3-3

 広場周辺のアパートに住む黒人たちから奇異の目を注がれながら、ロスラフは肩身の狭い思いで噴水の縁に腰掛けて更地で見た教師らしい人物を待っていた。

 待ちくたびれたロスラフが更地へ様子を見に行こうかと考え始めた頃、遠巻きに彼の事を観察していた黒人たちの眼差しが潮目のように変わった。


「ちゃんと待ってたんだな」


 周囲の視線の纏う空気が変異したのを感じた途端、五歩分ほど離れた位置から凛とした声が耳に入ってきた。

 ロスラフは声の方に向くなり我が目を疑う。


「え……………………」


 少女らしい華奢な身体の線を墨で染めたような黒い修道服で隠し、手先はテイラーのような綿手袋で覆われ、面貌には修道服と対をなす白いオペラマスク。

 定例会のあった日に遭遇した白い仮面の姿と驚くぐらいに合致している。


「あ、ああ……」


 白い仮面だと認識すると俄かに恐怖心で身体が震え上がった。

 どうして白い仮面がここに、という疑問よりも先に、あの日向けられた銃口の黒い穴をまざまざと思い出す。

 今度こそ殺されるかも――

 白昼堂々銃殺される恐怖を肌に感じ、逃げなくては思いながらも足腰に力が入らない。


「人の姿を見るなり怯えるな」


 呆れたような声音で白い仮面が言った。

 腕を組んで右足に体重を乗せると、背中に垂れている絹のような銀髪が揺れる。


「私はお前に実害は与えていないはずだが?」

「あ、ああ……」

「言語を失したのか。何かしら答えてくれてもいいだろ」

「……白い仮面」

「そうだが?」

「あ、ああ……」

「今は銃を持ってない。安心しろ」

「あ、安心できないよ」


 少しだけ言語を取り戻したロスラフがかろうじて返す。

 白い仮面は見せつけるように両腕を広げる。


「この通り、銃は持ってない」

「どうだか」

「何をすれば信じてくれる?」


 焦れたように言うと、ロスラフとの距離を二歩ほど詰めた。

 ロスラフは腰掛けた姿勢のまま身構える。


「あんまり近づかないでくれ」

「あんまりって言葉遣いが優しいな」

「その距離だと即死だよ」

「銃も他の武器も持ってない」


 非武装を主張して、さらにロスラフとの距離を詰める。

 ロスラフの手が届く間合いまで来ると白い仮面はおもむろに右手を突き出した。

 不意打ちに面食らうロスラフの左胸を突き出した右手の人差し指でつつく。


「平民党……」

「へ?」


 荒事には不慣れだが抵抗を試みるつもりでいたロスラフは、白い仮面の予想もつかぬ発言に拍子抜けした。

 白い仮面の指先は天秤を象ったバッチを示している。


「この胸飾り。平民党の党首である証だろ」

「そ、そうだけど。それが何か?」


 問い返すと、白い仮面は俄かに笑った気がした。


「十年ぶりだ」

「な、なにを言って……」

「十年。私はずっとこの胸飾りを付けている男が再来するのを待っていた」


 白い仮面が感極まった声を漏らした。

 瞬間、ロスラフの記憶が誘発される。


 十年ぶり――父がスラム街で慈善活動をしていたのも十年前。


「もしかして!」


 辿り着いた推測に驚愕しながらロスラフは思わず立ち上がった。

 ロスラフの動きにたじろいで手を引っ込めた白い仮面へ投げつけるように問う。


「胸飾りを付けている男。それはジルベルト・シュラー……僕の父の事ですか?」

「……」

「……」


 沈黙が降りた。

 ロスラフは答えを待ち、自分の胸ぐらいにある白い仮面のオペラマスクを見つめる。

 白い仮面がロスラフと振り仰ぐようにして首ごと上へ傾ける。


「お前の名前は?」

「ロスラフ・シュラー。平民党の党首をしています」


 白い仮面がほくそ笑んだ、気がした。


「お前に来てもらいたい所がある」

「僕に?」

「着いてこい」


 そう告げると、銀髪をはためかせて身を翻し歩き出した。

 白い仮面の意図に見当がつけられないままロスラフは後を追う。 

 歩幅の大小の差か、少し進むとロスラフが白い仮面の頭上に影を作るほど接近して窮屈そうな歩行に変わった。


「離れろ」

「うん?」


 前を行く白い仮面の呟きが聞き取れずにすぐに問い返す。

 白い仮面は歩きながらロスラフを顧みた。


「すぐ後ろを着いてくるな。離れて歩け」

「……わかったよ」


 白い仮面の不機嫌にさえ受け取れる声にロスラフは当惑し、距離を取るために歩く速度を緩めた。

 ロスラフとの距離が広がると、白い仮面が再び前を向いて歩き始める。


「警戒されてるのかな?」


 ロスラフは間合いを空ける理由がイマイチわからなかったが、わざわざ相手の不興を買うこともないと指図に従うことにした。

 しばらく狭い路地を縫うようにして歩くと、いきなり左右が拓けた場所に出る。

 石畳の駐車場らしき空間の奥に臙脂色を刷いたレンガ造りのアパートが窓ガラスや壁の所々が壊れた状態で建っており、先を進んでいた白い仮面がアパートの前で佇んでいた。

 ロスラフが一歩分離れた背後に近づくと、白い仮面が振り返りもせずに声を出す。


「私の家だ。三人で住んでる」

「そうなんだ」


 上手い返答が見つからない。

 反応に困った様子で相槌を打つロスラフに、白い仮面は半身だけを翻した。


「ここに招かれるものはほとんどいない。感謝しろ」

「はあ……ありがとう」

「家の中を案内してやる。狭いからみだりに動くなよ」

「わかったよ」


 ロスラフが了解すると、白い仮面は表面の薄皮が剥がれたオーク材のドアを押して中に入っていく。

 後を追うようにロスラフもドアを潜り室内へ踏み入った。

 出入り口すぐの場所にはアパートの外観には似つかぬ清潔に掃除されたキッチンやダイニングテーブルなどの生活家具が配されている。


「存外に綺麗だろ。毎日掃除してるからな」


 ちょっと誇らしげな声にロスラフは同意するように頷く。

 白い仮面の身体がキッチンの隣のドアに向いた。


「ここは応接間だから時おり客人が入ることもある。だが、この先の部屋は私が選んだ特別な人間しか入れない。今からその部屋にお前を入れてやる」

「それじゃあ、僕が特別ってこと?」

「十年ぶりの再来だからな、何よりの吉報だろう」


 少し喜びの混じった声音で言った。

 けれどもロスラフにはこの土地における自分の価値がいっこうに理解できない。

 志高き父の跡を継いだとはいえ、自身は父に遠く及ばない存在なのに。


「入るぞ」


 白い仮面が合図のように告げてドアを開ける。

 ロスラフは俄かに緊張しながら部屋の中へ進んだ。


「リアンかい」


 部屋に入るなり聞こえた老婆の声。

 壁紙の剥がれた左右両端にベッドが接して置かれており、どちらのベットにも人間らしい膨らみが見て取れる。

 声が聞こえたのは左のベッドからだった。

 ロスラフが目を移そうとした時、彼の横を通って白い仮面がベッドに歩み寄った。

 白い仮面はベッドの上に寝そべる膨らみへ話しかける。


「ただいま、おばあちゃん」


 ロスラフと対する時とは違う愛しさの籠った声色。

 白い仮面は一瞬だけロスラフに顔を向けてから、すぐベッドに寝そべる人物に向き直る。


「学校の方はどうだい?」

「今日も欠席無し」

「それは良かった。みんな元気なんだね」

「元気すぎるぐらいだ」


 和気藹々とした談笑。

 ロスラフからは掛け布団が陰になって老婆の表情が見えないが、声音だけで温厚な人物だとわかる。


「リアンや」


 続いて右のベッドから快活な老爺の声が響いた。

 ロスラフが視線を移すのと同じく白い仮面が右のベッドへ身を翻す。


「ただいま、おじいちゃん」

「何か危ないことはなかったか?」

「特に危険はなかったが朗報はある」


 弾むのを抑えたような声で告げる。

 老爺が息を呑む間に白い仮面がロスラフを振り向く。


「二人に顔を見せてやってくれ」

「僕の?」

「他に誰がいる」

「そうだよね」


 ロスラフも白い仮面の言わんとすることは納得できた。

 けれども白い仮面に際会し、賓客の如き扱いで紹介される事態は予想していなかった。

 自分はまだ何も成し遂げていないのに。


「こっち来い。ロスラフ・シュラー」


 白い仮面が手招きする。

 ロスラフは煮え切らない思いのまま左右のベッドの間に立つ。

 布団から顔を出している老夫婦を目にした瞬間、意外の感に囚われた。

 高齢で皺は多いが、白地に海岸の砂を混ぜたような色の肌。黒色人種で占められているスラム街の中では一度もお目にかからなかった、いわゆる西欧らしい白人の肌だ。


「ジルベルトさんの息子かい?」


 無言で突っ立つロスラフに老婆が穏やかな声で問う。

 ロスラフが返答するよりも先に白い仮面が頷いた。


「そのようだな。ジルベルト・シュラーのことを僕の父と呼んでいたからな」

「やっぱり。胸のバッジと目元を見てすぐにわかったよ」

「……僕は父に似てますか?」


 ようやく口から声を出したロスラフに老婆は顔の皺を動かして微笑む。


「ええ。優しさの中に強い意志を宿したその目、ジルベルトさんにそっくり」

「そうなんですか。父と似てるって言われたことないんですけど」

「体格はお父さんの方が逞しかったからね」

「もっと鍛えないといかんぞ」


 老爺がからかい口調で割り込んだ。

 白い仮面が同意するように腕を組む。


「おじいちゃんの言う通りだ。私に怯えていては熾烈な選挙戦は勝ち抜けないだろう」

「筋肉で票数が決まるわけじゃないんだけど」

「肩幅が足りんな」


 苦し紛れに言い返すロスラフに老爺が追い打ちの指摘をする。

 物理的な大きさでも父に負けたのか、とロスラフはがっかりする。

 ふふふ、と老婆が場を弛緩させるように笑い声を漏らす。


「ロスラフさんは戦争に参加していない年齢でしょうからね。ジルベルトさんのように逞しくないのも無理はありませんよ」

「慰め、ありがとうございます」

「いえいえ」


 ロスラフの礼の言葉に老婆は小さな笑みを返した。

 白い仮面がロスラフを正面に見据える。


「ロスラフ・シュラー。父の事で知りたいことはないか。知っている限りは教えてやる」


 単刀直入に質問を促した。

 和やかな雰囲気が一変し、老夫婦も笑みを引っ込める。

 父の事で知りたいこと――山ほどあるが常に頭を離れなかった疑問をロスラフは舌に載せて切り出す。


「……どうして父はこのスラム街で殺されたんですか?」


 白い仮面も老夫婦もすぐには答えなかった。

 しばしの沈黙を経てロスラフは繰り返す。


「どうして父はこのスラム街で殺されたんですか?」

「ごめんなさい。はっきりとした理由はわからないの」


 老婆が沈黙に耐えかねてそう返した。

 ロスラフが落胆しかけると真摯な瞳で言葉を重ねる。


「けど、これだけははっきり言える。ジルベルトさんは他人に恨まれて殺されるような人じゃない。ましてやスラム街の人達が彼を妬んで殺すなんてことは考えられない」

「そうは言っても父は……」


 スラム街で黒人に襲われ、亡くなっているのだ。

 沈痛の顔をするロスラフに老婆は理解したように小さく頭を上下させた。


「あなたの言う通り、ジルベルトさんはこの街で黒人によって殺されてるの。この事実は変わりようがないわ」

「じゃあやはり、父の事を憎んでいた人がいたんですね」

「世の中にはいたのかも知れないわね。でもこの街の人間を疑うのはやめて」


 切実な声音で懇願した。

 疑うなんてことはしませんけど、と答えてから言葉に詰まるロスラフ。

 白い仮面がふっと鼻を鳴らした。


「この街の人間が何の恨みもないお前の父を殺すはずないだろ、ロスラフ・シュラー」

「じゃあ、どこの誰が?」

「犯人を知りたいとは思うが、生憎と私たちも犯人が誰なのかは知らない」

「それでもスラム街の人ではないと断言できるの?」

「ああ、できる」


 躊躇を一切せずに白い仮面は言い切った。

 老夫婦も白い仮面に確信さえ窺える同意の視線を送る。

 白い仮面がロスラフに向けて打ち明ける。


「犯人は……スラム街で一度も見たことがない奴だったからだ」

「部外者ってこと?」


 即座のロスラフの着想に白い仮面が頷いた。

 ロスラフは目から鱗の思いで問いを繰り返す。


「スラム街の外から来た人間が父を殺したってこと?」

「当時からこの街に住んでいた者の中で外見が一致する人物がいない。だから私たちは部外者が犯人であるという結論に至った」

「何のために部外者が父を?」

「悪いが、私も犯人の目的まではわからない」


 それ以上の質問を断るニュアンスで白い仮面が首を横に振った。

 老爺がおもむろに腕を上げ、顎に手を添えて熟考に入ろうとしかけたロスラフの左胸を皺くちゃの手で指さす。


「ジルベルトの息子よ。君のやるべきことは犯人捜しかね?」

「あ……いいえ」


 思わぬ問いかけにはっとして、すぐに否定する。

 自分が何故この街に来たのか。

 胸の中で胎動していた想念を言葉に換えて決然と告げる。


「この街の実態を知り、この街に住む人々を理解し、この街に寄り添える政党を目指したいからです」


 ロスラフの熱意ある弁舌が部屋中に響いた。

 老爺が満足を感じたえびす顔で笑う。


「その心意気。ジルベルトにも負けてないぞ」

「あ、ありがとうございます」


 本心からの賛辞にロスラフは照れ笑いする。

 白い仮面が再び鼻を鳴らした。今度は若干に喜色を滲ませていた。


「その言葉、行動で示してくれよ」

「もちろんだよ」


 ロスラフの中で石のように形のあった念願が、巌のように大きくて固い物へと変わった。

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