第4話 君を悼んで

 次の日、鬼界は昼夜が逆転しているので、私たちは夕方に起きた。

 朝食の代わりの夕食を食べると、王賀は手招きして私を呼んだ。そして、彼の書斎に通してくれた。

「自由に使って」

「いいの?本当に良いんですか!」

 私は嬉しさのあまり跳び上がりそうになった。

「もうここから離れたくない!」

「本当に?ずっとこの家に居てくれるの?」

 王賀の声が弾んだ。

「すごい……。こんなにたくさん……。武経七書まである……」

「うん、生前は武科挙を受けるつもりでいたから」

 懐かしそうに王賀は本を手に取った。

「武科挙……!」

 教科書でしか聞いたことのない単語に、私は鸚鵡返しに繰り返した。

 科挙とは、隋の時代に始まった中国の文官登用試験で、身分に関わらず受験できたため競争率が激しく、その分、数々の秀才天才を輩出している。

 一方、武科挙とは、その武人版。武官登用試験である。

 武芸ができるのはもちろんのこと、筆記試験もあって試験内容は「武経七書」から出題される。この「武経七書」というのは、兵法について書かれた七種類の本であり、簡単ではない。

 私は、新婚初日に孤魂野鬼から私を救ってくれた王賀の剣裁きを思い出していた。

 きっと登用されたに違いない。

「結果はどうだったの」

「それが、試験前日に河で溺れました。水に落ちた女の子がいて、助けられたのは良いものの、自分はダメでした。何というか、お恥ずかしい話です」

 頭を掻いて、王賀は本を書棚に戻した。

 私は何も言えなくて、彼の顔をじっと見ていた。

「まあその、一応武芸に覚えはあったので、死んだすぐ後に無常様がやってこられて、剣の腕と正義感を見込まれて冥府の役人になったわけです」

「そうだったんですね」

 にこにこと穏やかに微笑む彼の顔を見ていると、私の目にじわりと涙が込み上げてきた。

「ど、どうしたんです?」

 王賀は、慌てて私の涙を自分の服の袖で拭った。

「……武科挙、受からせてあげたかったなって思って。勝手に偉そうなこと言ってごめんなさい」

 私は泣きながら言った。

 人生は残酷だ。彼が可哀想だ。

 あんなに腕が立つのに。勉強だってしていたのに。

 それに、私がこちらに来てからも毎日、彼が鍛錬を欠かしたことはなかったのを私は知っていた。

「あなたに悼んで貰えて僕は幸せだ」

 そう言って王賀は、まだ泣きやめずにいる私を抱き寄せた。

いつの間にか、彼も貰い泣きしたようだった。

 二人でちょっとだけ泣いて、やがて落ち着いた。

 落ち着いてからも、身を寄せ合って話をした。

「必ず、ご両親に挨拶に行くから少し待っていて欲しい。現世よりもずっとずっと幸せにするから」

 王賀は、そう言って私の手をぎゅっと握った。

老公ラオゴン

と、私は彼に呼びかけた。中国で、夫を呼ぶ時の呼び方だ。

 彼はちょっと目を見開いて、どう返事をしたものかと考えているようだった。

「私、あなたが思っているような女じゃないかもしれませんよ」

「そうかもしれません。でも、あなたが本当はどんな人なのか知っていきたい」

「知っていくうちに愛想が尽きたら?」

「こんなに愛しい人なのに、愛想が尽きたりしないよ。彩英、僕は君に出会って千年に一度の恋に落ちたと思ったんだ。僕が言うんだから、本当に千年の恋だよ」

 王賀は両手を広げて見せた。彼の衣服がよく見えた。

 昨日連れていってもらった鬼市を思い出す。「清明上河図」に描かれた北宋の都・開封のようだった。

 彼の衣服と連れていってもらった鬼市の様子から彼の生きていた時代を思い浮かべる。

「北宋の人?」

「北宋の人」

 王賀は嬉しそうに頷いた。

「本当に千年だね」

「そうだよ」

 彼は、私を引き寄せた。

「君に会うまで千年かかった」

 優しい声だった。

「好きになってくれなくてもいい。でも、どうか嫌わないで」

「……嫌いになったりしません」

 私は彼の胸にもたれかかって言った。

「だから、私のことも、嫌いにならないで」

 彼は一層きつく、私を抱いた。

「仕事は、いいの?」

「まだ出仕まで時間があるよ」

 そっと優しい口づけが降ってきて、私はそのまま彼に身を任せた。

 王賀は、そっと羽で触れるように優しく私に触れた。

 私は、なるべく体を緩めて、彼を受け入れようとした。

 そうして、それまで先延ばしになっていた初夜を済ませると、慌ただしく王賀は仕事に出かけていった。

 私は気怠い体を起こして、今日の家事をどうするか段取りを立てる。

 余韻の残る体は、未だに少し震えていた。

 本当に、夫婦になったんだと、私は自分の体を抱きしめながら思った。


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