2-3

 心許ない所持金になったロスラフとフリッカは銀行でいくらかお金を引き出してから、選挙活動を再開するため市場へ引き返していた。

 すでに陽は斜めに傾き、街には夕暮れが迫ってきている。目に見えて仕事帰りの人々が増えていた。


「ロスラフ。何時までお店回る?」


 歩きながらフリッカが判断を仰いだ。

 インネレシュタット市では一年前から労働者の働き過ぎを改善するため、飲食店や宿泊施設、市が認定した風俗店以外は規則として午前七時から午後七時までが営業時間と定められている。

 この労働規則の策定には有社党も一枚噛んでいるのだが、商売をする一部の人からは差別化に難航してしまうという不満も湧いており、未だに是非は決まっていない。

 政党事務所も規則の例に漏れず、ロスラフとフリッカが活動できるのも午後七時までだ。


「今、六時ぐらいだよね?」


 ロスラフが考えながら腕時計を見る。

 時間で言えば、あと二店舗ぐらいは訪問できそうだ。


「六時半頃には閉めちゃう店もあるから、訪ねたい店があるなら今のうちに行かないと」

「気まぐれで店じまいするところ多いからね。この時間で開いてるお店ってあるかな?」

「うーん。私も把握してるわけじゃないのよ。行きつけのパン屋はきっかり七時まで開けてるけど」

「あの人のところは訪問する意味はないね。飲食店なら人は集まってるけど、そのぶん有社党支持者もたくさんいて安易に所属政党を標榜できないからね」

「私たちの党だと追い出されるよりまず笑われるんじゃない」

「どうして?」

「冗談に思われるからよ。そんな政党存在しねーよ、って」

「……それはそうかも」


 議席獲得を巡る争いの土俵にさえ立てていない事実に、ロスラフは急に泣きたくなった。

 渋い表情をするロスラフを慰めようとフリッカは努めて陽気な笑顔を浮かべる。


「大袈裟に言っただけよ。実際はもっと友好的に話を聞いてくれるわ」

「それ多分、有社党の対抗馬として見られてないだけだよ」

「そんな悲しいこと言わないで」


 ロスラフの悲観的な言葉にフリッカも気を落とす。


「やれることをやるしかないよ」

「お金無いからやれること限られてる。こうして党首が自ら宣伝のために練り歩くぐらい」

「それなりに大きい規模の政党なら選挙用の車の上で演説とかするんだけど、車を買うお金なんてないし、そもそも政党を維持するだけで厳しいよ」

「ラジオで宣伝する資金はもちろんないし、ポスターの原本なんて私の手書きよ」

「ほんと。フリッカには何から何まで手伝ってもらっ……」


 申し訳なさそうにしているロスラフの言葉が俄かに止まった。

 前方を見る目が瞋恚を抱いたように細められる。


「どうしたのロスラフ?」


 言いかけたロスラフをフリッカは不思議そうに見つめる。

 問いかけには答えずロスラフは彼女の片方の肩に手を置く。


「フリッカはここで待ってて」

「急にどうしたの?」

「いいから。僕が戻るまで来ちゃダメだよ」


 ロスラフは訳を言わず、フリッカを街灯の傍に残して前方へと歩いていった。

 彼が向かう先では、工場からの仕事帰りらしい灰色のつなぎを着崩した二人組の青年が蹲った人間を蹴りつけていた。

 フリッカは言いつけ通りその場に留まって、二人組の青年に歩み寄るロスラフを眺める。


「そこの二人。ちょっといいかな?」


 ロスラフは道でも尋ねる口調で話しかけた。

 二人組の青年は振り向いて興を削がれたように顰め面をする。


「なんだぁ、てめぇ?」

「俺達が何かしたって言うのか?」


 弱気に出ればいつでも脅しかかる威勢だ。

 青年たちの態度にロスラフは怯むことなくコートの内側から財布を取り出す。


「僕も鬱憤が溜まっていてね」


 共感を示すように言って財布の中身を全て掌にぶちまけた。

 にやりと口の端を吊り上げた青年たちに掌を差し出す。


「これでどう。一人でやりたい気分なんだ」


 二人組の青年はロスラフの差し出す金額を文字通り値踏みすると、合意するように卑しい笑みを浮かべた。


「いいぜ。これで譲ってやるわ」

「あんたも楽しんでな」


 ロスラフに仲間へ向けるような声を掛けると、貰った金銭を弄びながら飲食店の多い方角へ立ち去っていった。

 青年たちの姿が路地の角に消えるのを見届けてから、ロスラフは足元で亀のように丸くなる人物に目を遣った。

 水色のつなぎの隙間から浅黒い肌が覗く無精ひげを生やした中年の黒人男性だ。


「もう行きましたよ」


 ロスラフが声を掛ける。

 黒人男性はロスラフの顔を見ずにひたすら怯えている。


「……僕は何もしません。安心してください」


 言葉を選ぶような間を置いてからロスラフは柔らかい声で言った。

 それでも黒人男性は蹲る体勢を解かない。

 ロスラフはしゃがみ、黒人男性の耳の傍で喋る。


「一人で立てますか。お怪我はありませんか?」

「……うっ」

「ロスラフ・シュラーと言います。一人で立てないようでしたら肩をお貸しします」

「……ああ?」


 黒人男性が顔を上げた。

 ロスラフの心配そうな顔を視界に入れると、呆けたようにロスラフを見つめた。


「よかった。気付いてくれましたね」

「……あなたは?」

「ロスラフ・シュラーです。それよりお怪我はありませんか?」

「……ああ、大丈夫だと思う」

「一人で立てますか」

「……ああ」


 夢を見ているような解せない表情のまま、黒人男性は膝に手をついてゆっくりと腰を上げる。


「……それでは」


 ロスラフに会釈をして青年たちとは反対方向に歩き出そうとして、ふらりと重心が傾いたようによろけた。

 ロスラフは慌てて黒人男性に寄り添い、見た目よりも痩せた身体を支えてあげた。痛めた箇所に触れてしまったのか黒人男性が苦しげに唸る。


「どちらへ向かうつもりだったんですか」


 尋ねながら、断りなく男性の腕の下に入り肩を貸す。


「……市場の方へ。息子にサッカーボールを買っていってやろうと思って」

「そうですか」


 相槌を打ってロスラフは思案した。

 男性の希望を叶えてあげたいが、肩を貸しているとはいえ負傷した状態で長い時間歩かせると怪我が悪化することもあり得た。しかし男性が黒人であるため助けを求めても誰も救護に加わってはくれず、病院でさえも受け付けてはくれないだろう。

 彼が決めかねていると肩で支えている男性の身体が不意に軽く感じた。


「このままどこに行く気、ロスラフ?」


 馴染みのある女性の声が男性を挟んだ向こう側からして、ロスラフは目を瞬かせる。

 黒人男性の反対の肩をフリッカが支えていた。


「フリッカ。いつの間に?」

「ロスラフが肩を貸したあたり。理由も言わずに置いていかないでよ」

「ごめんフリッカ、銀行から借りた活動資金をほとんど渡しちゃった。この人をほっとけなかったから」

「選挙活動なんてどうとでもなるわよ。それより、この男性はどこに連れていけばいいの?」


 置いてきぼりにしたロスラフを責めずに行き先を訊く。

 ロスラフは黒人男性に目顔で伺ってからフリッカに説明する。


「市場に行きたいそうだよ。だけどこの状態じゃ厳しいから、まずは手当てをしないと」

「……自分は、大丈夫、です」


 男性は切れ切れの声で言い張った。

 けれどもロスラフは意地でも男性を一人で市場に向かわせる気はなかった。フリッカに向けて指示を告げる。


「ここからなら事務所が近い。僕はこの男性を事務所まで連れていくから、フリッカは市場でサッカーボール買ってきて」

「わかったわ。手当の道具は一番下の引き出しにあるから」


 そう告げると、男性からそっと離れて市場へと足を向けた。

 ロスラフは市場とは逆の方向へ男性に寄り添いながら反転する。


「事務所に着くまでの辛抱ですから、頑張ってください」


 励ますように言って事務所へ歩き出した。



 ロスラフは黒人男性を事務所の応接スペースにあるソファに横たえさせ、自身に出来得る限りの手当を施してあげた。

 痛みに呻いていた黒人男性が寝息を立てて落ち着くと、事務所の戸締りを確認するため男性をソファに残して執務室に移動した。

 執務室には今まで留守番していたユルゲンが、今朝にロスラフが見た時と同じ席に就いて書類を捲っていた。

 ロスラフが黒人男性の手当てを終えたと見て、書類を捲る手を止めて振り向く。


「さっきの彼は誰だね?」


 責めるではない純粋に不思議そうな声で尋ねる。

 問われた瞬間にロスラフは微苦笑した。


「そういえば。名前を聞いてなかったですね」

「路傍で倒れていたところを助けた、という感じかな?」


 ロスラフの表情を読み取ったように言う。

 隠すことではないと判断してロスラフは黒人男性を運んできた経緯を打ち明けた。

 ふむ、と相槌を打ってからユルゲンは疲れた顔になる。


「気の毒になるくらいのお人好しだね、君は」

「そうですか?」

「そうだとも。雀の涙ほどしか残っていない活動資金を渡してでも見知らぬ男性一人を助けるなんてことは、職業云々関係なく出来る人はいないよ」

「人に良く見てもらいたいがために行動してるわけじゃないんですけどね」


 ロスラフは実感がなく首を捻る。


「君は政治家として損な性格をしているよ」

「損ですか。でも、見て見ぬふりはどうしても出来ないんですよね」

「親切なのは感心するがね、選挙活動が疎かになっては支持者は増えないよ。支持者が増えなければ議席を取ることも叶わない」

「ユルゲンさんの言う通りです。もう少し精進しますよ」


 指摘を素直に受け入れた。

 話題を移すようにユルゲンは表情を真面目なものに戻す。


「一応。今日の報告を」

「はい」

「訪問者無し、電話も無し。一日中書類の整理をしてたよ」

「訪問者も電話もありませんでしたか。ユルゲンさんに留守番を頼まずに事務所空けといても問題なさそうなぐらいですね」

「訪問者が来た時に応対できないですからな。遠慮なく留守を頼んでくれていい」

「すみません。甘えてばかりで」

「党員である以上は事務所の留守番も仕事のうち、ですぞ」


 安心させる微笑みで請け合う。

 ロスラフはこれ以上ない頼りがいをユルゲンに感じた。

「ユルゲンさんがいなかったら、おそらく平民党はとっくの前に解散してましたね」

「大したことはしてないよ。平民党が続いているのはロスラフ君の頑張りのおかげだ」


 ユルゲンは謙遜して党首であるロスラフを持ち上げる。

 いえいえ。そんなことは、とロスラフも謙遜して、謙遜合戦が始まりかけたところでユルゲンが応接室に目を向ける。


「あの男性はいつまで寝かせてるつもりかね?」

「自然に起きるまで寝かせてあげましょう。無理に帰らせれば傷が痛むでしょうから」

「ロスラフ君が言うなら、あそこでそっとしておいてあげるか」


 ユルゲンはそう呟くと、書類を畳んで革製の手持ち鞄に仕舞った。

 帰り支度を済ませて椅子から立ち上がる。


「ロスラフ君。自分は帰らせてもらうが、いいかね?」

「はい、帰っていただいて構いません。男性を一人にするわけにはいかないので僕はここに泊まっていきます」

「では、任せるよ」


 黒人男性の介抱をロスラフに委ねて、ユルゲンは事務所を出て家路に就いた。

 ユルゲンが帰った一時間後、フリッカが市場からサッカーボールを買って事務所に戻ってきたが、サッカーボールだけを置いて退勤してもらった。

 自分で招いた事態は自分一人が責任を持って完遂すべきだ、とロスラフはお人好しを発揮して事務所で一夜を過ごした。

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