幕間 4

 胸飾りの男がパンの配給活動を実施してから早一か月が経過した。

 選挙の投票日が日に日に近づく中でも継続的にパンの配給は行われている。

 少女は胸飾りの男に会いたいと言い出した祖父母を連れて広場の配給所に訪れた。


「どうか俺に一票をお願いします」


 胸飾りの男は今回に限ってパンではなく趣向を凝らしたアップルパイを順番待ちしてくれた住人達に友好的な握手を交わしてから手渡していた。

 手を握り返す住人の方も胸飾りの男に期待を含んだ眼差しで応えている。


「もうすぐ選挙なのね」


 少女の隣に立っていた祖母がゆったりとした口調で呟いた。

 胸飾りの男を見つめて言葉を続ける。


「あの方は政治家にしては珍しいぐらいに正直そうね」

「おばあちゃん。政治家ってどういう人なの?」


 少女は年齢にしては聡明であったが、為政者から見放されたスラム街という土地柄故か政治の事については疎かった。

 祖母は脳内で理解を噛み砕くような間を取ってから少女に説明する。


「政治家っていうのはね。こうしたいと世間に訴えて、旗振り役として活動する人の事よ」

「パンを配っている場合なの?」

「あれこそがあの人にとっての活動なのよ」


 祖母はそう返し、胸飾りの男に視線を戻す。

 少女はさっきから黙っている祖父の方に目を遣る。

祖父は顎に手を触れて何事か考え込んでいた。


「おじいちゃん。何考えてるの?」

「あの男は軍隊上がりでは、と思ってな」

「軍隊上がりかどうかで人を決めてはいけませんよ、あなた」

「そう思わないか孫娘よ?」


 祖母が窘めるのも構わずに祖父は少女に向かって同感を求める。

 少女はわかんないと首を横に振った。


「あの屈強そうな身体つきは間違いないはずだがな」

「あなた、数学教師だったのでしょ。外見に囚われない理論的な考え方は出来ないの?」

「身体の強さは理論では敵わない意思の強さの表れだよ。敬服じゃ」


 そうこう談議しているうちに列が進み、少女と祖父母の順番になった。

 配給所まで来ると、胸飾りの男は少女の祖父母を見た瞬間意外そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに人好きのする笑顔に戻った。


「おー、この前の嬢ちゃんじゃねーか。今度はおじいちゃんとおばあちゃんを連れてきたのか、約束通り三個あげるな」


 そう言って、足元の紙袋からアップルパイを取り出した。

 煩雑ではあるが丁寧に一個ずつ手渡す。


「いつもより奮発してパイにしてみた。俺が贔屓している店のパイでな、美味いぜ」

「ジルベルト・シュラーさん」


 パイを自慢する胸飾りの男に、祖母が柔らかい口調で話しかけた。

 なんですか、と目顔で訊き返す胸飾りの男に祖母は微笑んで答える。


「年寄りの差し出がましいお節介だと思って聞いてください。私たちはあなたにはとても期待しています」

「ありがとうございます」


 老若男女問わず気さくに接する胸飾りの男は、少し遠慮の混じった祖母の言葉にも引き締まった表情で礼を返した。

 次に祖父が真剣な顔で胸飾りの男に対する。


「ジルベルト・シュラーさん。どうしてあなたはこんな街のために尽力するのですかな?」

「理由ですか。そんな高尚なものではありませんが……」


 胸飾りの男は活動の意義をかいつまんで語った。

 軍属時代に海外のスラム街出身の黒人と仲良くなったのがきっかけ。その黒人に命の危機を救われ、生憎その黒人は亡くなってしまったが恩を返さねばと誓ったらしい。


「場所は違えど、似たような境遇の方々の助けになることが俺の生き甲斐であり、亡くなった戦友との約束なんです。高尚なものじゃないでしょう?」

「いいや、素晴らしいと思いますよ。おおよそ、わしには出来ない」


 祖父は眩しい物を見る目で胸飾りの男を見つめた。

 祖父母が感心するぐらいなら、と少女の中で胸飾りの男は歴史上の英雄のような偉大な存在に変わってくる。

 胸飾りの男は照れ臭そうに後ろ頭を掻いた。


「政治家になれるような経歴がないから情熱だけで動いてるんですな」

「経歴なんて二の次ですよ。情熱のない人に投票したいとは思いませんから」


 励ますように祖母が言った。

 胸飾りの男はなおも照れる。


「票を競う相手には政界の長い古強者もいますからな。おいそれと議席を獲れるものではないでしょう。すみませんが、次の方が待ってますからこれで」


 これ以上面映ゆい言葉を聞くのは身に余るのか話を打ち切ると、少女と祖父母の後ろに並んでいる住人をにこやかに手招きする。

 ここに居ては配給活動の邪魔になるから、という祖父母に連れられて少女は噴水の前まで戻ってきた。

 噴水の縁に祖父母に挟まれて腰掛け、配られたアップルパイを齧る。


「どう美味しい?」


 祖母の声に少女は頷いた。

 少女の反応を楽しげに見てから祖母もアップルパイをちぎって口に運ぶ。


「あら、本当に美味しいこと」

「パイなんていつ振りかの?」


 祖父がアップルパイを食べ進めながら、未だに配給活動を続ける胸飾りの男を見遣った。

 口元が緩んでいるのはパイの美味しさのせいだけではないかもしれない。


「わしはあの男に期待しとるよ。この街に光を齎すかもしれん」

「わたしもそう思いますよ。あの方はこの街の希望です」


 嬉しそうに微笑んで祖母が同意する。

 大好きな祖父母に称えられる胸飾りの男に対して、少女の胸に言い知れない期待感が湧いてくる。


「私もあの男の事を信じてる。この街を良くしてくれそう」


 それぞれが思い付くこの街の明るい未来を語り合いながら、アップルパイに舌鼓を打ちながら三人で胸飾りの男を遠巻きに眺める。

 胸飾りの男は並んでいる住人達に残り個数を伝え、すまなさそうに頭を下げ始めた。

 配給を受けられなかった住民達は残念そうにはしながらも、胸飾りの男へ笑顔を向けておのおの家路に着いていく。

 その刹那、どこから現れたのか分厚い身体つきで浅黒い肌、頬の傷を無精ひげで隠した男が配給所の前に歩み寄ってきた。

 無精ひげはお腹をさすりながら哀訴の声で胸飾りの男に話しかける。

 見たことない顔だ、と少女は瞬時に無精ひげに違和感を抱くが、住人全ての顔を覚えているわけではなく、自身の違和感に確信を持てず成り行きを見守ることにした。

 胸飾りの男は申し訳ない顔つきで無精ひげに頭を下げる。


「―――っ――!」


 無精ひげが苛立たしげに何かを怒鳴ったが、少女の所まで声は聞こえてこない。

 いきなり怒鳴られてたじろぐ胸飾りの男は、罵声に釈然としない顔をしつつもさらに深く腰を折って謝る。

 それでもなお無精ひげの怒りは収まらなかったのか、胸飾りの男に憤然と詰め寄り身体のどこかから閃く細長い物を取り出した。

 少女は閃く細長い物が何なのかわからなかった。

 ただ次の瞬間には、胸飾りの男の背中に細長い物が深く突き刺さるのを目の当たりにしていた。

 年齢に比して聡明な少女でも胸飾りの男に何が起きたのか把握するだけの知識は足りていなかった。それだけ幼かった。

 無精ひげが聞き取れない罵声を吐き捨てて狭い路地へ逃げ込んでいく。

 急な展開にさっきまで行列を作っていた住人達が動きを止めていた。


「あら、ま」


 祖母が隣で声を漏らした。

 少女が目を移すと祖母は口をあんぐり開けたまま顔から血の気が引いていた。

 祖父の方も見ると目をぎょろりと剥いて驚愕を顔に出している。


 なんでそんなに驚いてるんだろう――


 祖父母の反応の意味がわからず配給所へ視線を戻すと、胸飾りの男は地面に蹲り、その傍にいつも同伴している柔弱そうな眼鏡の男が屈みこんでいた。

 胸飾りの男に何やら告げて、周囲にいる住人達へ手で追い払う仕草をする。


「危険だからジルベルトには近寄るな。自分が病院まで運ぶ」


 住人達をその場に留めると、胸飾りの男の逞しい躯体を背に抱えて引きずるようにして広場を去っていった。

 一連の光景を見ていた少女は、状況を理解できないまま慌てた様子の祖父母に手を引かれて広場を後にしたのだった。

 


 時が流れてさらに賢くなった少女は、あの時に自身の見ていた光景が胸飾りの男の殺された悲劇だと知り、その死の大きさを否が応でも自覚したのだった。

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