど、僕たち商売は素人だからね」

「誰でも初めは素人よ。二人で試行錯誤しながらやっていけばいいわ」

「フリッカには貧しい思いをさせたくない。誰か商売に詳しい知り合いはいないかな。出来れば店の経営を任せたいんだけど」

「……気持ちは嬉しいけど、なんか違うわ」


 商売に通じた知人をロスラフが記憶から探していると、フリッカは詰まらなさそうに少し唇を突き出してそっぽを向いた。


「え、フリッカ。僕なにか違った?」

「知らないわ」


 合点のゆかぬ顔でロスラフが訊き返すのを無視して、フリッカが気のない手つきで受信機のつまみを当てもなく捻った。

 再び受信機からノイズが流れ始めたその時、ロスラフの席に取り付けている事務所の電話が鳴った。

 ロスラフは反射的にソファから立ち上がって電話に出る。


「はい。こちら平民党事務所ですが?」


 平民党としての電話対応も今日が最後、という事実に胸を痛めながらも声は平静を装う。


『よっ俺だ、俺。カールだ。おめでとうロスラフ』


 電話口から聞き覚えのある呑気な声が祝福した。

 相手がカールだと認識したロスラフは途端に胡乱そうに返す。


「なんだよ。何もめでたくないんだけど」

『平民党、議席獲得したんだろ?』

「してないよ」


 何の情報を見て言ってんだこいつは、とロスラフはカールの声に苛立ちが募った。

 ロスラフの小さな怒りなど知らぬカールが電話口で続ける。


『ラジオ放送を聴いてたんだよ。途中で無効票が報じられてよ、奇跡的に平民党が割り込んだからうちの社員も盛り上がってたぜ』

「無効票なんてあったの?」

『今も速報を繰り返してるぜ……お前まさか放送聴いてないのか?』

「さっきまでは聴いてたけど、議席取れなかったから嫌気が差してチャンネル変えた」

『放送は最後まで聴けよ。受信機あるなら今からでも速報聴けるぞ。あ、こら電話中にビールを勧めんな……』


 電話が切れた。

 信じられない気持ちで、退屈そうに受信機のつまみを回しているフリッカを振り向く。


「フリッカ。開票結果の放送を流して」

「え。何かあったの?」

「説明は後でするから早く」


 顔に驚愕の浮かんだロスラフに急かされて、フリッカは開票結果を放送しているチャンネルにつまみを合わせた。

 僅かなノイズの後、男性キャスターの声が再び流れ出す。


【えー、繰り返します。第十四地区で不正な投票用紙が確認され、無効票となりました。無効票を差し引いた結果、政党ごとの得票率は有権社会党74.7%、平等民主党33.5%、その他2%となりました。四捨五入による繰り上げで平等民主党は34%に届き、議席を取得しました。つきまして第十四地区の議席数は有権社会党2、平等民主党1と変更になりました。えー、繰り返します……】

「ねえロスラフ?」

「何、フリッカ」

「今の聞こえた?」

「うん。聞こえたよ」


 どちらが先に歓喜の声を上げるか我慢比べのような沈黙が降りる。

 訂正された開票結果を繰り返す声だけが響く中、互いに無言で受信機を見つめた。


「ねえロスラフ?」

「何、フリッカ」

「喜んでいいのよ?」

「喜んでるよ。うん」


 ロスラフは子どものようにはしゃぎそうになる気持ちを抑え、代わりに深く頷いた。


「議席を獲得できたわ」

「そうだね」


 二人とも黙って喜悦に浸る。

 フリッカがゆっくりロスラフに振り向いた。


「ロスラフ」


 片手を顔より少し上に掲げた。

 思いっきり破顔する。


「わかったよ。フリッカ」


 ロスラフも片手を上げ、これでもか破顔した。

 磁石のように二人の手と手が引かれ合う。


「「僕(私)達の勝ちだ(ね)!」」


 ロスラフとフリッカは掌を叩き合ってハイタッチを交わした。

 ハイタッチは受信機からの声を完全にかき消し、二人の心をこれでもかと浮き立たせるには充分だった。

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