4-3
一回目の配給活動はリアンとフリッカの諍いを除けばつつがなく成功を収めた。
しかし一度の活動だけではスラム街の人達の心は離れていってしまうと感じたロスラフは、次週の同じ曜日に二回目の配給を行うため、事務所の机に張り付いて一回目の配給記録を見ながらパンの数量を検討していた。
記録表を前に頭を捻るロスラフに、先ほどまでインネレシュタット政党支持率の経過を調べていたフリッカが上機嫌な面持ちで歩み寄った。ちなみに副党首のユルゲンは人と会う約束があるとして休暇を取って事務所にいない。
「ねえ。ロスラフ」
「なにフリッカ?」
顔を上げると良い事があったらしいフリッカの表情が目に入った。
「今朝の時点でのインネレシュタット内での支持率を見てたの」
「どうだったの。相変わらず有社党が強い?」
期待していない声で尋ねるロスラフに、フリッカは嬉しそうに話し出す。
「市場周辺での平民党の支持率が十%だった」
「……十%も!」
ロスラフが胸躍る思いで驚きの声を出す。
フリッカの情報源はインネレシュタット市で普及している新聞に隔週で載っている地域別支持率の調査結果だ。
この調査は新聞社独自で週ごとにスラム街以外で選んだ地域に暮らす住民五〇人に、今回の選挙で支持する政党はどこですか、という質問を行い集計したものだ。
五十人規模での十%はたかが五人である。
それでも百人のうち三人が政党名を知っているかどうかだった平民党では、支持率十%は歓喜すべき上昇度合いだ。
「買い物客に徹したのが好印象だったのよ」
フリッカが市場での選挙活動を思い返して声を弾ませる。
普段は感情を露骨には表に出さないロスラフも今回の結果には頬を綻ばせた。
「ちょっとかもしれないけど平民党の事を選んでくれる人が増えてるんだ」
「良い兆候ね」
「このまま少しでも平民党の名が広まれば市全体での支持率向上もあり得るよ」
希望的な観測ながらも嬉しさの籠った声でロスラフが言った。
その時、事務所の出入り口の外から重たい物を置く音と一息吐くような何者かの声が聞こえてきた。
誰か来た、とロスラフが気付くと同時に、出入り口の外から「郵便物でーす」という青年の声が響いてくる。
「私が出るからロスラフは仕事続けてて」
フリッカが自発的に応対に向かう。
彼女がドアを開けると、出入り口の外には黄色と黒のボーダーベストを羽織った郵便配達員の青年が立っていた。配達員の傍には包装紙でくるまれた鳩尾ぐらいまで高さのある物体が置いてある。
「郵便物ってそれですか?」
包装紙でくるまれた物体を指さしてフリッカが訊くと、配達員は接客スマイルで頷いた。
「こちらはロスラフ・シュラーさんの事務所で間違いないでしょうか?」
「間違いないです」
「では、お受け取りのサインをこちらに」
配達員は言うなり両手で恭しく万年筆と受領書を差し出した。
フリッカが慣れた手つきでサインを書くと、目視で確認して笑顔で受領書を引き取る。
「郵便物は中まで入れましょうか?」
「大丈夫です。こちらでやります」
「わかりました。では失礼しました」
形式的に告げると、出入り口前に郵便物を置いたまま配達員は立ち去っていった。
フリッカは配達員の乗る自動車が遠ざかっていくのを目の端に入れながら、自分の胸ぐらいまである郵便物を抱き上げようと腕を回した。
その時、計ったようなタイミングで開けたままの出入り口からロスラフが顔を覗かせる。
「随分と大きい郵便物だね。フリッカ一人で持ち上げられる?」
「どうかしら。やってみるわ」
新しい遊戯に挑むような気持ちで細腕に力を入れるフリッカ。
ロスラフが不安げに掌を突き出した
「危なっかしいからやめて。僕が運ぶから」
「あら、そう。ロスラフ持ち上げられる?」
様子を見に来て手伝おうとしてくれるロスラフの気遣いを嬉しく思いながら、フリッカは試す目でロスラフを見返す。
心外と言いたげにロスラフが少し眉を寄せた。
「僕だって男だ。フリッカよりは力あるよ」
「それじゃお願いしようかしら」
ロスラフに搬入を任せ、自身は郵便物から離れて室内に戻る。
力あると言った手前重いなんて口に出来ないな、とロスラフは発言の軽率さを悔やみながらも郵便物の傍に屈んで腕を回した。
腕に力を掛けて子供一人よりも太く大きい郵便物を抱え上げる。
想像以上の重みを感じながらも、足腰にも力を入れて体勢を崩さないように踏ん張った。
「重くないロスラフ?」
「それなりには重いけど運べないことはないかな」
本当は手伝ってくれると楽なんだけど、と胸の内で呟きながらロスラフはゆっくりと出入り口を潜る。
部屋の絨毯の敷かれた所まで来ると郵便物をひとまず絨毯に置いた。
「これ、なんだろうね。配達便で届いたけど」
近頃は選挙の趨勢把握に追われ、郵便配達を頼んだ記憶がごっそり抜けていた。
フリッカが包装紙を摘まむ。
「包装紙、剥がしてもいい?」
「いいよ。中の物が割れるといけないから勢いよく破らないように気を付けてね」
ロスラフから一応の注意をもらってからフリッカは包装紙をくるんだ時の逆再生するように剥がしていった。
どこも破かずに一枚繋がった状態で包装紙を取り除くと、郵便物の正体が露わになる。
「置物ね」
フリッカが呟いた。
「置物だね」
ロスラフも呟いた。
郵便物の正体、それは首を傾けたような滑稽な姿勢をした陶製の狸の置物だった。
ロスラフは狸の置物に抽象絵画のような奇妙な存在感を覚え、瞬間的に曖昧模糊とした記憶が鮮明になって蘇る。
市場での選挙活動――ショウウインドウから見えた狸の置物――置物店の老人店主――狸の置物を購入し郵送を依頼――寒くなった財布。
「これ、置物のお店で買ったものよね?」
フリッカの一言が彼の記憶を証明づける。
忙しさにかまけて狸の置物のことなどすっかり忘れていた。
「どこに置くのか決めてないよ」
「入り口の傍。確か客を招き寄せるとかそういう効果があるんでしょう?」
フリッカの言う効果はおそらく招き猫のことだろう。
日本の通俗など露知らないロスラフとフリッカからしたら、老店主の言葉を信じる以外狸の置物の価値を計る術がない。
ロスラフは出入り口の傍に狸の置物を据えた光景を思い浮かべてみる。
――――
――
置物に腰をぶつけるフリッカの姿を想像してしまった。
「邪魔じゃないかなぁ」
「あら、そう? じゃあどこに置くの?」
「小さい物なら机の上にでも飾れるけど、これだけ大きいと机にひびが入っちゃうからね」
子ども一人分はあろう大きさだ。
机の天板が重さに耐えられる保証はない。
「効果にあやかって飾りたいわよね」
「僕もそうは思うけど置くべき場所がわからない」
「応接間のソファにでも寝かせておくのは?」
「来訪者なんてほとんどいないけど、万一来た人はビビるよね」
「外にでも飾る?」
「高かったから盗まれるのは癪だよ」
「屋根に載せておくのは?」
「日向ぼっこかな?」
「頭に穴開けたら傘立てにでも使えるんじゃない?」
「そんな惨い事できない。置物とはいえ脳天を割るのは勇気いるよ」
「ロスラフが背負って演説に出れば名が知れ渡るかもしれないわね」
「重い物背負って歩きたくないよ。それに恥を捨ててまで足腰鍛える必要なくない?」
「それじゃあ、どうするのよ?」
「どうしようね。考えついたらこんなに悩まない」
進展のない問答を繰り返しても良案は浮かばない。
二人で頭を捻った末にロスラフが苦肉の策で提案する。
「とりあえず部屋の隅に置いておこう」
「それがいいわ」
フリッカが同意すると、二人で協同して狸の置物を部屋の角に移動させた。
狸の置物を安置させた後、二人はそれぞれの机に戻る。
ロスラフは今までに感じたことのない居心地の悪さを覚える。
「なんか、置物に監視されてる感覚なんだけど」
「私も。置物から視線を感じるわ」
得も言われぬ肩身の狭さに二人とも気が沈む。
ロスラフが机を離れ、置物のお腹側を壁際に反転させた。
「さっきよりはマシだよね?」
「うん。さっきよりはマシ」
「でも、この状態で効果あるのかな?」
「いいんじゃない。置くだけできっと効果あるわよ」
二人は置物の効果を信じて、しばらく部屋の隅に鎮座させておくことにした。
翌日、出勤したユルゲンが置物の事情についてロスラフの話を胡散臭そうに聞いたのは無理からぬことだろう。
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