2-4

 翌日、事務所のソファに寝かされた黒人男性は、窓から射し込む太陽の光を瞼の裏に感じて目を覚ました。

 対面のソファに腰掛けていたロスラフがほっとしたような表情を浮かべる。


「よかった。目覚めなかったら事務所休みにしようかと考えてたんですよ」

「……あなたは?」


 寝ぼけ眼でロスラフを見つめながら黒人男性は上体を起こす。

 ロスラフの方へ身体を向けようとしたところで、昨日に暴行を受けた脇腹がじんわりと痛んで眉をしかめた。


「大丈夫ですか?」


 慌ててロスラフが腰を上げるが、黒人男性は苦笑いで手を突き出して介助を遠慮した。


「これぐらいなら心配いりません」

「まだ痛そうですけど」

「痛むには痛むが、昨日と比べればだいぶ痛みが引いてる」

「無理はしないでくださいね」

「あなたが手当てしてくれたのですか?」


 黒人男性はロスラフを正面に見据えて尋ねた。

 ロスラフは頷き、ついでのように付け足す。


「サッカーボール買ってきました。テーブルの下にあります」


 ロスラフの言葉を聞き、黒人男性はテーブルの下を覗いた。

 剥き出しのサッカーボールが絨毯の上で静置されている。


「ありがとうございます。代金をお支払いします」

「お金の事なら大丈夫です。僕から息子さんへプレゼントだと思って受けとってください」

「あなたは何故そこまで……名前を教えてもらっていいですか?」

「ロスラフ・シュラーって言います。これでも一応、平民党っていう政党の党首をやってるんですよ。もしよかったら、あなたのお名前も聞かせてください」

「俺はアーヨルド・ドナイティって言います。ロスラフさんの平民党はたしか俺の働く工場が推してたところ、ですか?」

「ドナイティさんはもしかしてカールの工場で働いてるんですか。そうすると仕事に支障をきたさないかどうか、素人なのでちゃんと手当て出来たか不安なんです」

「手当てをしてくれただけでも有難い。あなたに会わなかったら路上で野ざらしだったでしょうから」


 言ってから、しんみりした空気を紛らわすように呵々と笑って肩を揺らした。

 ロスラフは真面目な顔で話を続ける。


「体調の方はどうですか。どこか悪いところや違和感などありますか?」

「蹴られたところが少し痛むが、一人で歩けないほどじゃないはずだ」

「そうですか」


 心の底から安心した声で言った。

 気が軽くなった動きでロスラフはソファから立ち上がる。


「お腹、空いてませんか?」

「うん? まあ空いているが」

「大したものじゃありませんが、朝食一緒にどうです?」

「と、とんでもない」


 ドナイティは厚意を受け止めきれないとばかりに首を横に振る。

 それでもロスラフは腰を下ろさずに、紙袋の置かれたフリッカの事務机に近づく。


「事務所の仲間がパンを二人分用意してくれたんです」

「いや、しかし」

「少し話も聞きたいですし、一緒に食べましょうよ」



 しつこいぐらいにロスラフは朝食に誘った。

 ドナイティが根負けして頷くと、紙袋を持ってソファに腰掛け直した。

 対面するソファの間にあるローテーブルに紙袋を置き、中からライ麦パン二つを取り出して一方をドナイティに差し出す。


「はい。どうぞ」

「あ、どうも」


 ドナイティは受け取ると物珍しげにライ麦パンを眺めた。


「美味しいですよ」


 ロスラフは食べる前からそう言うと、自分の分のパンを齧った。

 うん、と一人で味わって頷く。


「やっぱり店長さん手作りのパンは良い味してるね。雑味がない」

「は、はあ」

「あ、飲み物いります。水ぐらいしか用意できませんけど」

「いやいや。そうじゃないんです」


 ドナイティはロスラフの問いかけをいなすように手で否定を示した。

 パンに齧りついたままロスラフは疑問符を浮かべる。


「何か気になることでも?」

「あー、いやあ」

「後々代金を請求するなんてことはしませんよ。パンぐらい遠慮なくご馳走になってください」


 呑気な声で言い、空いた口の中にライ麦パンをちぎって運び入れた。

 ドナイティは質問を言いそびれて、仕方なくライ麦パンに齧りつく。

 不純な混ざり物の少ない硬めに焼かれた生地から舌へ麦の甘味が乗り移り、ドナイティの顔に驚きが広がる。


「これがパンですか」

「美味しいでしょ?」

「朝からこんな贅沢な味を勿体ないぐらいですな」

「大袈裟ですよ」


 ロスラフはドナイティの発言に笑みを漏らす。

 ドナイティの方も合わせて苦笑するが、先ほど言いそびれた事が胸に残って気持ちが晴れない。


「仕事には問題なく戻れますか?」


 ドナイティの気掛かりなど知らずロスラフが尋ねる。


「戻れますよ。ロスラフさんの手当てのおかげですな」

「では、食べ終わったら職場の方まで行きますか。時間的に遅刻扱いになってしまうので、僕が着いていって証人として上司に事情を説明しますよ」

「すみません。何から何まで」


 ロスラフの親切を申し訳なく思いながら頭を下げた。

 ドナイティを工場まで送り届けてから、ロスラフはこの日の選挙活動に着手した。

 フリッカに迷惑を掛けたくないばかりに、欠伸を我慢しているのは言わないでおいた。

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