3-4
老夫婦と面会を果たしたロスラフは、リアン・フォステと名乗った白い仮面に案内されて街の中を見て回ることになった。
中央広場へと戻る道すがらロスラフが尋ねる。
「ドナイティさんから聞いた話だけど、この街の中でも経済的格差があるんだね。まずどちらの人達と顔合わせするべきかな?」
リアンはロスラフの問いかけを呑み込む間を置いてから前方を見たまま答える。
「どちらが先、という順番はつけなくていい。どのみちお前の存在はこの街の全員が知る必要があるからな」
「全員か。この街にはどれぐらいの人が住んでるの?」
「一人ずつ数えたことはないが、おおよそ一万人ほどだと言われている」
「街の面積にしては多いね」
「ほとんどの者が狭い家屋を住居にしているからな。一世帯当たりの敷地面積は驚くほど小さい」
「中央広場にはアパートが多く建ってたけど、どれぐらいの割合入居しているんだい?」
「近年は減少傾向にあるが、それでも半分ぐらいは未だいつ崩れるかわからないボロアパートで暮らしている」
「掘っ立て小屋の方が住み心地良いって話を聞いたけど、それだけアパートの環境が劣悪ってことだよね」
「都市の奴らには想像もつかないほどにな。数年前まで学校にいた生徒の一人はアパートに住んでいた頃に一日二十匹の鼠を見たらしい」
「それって人より鼠の方が数多くないかい?」
「鼠の家に居候していると言っても過言じゃない状態だな」
「その鼠を二十匹見たって言う生徒、今はアパートから出てるんだよね?」
「学校を卒業して、今はインネレシュタットにある店で働かせてもらってるらしい」
「あの学校にも卒業ってあるんだね。君もあの学校の卒業生?」
何気なく質問を発したロスラフに、リアンが大義そうに振り返った。
「私が卒業生だと?」
表情は見えないが声音だけで不服そうなのが伝わってきた。
気に障ること言っちゃったかな、と心配するロスラフへ、リアンは宣言のように告げる。
「いいか、私は教師だ。そしてあの学校の創設者だ」
「創設者?」
ロスラフは我が目を疑う。
学校の創設者というのは大概が高名な学者であったり、教育熱心な金満家であったり、とにかく赫々たる経歴や実績の持ち主がほとんどだ。
それに比べて修道服で身を包んだ彼女は、小柄で華奢でどう見ても未成人の少女である。
リアンは彼の眼前へ怒ったような足取りで歩み寄った。
身長差を埋めるために踵を上げながらロスラフの顔を間近に見据える。
「お前、失礼な事考えただろ?」
「とんでもない」
「小っちゃいなぁ、とか思っただろ」
「そんなこと思ってないよ。心外だな」
「これでも私はおじいちゃんとおばあちゃんから英才教育を受けた身だ。この街では一番の秀才だぞ。そんな秀才が学校を作ることは何もおかしくないはずだ」
「確かに、街一番の秀才ならあり得る話だね」
彼女の剣幕に圧されたようにロスラフはうんうんと頷く。
ロスラフが納得するのを見て、リアンは少し後退してから踵を下ろした。
腕を組んでわざとらしく懸案する。
「資金不足であんな更地で授業しないといけないのは悩ましいがな。だが屋根がなくとも勉強をする場であるなら、それは学校と呼んでいいはずだ」
「僕の見た限りだと青空教室って感じだったね」
「お前の言葉通りだ。晴れた日にしか授業が出来ない。それでも授業のある日は意欲のある生徒たちが何人も授業を受けに来てくれる」
「教師冥利に尽きるね」
「ほんとにな。教師として喜ばしい事だ」
さっきとは打って変わって喜色を窺わせる声で同意した。
中央広場まで戻ってきた頃、ロスラフは世間話の要領で切り出す。
「君は英才教育を受けたって言ったけど、祖父母も教師だったの?」
「……ああ」
返答に迷うような間を置いて肯定した。
学校のことを話していた時より沈んだトーンで言葉を続ける。
「雇われの家庭教師をやっていた。戦前のフランスでな」
「フランスで家庭教師をしていたのに、どうしてこの街に住んでるの?」
「…………」
リアンが沈黙する。
質問したロスラフは彼女が答えたくないならそれでも構わなかった。
だから当たり障りのなさそうな別の話題に転じようと口を開き掛けると、リアンがぽつりと何かを呟いた。
呟きを繋げるようにロスラフにも聞こえる声で話す。
「……一人の教え子を匿うためだった」
「それが君の祖父母がここに住んでる理由?」
「教え子が結婚を反対されて駆け落ちした時におじいちゃんとおばあちゃんを頼ってきたらしくてな。教え子の身を隠すにはこの街が最適だったのだろう」
「駆け落ちした二人はどうなったの。身を隠しながら幸せになれたの?」
ロスラフの希望的な問いかけにリアンは残念そうに首を横に振る。
「行方が割れて引き離されたのだろう。私も聞かされただけだから詳しい事は知らない」
「そっか。なんか重い話をさせてごめんね」
「気にするな、会ったこともない他人の事だ。特に悲しんでなどいない」
話題を打ち切るように言った。
ロスラフは中央広場を見回しながら努めて明るい声を出す。
「どこか、僕が訪ねておくべき場所はあるかな?」
リアンはロスラフに答えるよりも先に広い路地の方へ歩き出す。
「お前は私に着いてこればいい」
「どこに行くつもりなの?」
明確に答えてもらえずリアンの後を追いながら困った顔で尋ねる。
「決められた所へ行く必要はない」
「どういうこと?」
「この街でお前が来たことを悪く思う者はいないはず。お前がやるべきことは皆に顔を覚えてもらうことだ」
「顔を覚えてもらう、か。それだけで僕がどんな人間なのかわかるかな?」
歩きながら思案顔になるロスラフ。
リアンは自身の左胸を指でつついた。
「お前の胸にあるバッチはなんだ。平民党の党首である象徴だろう」
「そうだね。でもこれだけで僕が何者かわかるの?」
この街の全員が父の事を覚えてるわけがない、とロスラフは考え訝った。
それでもリアンは頑なに主張する。
「お前のことを悪く思う者はいないと言っただろう」
「けど、十年も前だよ」
「いいからお前は私に着いてこい」
「……わかったよ」
リアンの圧迫的な口調にロスラフは渋々と折れる。
「それとその顔をやめろ」
「は?」
「笑顔で着いてこい。眉間に皺を作っていれば皆が心配する」
「確かに、そうだね」
彼女の意図することにようやく納得する。
常に顰め面で歩き回る人間を支持したいとは思わない。
ロスラフは表情を緩めて自然な笑みを浮かべた。
暮色が迫ってきた時分まで、ロスラフはリアンに連れられて認知度向上のために街中を歩き回った。
初めはニコニコと会釈をしながら歩いているだけだったが、ロスラフがどういう人物なのか噂によって広まるにつれ友好的に話しかけてくる人々も増えた。
途中からはさながら政治家らしい遊説という立ち居振る舞いで、ロスラフの口から投票を促す発言も飛び出すようになっていた。
熱狂的とまで言わないがロスラフ自身街の住民からの期待を肌に感じ、これまでにない手応えを覚えたのも確かだ。
住人の少ない地域に差し掛かると、リアンがオペラマスクの内側でしたり顔でもしていそうな声でロスラフに告げる。
「私の言ったとおりだったろう。この街にお前の来訪を望まない人などいないんだ」
「予想以上に期待されるとちょっと気後れしちゃうよ」
「情けない奴だな。それで本当にインネレシュタットの議席を獲得する気があるのか?」
「面目ないよ。党首になって五年目だけど今まで僕の話をまともに聞いてくれる人なんていなかったからね」
「この街の外ではやはり有社党が強いのか?」
「盤石だね。うちと有社党以外にも政党はあるけど軒並み支持率は低くて、有社党以外が議席獲得なんて想像もつかないよ」
「弱気だな。お前はそれを達成しようとしているのだろう?」
「今は想像つかないけど父さんは一度実現させてる。父さんに出来て僕に出来ないはずがない、とまでは言わないけど少しでも父さんに近づきたいから、やれるだけのことはやるよ」
「平民党という灯が消えたら人種差別が無くなるのは何千年の先の事になってしまうだろうな。お前の父は不幸にも命を絶たれたがこうして息子へと希望を繋いでくれた」
「君の発言を聞くと、すごい重大な役割を背負っている気分になるよ」
身に余る思いでロスラフは苦笑いした。
リアンが呆れたように鼻を鳴らす。
「もっと自信を持ったらどうだ。政党の党首というのは泰然としているものだろ」
「知り合いにもよく政治家らしくないって言われるよ」
「だがまあ、今日一日でお前の胸の内に燃える情熱は伝わってきた」
一転、満足げに漏らした。
ありがとう、とロスラフは微笑とともに言葉を返す。
「そう言ってくれると僕も自信が湧いてくるよ」
「感謝されることではない」
当然という声音で言った。
たちまち二人の間に沈黙が降りる。
リアンが会話の途切れるタイミングを図ったように話し出す。
「夕食の支度があるから私は帰る。おじいちゃんとおばあちゃんに美味しい物食べてもらいたいからな」
「そっか」
合いの手を返すロスラフにリアンが唐突に振り向いた。
声には出さないがたじろぐロスラフへ踵を下ろした姿勢のまま切り出す。
「次に来るときはパンぐらい用意してくれ。貧窮のひどい者は残飯のパンにしかありつけていないからな」
「パンか。わかった、用意してくるよ」
ロスラフはちょっと考えてから請け合った。
が、すぐに気弱な笑みを口元に浮かべる。
「けど資金がカツカツだから数には限りがあるだろうね」
「構わん」
パンの数はリアンにとって問題ではなかった。
引き受けてくれた彼の心意気そのものが嬉しかった。
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