三章 スラム街を訪問
3-1
ロスラフがドナイティと知り合った日から次の日曜日。
平民党の事務所にカールに付き添われてドナイティが来訪した。
カールとドナイティは応接室でロスラフの対面に腰掛ける。
「ドナイティがロスラフに尋ねたいことがあるらしい。聞いてやってくれ」
「聞きたいことね、わかった。ドナイティさん?」
カールから用件を伝えられ、すぐさまドナイティに水を向けた。
ドナイティは姿勢を正して改まった様子で切り出す。
「シュラーさんは壁の向こう側……スラム街に入ったことがありますか?」
ロスラフは問われた途端、知ったかぶりを見破られたように心臓が跳ね上がった。
嘘はつけないと苦々しげに返答する。
「実は一度もありません」
「ならば……」
「ユルゲンさんに止められてるんです。父みたいに襲われると危ないという理由で」
言葉を遮ってまでもロスラフは訳を話した。
カールがドナイティに対してユルゲンがどういう人物なのかを簡単に説明する。
ドナイティは頷き、しんみりしそうになる空気を飛ばすようにロスラフへ微笑んだ。
「サッカーボールはシュラーさんからのプレゼントだって言ったら、シュラーさんに会ってみたいと言い出しまして。よければ会ってやってくれませんか」
「ドナイティさんの息子に会うって、僕にスラム街に入って欲しいってことですよね?」
推測で物を言う。
ドナイティは首肯した。
「出来るならばシュラーさんにはスラム街の実情も知ってもらいたい」
「……そうですか」
ドナイティの切実な思いは伝わった。
それでも彼にとってスラム街は父が命を落とした悲劇の場所だ。
頼みを引き受けたい気持ちと父と同じ轍を踏んでしまうかもしれない恐怖心が、ロスラフを躊躇させる。
「何を迷ってんだよ。ロスラフ」
葛藤に陥るロスラフの耳にカールの焦れた声が流れ込んだ。
きょとんと目を瞬くロスラフに向かってカールが不満そうな顔つきで言い放つ。
「お前が耳を傾けるべきなのはよ、目付け役の言葉より苦しむ人々の生の声だろ。小さい子供みたいに言いなりにならず平民党の党首らしく信念と自負を持って行動しろよ」
「あ……」
「って、ドナイティが来る前に愚痴ってたぜ」
「え、スナイダーさん! 自分そんな失礼なこと言ってませんよ!」
思わぬタイミングで発言の責任転嫁をされてドナイティがたじろいだ。
ロスラフは気の抜けた笑い声を零す。
「はは、カールにはしばしばケツ叩かれるよ。僕の弱さを僕以上に把握してるのかなと思うぐらいだね」
「言ったの俺じゃねぇぞ。ほらドナイティ謝れ」
照れ臭さを誤魔化すためにカールはふざけてドナイティに謝罪を促す。
なんで自分が謝らないといけないんですか、とドナイティの方も言い返した。
漫才のような二人のやり取りにロスラフは笑いを堪えきれずに肩を揺らす。
「いや、ドナイティさんは謝らなくていいよ。二人のどっちが言ったにしろ、おかげで真面目くさって言いつけを守るのが馬鹿馬鹿しく思えてきたよ」
「それじゃシュラーさん?」
ドナイティが期待する目で見る。
ロスラフは請け合うように頷いた。
「スラム街に行くよ。父の死を乗り越えない限りは生の声は聞けないだろうからね」
彼の決心は揺るぎないものになった。
カールの方を向いて付け加える。
「もしもユルゲンさんに咎められたらカールに唆されたことにしておくから」
「構わねえよ。勝手に悪役にしやがれ」
満更でもない表情でカールはぼやいた。
決断すれば行動は早かった。
ロスラフはドナイティとカールに同行してもらい、レンガ塀に挟まれた細い入り口からスラム街の中に踏み入った。
入ってすぐのインネレシュタットの白人たちが不法に投棄したゴミ溜めの地帯を踏み越えて、トタン板で組み立てられた粗末な家屋が立ち並ぶ場所に出る。
「うわっ、くせえ。服にゴミの匂いがこびりついちまった。明日、会社行ったときなんか言われるかもなぁ」
カールが上着の袖の匂いを嗅ぎながら不平を垂れた。
ロスラフは冷めた目でカールを見る。
「心配することじゃないよ。カールはもともと匂ってるから」
「もとから匂ってねえよ。毎日身体を洗ってるし、服は手もみで洗濯してんだ」
「内側から滲み出るトロ臭さのせいだろうけどね」
「トロ臭くねえよ。これでも開発部の副部長兼工場長だぞ、結構偉いんだぞ」
「ドナイティさん。自宅はどちらですか?」
「あちらですな。行きましょう」
話逸らすな、と腹を立てるカールに構わずロスラフはドナイティに連れられて荒屋が並ぶ間の道を歩き出した。
家屋から外に出ていた黒人たちの奇異の目を浴びながら進むと、他とさほど変わりないトタン板の建物の前でドナイティが足を止めた。カールはなんだかんだ言いつつもロスラフに着いてきている。
「ここが自分の家です。まあ何もありませんが」
「おとっちゃんが帰ってきた」
ドアらしい板さえない矩形の穴から短髪の肌の黒い少年が顔を出した。
ドナイティが少年へ笑いかける。
「ヨッド。良い子にしてたか?」
ヨッドと呼ばれた少年はドナイティに溌溂な笑顔を向けた。
「おとっちゃん。今日は学校あるって」
「そうか、良かったな。忘れ物するなよ」
「任せろ」
自信満々にヨッドは言った。
「ヨッド。こっちおいで」
ドナイティが手招きすると、楽しみを待つようなイキイキとした顔でロッドが駆け寄る。
一言二言告げてロスラフの方へヨッドを振り向かせる。
「シュラーさん。息子のヨッドです。ほらヨッド、お礼を言わないと」
「わかってるよ。おとっちゃん」
ヨッドは元気に頷き、ロスラフの体面に立った。
「おとっちゃんを助けてくれてありがとう。それとサッカーボールありがとう」
「お礼なんていいんだよ。当然のことをしたまでだから」
感謝の言葉に面映ゆさを感じながらロスラフはヨッドに微笑んだ。
カールが意地悪っぽい顔でロスラフの肘で小突く。
「何を照れてんだよロスラフ。これからお前は政治家として感謝されることをしていくんだから慣れろ」
「おとっちゃん。こいつ匂う」
ヨッドが鼻を指先で摘まんで違う手でカールを指さす。
「おいてめぇ、今何て言った?」
カールは子ども相手にチンピラの如く詰め寄った。
ドナイティが慌ててヨッドを説諭し、ヨッドは仕方なさそうにカールに謝った。一応は事なきを得た。
ヨッドが廃材のような木工ボードを小脇に抱えて学校に出掛けると、ロスラフはドナイティに家屋内へ招き入れられた。
「お茶も何もお出しできるものはありませんが、どうか見ていってください。気になることがあればお答えします」
ドナイティの厚意に甘えてロスラフはカールとドナイティ家周辺を見て回ることにした。
まず目についたのは家屋の外に置かれた大人一人が収まるぐらいの大きな木樽だ。
中を覗き込んだカールがイヤらしく匂いを嗅ぐ。すぐに顔を顰めた。
「あんま良い匂いじゃねーな」
「それは生活用水です。ただの雨水なんですけど」
ドナイティが苦笑交じりに説明した。
腐ってんじゃねーのか、と執拗に樽の水に鼻を近づけるカールを無視して、ロスラフが質問を重ねる。
「塀の外とは違って水道管が通ってないんですか?」
「その通りです。自分も工場で働くようになって塀の外に出ましたが、蛇口を捻ると清潔な水が出てくるのには感動しました」
「雨が降らない時期はどうしてるんですか?」
「アパートに住む長老夫婦の許可が下りれば森の奥にある池から汲んできていました。それでも街全体で水不足なのは否めませんがな」
「長老夫婦は、その、この土地を束ねるような存在ですか?」
「この街で最も頭の良い人達なんです。あの長老夫婦だけは特別でね、街の皆があの夫婦の判断を頼りにしているんですよ」
「どんな夫婦なんでしょうか?」
「自分も直接に会ったことはないんですよ。あのアパートに住んでる夫婦を敬いなさいとは昔から言われてきたが、実際どういう人物なのか」
ドナイティが腕を組んで首を傾げる。
ロスラフは長老夫婦に興味があったがこれ以上は聞き出せないと判断して、話題を別の関心事に移す。
「そういえば先ほど息子さんが学校に行きましたけど、この街に学校があるのは少し意外でした」
「意外に思うのも無理ありません。塀の外から見れば教育とは無縁の場所でしょうから」
「ロスラフあれじゃねーか。際立って大きな建物があるぞ」
いつの間にか樽から離れて会話に割り込んでいたカールが、背伸びするようにして西方の彼方を指さした。
ドナイティはカールの指さす方向を見て苦笑した。
「あれは学校じゃないです。長老夫婦の住むアパートです」
「あのデカいのが家なのか。一体何人で暮らしてんだよ」
「長老夫婦はあのアパートに住んでるらしいんですが、近頃は外に出てくるところを見たという話も聞きませんね」
「他の家はこんな素人が作ったようなトタンなのに、自分たちだけアパートかよ」
腹が立った声音でカールが会ったこともない長老夫婦を詰った。
ドナイティは気の毒そうな目を彼方にあるアパートに向ける。
「あのアパートも決して住みよいとは言えません。改修工事はされてないし、二階より上の窓はガラスと戸が壊れたまま放置せざるを得ない。そのくせ風通しは悪いらしいですし、むしろこっちのトタンの家の方が風通しは良いので清潔なぐらいです」
「どうして、そんな住みよいとは言えない所に住んでるんですかね?」
「家を建てるお金が無いのでしょう。それ以外の理由は自分にもわかりません」
それ以上の質問を避けるように首を横に振った。
会話が途切れそうになったところでロスラフは切り出す。
「よろしければ、ですが。他にもスラム街の中をいろいろ案内してください」
「構いません。では中央広場の方に行きましょう」
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