第一章 小学生≠大人 7
七
「学校に着くときはもう十三時過ぎですね。上手く終われば、今日は皆さん直帰ですか?」
後部座席から塚が聞き、運転する仁楠はいいよ、と答えようとしたが、それより先に、和井得がたしなめた。
「気が早いよ。監禁までされている事態なんだよ」
「わたし、言霊を信じているんですよ。成功した後の話をしていれば、成功すると思うんですよ」
「楽観的な態度は、失敗を招くよ。ジンクスに頼ってちゃ駄目さ」
和井得の強い言葉に、仁楠は背中越しでも、落ち込む塚を感じた。
「まぁ、和井得くんの言うことも一理ある。計画とか準備段階は、悲観的に考えて、考えうる事態を考え尽くしておく方がいいと思う。
それだけ一生懸命考えた後、いざ当日、いざ本番、というときには、これだけ準備したんだから大丈夫、と楽観的に行動したら、成功すると思うよ」
そうですね、と和井得の機嫌も損ねずに塚をフォローできたので、仁楠は安堵した。塚のフォローに躍起になりすぎて、他の部下からの信頼を失ってしまうわけにはいかなかった。
ボルドー小学校に着いたのは、十三時を少しまわったころであった。車を降りると、ジトっと汗をかいた。六月の立川は、肌着が皮膚に吸い付くような不快な気温をしていた。
真っ黒で重量を持った雲が低い高度まで下りてきていた。
「小学生のこの季節って、大雨が降る前に、お昼間なのに教室の窓の外が真っ暗になって、興奮しませんでした?」
「まったく思い出せないよ」
和井得は塚にまったく同意せずに、スマートキーで社有車を施錠した。
立川駅前一等地を陣取る私立小学校の構えに、三人はほんの少し気圧された。
石造りを想起させる外壁と、五階建ての校舎は、三階と五階だけベランダが造られていて、パリのノートルダム大聖堂を中心としたフランスの街並みには溶け込みそうな、しかし立川には異質な校舎であった。
「気のせいかもですけど、ディオールのふーんわりした、でもめっちゃ高い香水の匂いがします」
塚は二の腕を鼻に近づけてクンクンと嗅ぎ、自分の香水より高い匂いがする、とボソリと低い声でうなった。
「待っていました。どうぞ、こちらへ」
三人を校門の前で出迎えた降江は急いでいた。てっきり応接室に通されると思っていた三人であったが、降江はいきなり六年一組、そう、事件現場へ誘導した。
「いやいや、ちょっと待ってください。準備とかいろいろあるでしょう」
「急を要するんです。お願いします。お願いします」
泣きそうな降江と和井得とが揉めて、仁楠がそれをなだめ、誰よりも背の高い塚が、教室の窓から中をのぞき込もうとした。
「あー、だめです。新聞紙が窓に貼られていて、見えないです」
それでも、大人が二人口論をしているので、教室の中から物音がし始めた。どうやら誰かが来たぞ、と身構えたようだった。
降江は、ひえっ、と情けない声をだしてしゃがみこんだ。和井得はしまった、と言った。このしまった、とは、中からバレた、ということにではなく、まず応接室か職員室で準備したあと、塚とはそこで別行動をとろうと思っていたことについてだ。これで、塚も現場にかかわることになってしまった。
スッ、と、ドアの下の隙間から、紙切れが出てきた。
「あー! これは生徒たちからです。朝から、この紙切れが出てきて、それでわたしたちに指示や要求が伝えられるんです」
降江は、静電気を帯びているドアノブに手を伸ばすときのように、体は距離をとりながら、そーっと慎重に腕を伸ばした。じれったくなった和井得は、ズカズカと歩み寄り自分で紙を取り上げた。
和井得と降江との相性は悪そうだ。
「誰が来たのか、説明しろ、とのことです。どうします? 要求通り来ましたよ、と無理やりドアを開けますか? 降江先生。マスターキーくらいあるでしょう」
「古里織(コリオリ)先生の安否が心配です。そんな乱暴はできません」
「あなたは、警察にも相談しないし、行動もしないし、どうしたいんですか」
和井得は怒気をはらみながら降江をなじった。
「あ、ここ、新聞紙の貼りが甘いです。中が見えますよ」
「ちょっとちょっとあなた! 生徒を刺激するようなことしないでくださいよ!」
降江が塚の肩をつかんで揺さぶるが、塚はやめようとせず、
「あー、でも真っ暗ですね。机を重ねて、バリケードみたいにしていますけど」
と、中の様子を伝えた。
仁楠と和井得ものぞき込もうとしたが、仁楠は目線が届かず、和井得はあまり目が良くないため、諦めた。
「とにかく、要求通り来たぞ、と伝えれば、開けてくれるでしょう。和井得くん。そう書いて、お手紙を返してあげよう」
「叫べば終わりますよ。面倒くさくなってきた」
和井得は普段そこまで反抗的な態度はとらないが、降江へのイライラを、全方位にぶつけ始めていた。和井得は有能だが、これくらいのアンガーマネジメントはできないと、主任への昇格推薦はちょっと難しいな、と仁楠は思った。
「ハンブルク研究所から来た者です。あなたたちの要望通り来ましたよ。開けてくれますよね?」
ドアの前で叫んだ和井得の声に、隣の五年生のクラスが反応して、ワラワラと何人か生徒が出てきた。だが各学年の担任の先生には事情が行き渡っているようで、先生の指示ですぐに教室に戻っていった。
ガチャ、と鍵が開く音がした。
鍵が開く音というのは、たとえその前後どれだけ人が騒いでいたとしても、その喧噪に四部休符を挟むようにくさびを打ち込む。当然この場でも、開錠音以外のノイズはすべて、一瞬で駆逐された。
「入ってください」
現れた人影は、当然仁楠よりもはるかに小柄であるはずった。
だが目の前に現れた人影は、仁楠よりも大柄だった。端正な、小ぎれいで、どことなく「フランス」が似合う、壮年の男性であった。
「えっと、小学生、ですか」
「はい。生徒です。ぼくが呼びました。さあ、入ってください」
呆気にとられる仁楠は、口を開けたまま振り返り、二人を見たが、とにかく行くしかありませんよ、と塚が言い、なんとかその生徒に向き直った。
「その、えーっと、何歳ですか?」
「六年生なんですから、十一か十二に決まっているでしょう」
そんな質問なんてしていないで中に入って、と強引に促され、仁楠はつまずくように中に入った。
部屋は電気がついていない。その上、窓の外も真っ黒な雲が広がっているから、教室は暗く、質量を持った重さが待ち構えていた。
もうじき、大きな雨粒が窓を打ち付けるだろう。
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