5-2
豚の銅像前で演説した翌日、ロスラフは配給活動のためにスラム街を訪れた。
用意したパンの残数が半分ほどになった頃、一回目の配給をした時と同じく学校の生徒であるヨッドを使いにしてリアンに呼び出された。
ロスラフは配給所をフリッカとユルゲンやその他有志の一行に任せて、パンを一つ手に持ちヨッドに着いていくと、学校の更地を囲む木の柵にデジャヴであるかのように白い仮面の恰好をしたリアンが腰掛けていた。
「また会ったな。ロスラフ・シュラー」
「君が呼んだんでしょ。それで何か用?」
ロスラフは慣れた様子でパンを手渡しながら用件を尋ねる。
聞いているのかいないのか、リアンはパンを真ん中で二等分するが、右の方が少し長くなってしまった。
「上手く二等分するのは難しいな」
「誰かに分けるの?」
「おじいちゃんとおばあちゃんにな。当然だ」
「もう二つ持ってこようか? 一人一個ずつ食べなよ」
「いや。私の分はいらないから少しでも街の人にあげてやってくれ」
「そう。君がそう言うなら押し付けはしないけど」
「リアン先生。おいらはもう用済み?」
関心を向けられないヨッドが詰まらなさそうにぼやいた。
そうだ、とリアンは答え、表通りの方向を指さす。
「帰っていいぞ」
「ちぇっ、おいらは小間使いじゃないんだけどな」
不平を漏らしながらヨッドは表通りに引き返していった。
ヨッドの姿が完全に通りに紛れてから、リアンは不均等に分けられたパンの右側を指示棒のように揺らす。
「話を戻すぞ。ロスラフ・シュラー」
「僕を呼んだ用件のことだね。何かあったの?」
心配の覗く眼差しでリアンを見る。
当のリアンは相変わらずオペラマスクで表情を隠したまま用件を切り出す。
「おじいちゃんとおばあちゃんがお前と話がしたいそうだ」
「僕と、どうして?」
「わからん。詳しい話の内容を私にも教えてくれなかったあたり、私にも秘密にしておきたい話なのだろうな」
「君に聞かせられなくて僕には聞かせたい内容……父さんの事かな?」
予想の答え合わせをするように問いかけた。
リアンは肩を竦める。
「どうとも言えないな。お前に聞かせる話といえばジルベルト・シュラーのことだろうが、断言は出来ない」
「実際に会って聞いてみるしかなさそうだね」
「そういうことだ。今から配給の方は抜けられるか?」
「一応、訊いてみるよ」
ロスラフは断りを入れて一旦配給所まで踵を返した。
フリッカとユルゲンに一時的に場を離れる旨を伝えてからリアンの所まで戻ってくる。
「抜けても大丈夫そうだよ」
「そうか。ならすぐに行くぞ」
告げると、リアンは見た目通りの身軽さで木の柵から降りて歩き出した。
彼女のすぐ後ろをロスラフが着いていこうとすると、癇に障った素振りで振り返る。
「真後ろを歩くなと前に言っただろ」
「……ああ、ごめん」
ロスラフは慌てて詫びながら二歩ほど後退した。
二歩分の距離では不満なのか白い手袋で包んだ手を押し出すように突き出す。
「あと二歩下がれ」
「どうしてそんなに距離を取りたがるの?」
ロスラフが疑問をぶつけると、リアンは不機嫌を窺わせる動きで背を向けた。
「理由なんてなんでもいいだろ。行くぞ」
リアンが断固として会話を絶って歩き出した。
怒らせてまで訊くべき事ではないか、とロスラフは疑問を疑問のままにしてリアンの後を着いていくことにした。
リアンの後を追ってアパートに招かれたロスラフは、小奇麗に掃除されたダイニングを通ってリアンの祖父母がいる寝室前まで来た。
リアンが寝室のドアを二回ノックすると、ロスラフの耳に入室を許可する老夫婦の声が聞こえてきた。
「お前に用があるんだ。入れ」
祖父母の声に付け加えるようにリアンが顎をしゃくる動きで促す。
ロスラフは遠慮を表情に浮かべた。
「僕だけで入っていいの?」
「私がいては話しにくいだろう。おじいちゃんとおばあちゃんはお前だけを呼んだのだから気にすることはない」
「重大な秘密を打ち明けられはしないかな。君の知らない事を僕が知るのは少し烏滸がましいよ」
「気遣いは無用だ。私はおじいちゃんとおばあちゃんの意志を優先する」
「本当におじいちゃんとおばあちゃんの事が好きなんだね」
ほぐれるような微笑と優しい声音でロスラフが言った。
リアンはうろたえる様子もなく、むしろ誇らしげな雰囲気を纏う。
「私はおじいちゃんおばあちゃんっ子だからな」
「そうだろうね。見てたらわかるよ」
「おじいちゃんとおばあちゃんを待たせたくない。早く入れ」
少し照れが混じったような声で入室を急かす。
ロスラフは頷いてドアノブに手を伸ばしかけてから、思い出したようにリアンを窺う。
「僕が部屋の中にいる間、君はどうしてるの?」
「私か。私は学校があるからその準備をするために通りの方へ戻る」
「そっか。じゃあ僕も用が済んだら通りに戻るよ。フリッカやユルゲンさん達に配給を任せっきりじゃ申し訳ないからね」
「パンは預けておくから渡してくれ。では私は行くぞ」
そう告げて二分されたパンをロスラフに押し付けると、振り返ることもなくアパートを出ていった。
見張られないってことは信用されてるってことでいいのかな?
リアンの言動を好意的に捉えたロスラフは、受け取ったパンを抱えて念のために自身の名前を部屋の中へ告げた。
老夫婦の入室を許可する声を耳に入れてから、そっとドアを開けて部屋に立ち入る。
「こんにちは。ロスラフ・シュラーさん」
「久しぶりじゃの。ジルベルトの息子よ」
左右に配置されたベッドから老夫婦の声が聞こえてくる。
「だいたい二週間ぶりですね。お元気でしたか?」
ロスラフは紋切り型の挨拶をした。
左右のベッドで布団がもぞもぞと動く。
「おかげさまで」
「パンを食べて精がついたわ」
生気の感じられる声色が室内に響いた。
よかったです、とロスラフは返して二分されたパンを左右のベッドへ差し出すと、 老夫婦へ自分を呼び出した用件を聞き出しにかかる。
「それで、どうしてリアンさんに僕を呼んでもらったのですか?」
「ロスラフさんに頼みがあるんです」
老婆はパンを受け取ると用意していたように答えた。
老いて骨ばった腕を布団から出して人差し指で天井を指し示す。
「天井裏に小さな物置があるんです」
「ええと。すみません、どこですか?」
ロスラフの見上げる限り、天井には左右の壁と同じ色の壁紙が張り渡されているだけだ。
「真ん中あたりに壁紙の切れ目があるでしょう?」
老婆の言葉を聞いて子細に探してみると、壁紙の尺が足りなかったような横に細長い隙間があった。
「違う色が見えている切れ目らしいものがありますね」
「それですよ。その切れ目から壁紙を剥がしてみてください」
「え。いいんですか?」
住人からの頼みとはいえ他人様の部屋の壁紙を剥がすのは遠慮が要った。
老爺がベッドから肌の硬くなった腕を出して、摘まむような手の形をして前後に揺らす。
「構わずに剥がしてよろしい」
「構いますよ。自分の家じゃないんですから」
常識に則って言い返しながら天井の切れ目に手を伸ばす。が指の先さえも触れられず、すぐに手を引っ込める。
老爺が声を立てて笑った。
「剥がすとはいえ、台に乗らないと届かないじゃろう」
「それを先に言ってくださいよ」
「ロスラフさん。窓際に椅子があるでしょう。それをお使いになって」
天井に手が届かない恥を晒されたことに気恥ずかしさを感じつつも、言われたように窓際に置かれていた木椅子を切れ目の真下に移動させた。
木椅子に乗ると肘を畳むぐらいにまで天井の切れ目が近づく。
「これなら剥がせそうですね」
「少し剥がせば溝がありますから」
掌ほど壁紙を捲ると開閉用の取手の溝が現れた。
「溝、ありましたよ」
「その溝に手を入れて引いてください」
言われた通りに引くと、天井の一部が下がりロスラフの目の前で隙間が口を開いた。
隙間の中を覗くと、昼間の日差しが壁板の隙間から射し込んだ胸ぐらいまで入れるほどの収納空間が隠れていた。
「すぐ正面に紙袋があるでしょう?」
「ああ、これですね」
「その紙袋を下ろしてください」
「わかりました」
老婆の指図に従い、紙袋を掴んで収納口の戸を閉めてから椅子から降りる。
「中に本が何冊か入ってるでしょう?」
「はい。数学や語学の学問書が入ってますね」
「その学問書の奥に一冊のアルバムが仕舞ってあるの。それを出してくれないかしら?」
「アルバムですか。ええと、これかな?」
学問書を退かしてアルバムを探すと、装丁の隅々が擦り切れたものが一冊だけあった。
ロスラフが手に取ったのを声で察したのか、老婆がベッドでもぞもぞと動く。
「そのアルバムにはリアンにも見せていない写真が入ってるんですよ」
「そんな貴重なアルバム、僕に見せてもいいんですか?」
「あなただからこそ見せるんですよ」
まるでロスラフの問いかけを予想していたように言って、微笑を漏らした。
はあ、とロスラフは戸惑いがちに相槌を打ってからアルバムの表裏の表紙を眺める。
「アルバムの六ページ目を開いてください」
「六ページ目ですか、ちょっと待ってください」
紙袋をローテーブルに置いてから、ロスラフはアルバムのページを捲る。
皺が少ない頃の老夫婦が授業している様子を撮った写真を見るともなく見ながら六ページ目を開くと、他人のアルバムと取り換えたかのように長髪を背中に垂らした若く美しい女性の写真ばかりが並べられていた。
白黒写真でもわかる色白の肌に、可憐で儚げな整った目鼻立ち、黒味が一つもない艶やかな長い白系統の髪。綺麗な人だ、とロスラフは正直に思った。
「六ページ目に入ってる写真の女性は誰ですか?」
聞かずにはいられない興味で尋ねたロスラフに、老婆が楽しく懐古するだけの間を
置いてから答える。
「リアンのお母さんよ」
「ああ、なるほど」
打ち明けられるとすんなり納得できる。
オペラマスクのせいで顔立ちが似ているかはわからないが、写真の中の女性の長髪とリアンの銀髪は同じしなやかさを持っているように思えた。
「リアンさんにそっくりですね」
「そうね。今あの子はあんな恰好してるけど、気立ての良さもお母さんに似たのね」
「リアンさんは自分でおじいちゃんおばあちゃんっ子だと言ってましたから、彼女の気立ては祖父母譲りかもしれません」
老夫婦を持ち上げる言い方をすると、むしろ老夫婦は後ろめたそうに黙ってしまった。
失礼な発言をしてしまったのかと不安になるロスラフへ、老婆が絞り出すように言う。
「あの子には言ってないんだけど、実は私たち夫婦はあの子の本当の祖父母じゃないの」
「え?」
衝撃的な告白だった。
リアンが老夫婦の事を心から慕っているのを知っているからこそ、ロスラフには老婆の言葉は思考が止まりそうなほど驚愕だった。
「写真の女性はリアンのお母さんではあるけど、私たち夫婦からすれば血の繋がらない教え子の一人なの」
教え子という単語を聞いた瞬間、ロスラフの脳裏に初めてスラム街を訪れた日にリアンから教えられた話が思い浮かんだ。
結婚を反対された教え子を匿うために老夫婦がこの街に住み始めた。そういう話だ。
「もしかして、その教え子というのは結婚を反対されて駆け落ちをしたという方ですか?」
「ロスラフさん、どうして知ってるの?」
疑問を晴らそうとしたロスラフに老婆が驚いた声で訊き返した。
リアンさんから聞かされたんです、と答えると、納得した安堵の息を漏らす。
「その話をリアンがね。そういえばあの子に聞かせたわ」
「駆け落ちしたのが写真の女性でリアンさんはそのお子さん、ということですか?」
「ええ、その通りよ。けれどリアンには写真とお母さんの事は話さないでね。あの子はこの話を自分とは関係ない他人事だと思ってるから」
「わかりました。言わないと約束します」
重任を引き受けたつもりで決然と言った。
一区切りさせて明るい話題を探そう、と考えたところでロスラフの中に疑問が生じる。
――どうして自分にリアンの母親の写真を見せたのか?
ロスラフが写真から老婆へ目を移そうとした時、老爺の方がベッドで身じろぎした。
衣擦れの音に思わず意識を向けたロスラフに、老爺が布団の中から話しかける。
「ジルベルトの息子よ。君のことは信用しとる」
「あ、ありがとうございます」
ロスラフは突然に掛けられた言葉の意図を掴めない。
老爺が足りない部分を補うように続ける。
「そのアルバムを見た者にリアンの事を任せようと考えていた」
「……え?」
思いもよらぬ頼み事に、ロスラフの口から間の抜けた声が漏れ出た。
ロスラフと老爺のやり取りを聞いていた老婆がくつくつと楽しそうに笑い、笑い交じりのまま付け加える。
「あの子が親の事を知りたいと言い出したらアルバムを見せるつもりだったのだけど、私たち夫婦は足が悪くなってしまって天井の物置を開けられなくなったの」
「それで僕にアルバムを取って欲しいと頼んだのですか。けど、それと僕がリアンさんの事を任せられるのは話が違うように思えますが」
「私たちはいつまであの子と一緒にいられるかわかりません。私たちがいなくなった後、あの子には頼る相手がいなくなってしまうの」
「頼る相手として僕を選ぶんですか。僕なんて頼られるような人間ではありませんよ」
「いいえ、あなたしかいませんよ」
ロスラフの遠慮をはねつけるように力強く言い切った。
老夫婦からの過度な期待にロスラフは自信なく眉を下げる。
「信用してくれるのはありがたいのですが。僕には荷が重いような気がします」
「あの子の全てを任せるわけじゃないの。あの子が困っている時に少しだけでも手を貸してあげるだけでいいの」
「少しだけ?」
「ええ、少しだけ」
老婆の反唱を聞くと、ロスラフの心に微かに受け入れる気持ちが宿ってくる。
――僕は老夫婦ほど彼女の支えにはなれないかもしれないけど、ちょっと親切な他人ぐらいの立ち位置なら担えるかもしれない。
わかりました、とロスラフは頷いた。
「僕に出来ることなんて多くないですけど、リアンさんが困っていたら一人の知り合いとして助けたいと思います」
「ありがとうね」
「その心意気に感謝するぞ」
「いえいえ。普通の事ですよ」
老夫婦の安心したような声にロスラフは控えめな態度で応じた。
その後は選挙情勢や配給活動の様相などを老夫婦にひとくさり話すと、ロスラフはアパートを出て配給所へ引き返した。
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