第70話 トイレの私さん

放課後。いつものようにさっさと帰ろうとしたが、廊下の曲がり角から突然現れた半坂さんに腕を掴まれた。困惑する僕の腕を半坂さんは千切らんばかりの力で引っ張る。途中でこけた僕がそのまま引きずられて来たのは、西棟三階屋上前の踊り場だった。

「怖い話して」

僕を床に放った半坂さんはそう言った。

怪談を聞かせると暴力を振るってくる人に怪談をせがまれる。この状況が僕には十分怖い話だが、彼女が求めているのはそういうことではないだろう。

「別にいいけど……なんで?半坂さん、怖いの嫌いなんでしょ?それに僕とはあんまり話する間柄でもない……」

キッと鋭い角度をつけていた彼女の眉が水平に、無表情に近づいていくのを見て、背筋に冷たいものが走る。怒ると無機質な真顔になる彼女の癖が現れ出でていた。

あまりにも理不尽な状況に納得いかない思いはあったが、殴られるのは痛いし、早く帰って課題もしないといけない。

僕はしぶしぶ、一席語ることとした。



まさか自分が、トイレで昼食を摂る日が来るとは。

彼女は呼吸を堪え、嫌な臭いを吸い込まないよう気を付けながら弁当の具を口内に掻き入れる。教室では食べられない。彼女を虐める女子生徒たちがいるからだ。

「どうしてあたしがこんな目に……」

ほうれん草のおひたしを音もなく咀嚼しながら、彼女は天井を見上げる。その上は二階。彼女が本来いるべき教室のある階だ。彼女が籠っていたのは利用する者の滅多にいない一階の女子トイレ、その最奥の個室だった。トイレとしての設備環境は最悪だが、誰にも見つからず過ごすには最適である。

ところがその日は違った。ちょうど食べ終わって出ていこうとしているときに、誰かの足音がトイレの中へ入ってきたのだ。音の数からして一人。そして用があるのは個室の方ではなく、洗面台の鏡の方らしい。入り口あたりで止まった足音は、わずかな衣擦れの音に変わった。

仕方なく彼女は便座へと腰を下ろし、スマートフォンを見て時間を潰す。SNSを見て、電子書籍を読んで、ゲームをして……十数分が経過した。

しかし、衣擦れの音は続いている。鏡の前にいるだろう誰かが出ていく気配は、いまだなかった。

このままでは授業に遅れてしまう。別にサボってしまってもよかったが、いじめの口実になりかねないし、自分のペースを乱されるのがなんとなく癪に障った。

彼女はすっくと立ちあがり、大きなため息を吐く。


それから扉に向かって全力の蹴りを入れた。


ダンッッ!!と大きな音が鳴る。その後に続いたのは、呼吸すら響き渡るような静寂。少し待ってみても鏡の前の誰かが出ていく足音はしなかったが、しびれを切らした彼女は扉を開けて外に出る。

洗面台付近には人の影はない。こっそり逃げたらしかった。

彼女は憤然とした気分のまま教室に戻る。今なら気に入らないあのいじめっ子たちにも強気に出られそうだと思った。



それから一カ月後。彼女へのいじめはなくなっていた。

彼女が机を蹴り飛ばして女子生徒にけがをさせたのが原因かもしれない。だが当の本人は別の理由だと思っている。

その理由とは、にわかに流行り始めた学校の怪談。「1Fトイレの花子さん」だ。

昼休みに東棟一階の女子トイレにしばらく滞在していると、一番奥のトイレから扉を蹴り破って、長い前髪に顔を隠した女子生徒が出てくるのだという。

生徒たちは昼休みになるなりまことしやかに噂を語らい、スリルを求める女子や気の大きな女子はその中心地へと足を運んだ。そして、女性生徒が出てくるということはなくとも、大きな音がしたり、勝手に水が流れたり、鏡の中にいないはずの女子が映っていたりという怪現象は多発しているらしい。中に入れる女子はもちろんのこと、外から伺う男子たちまで噂と怪現象に心を躍らせる日々だった。


「太田さんも行ってみない?」

「それいいね!太田さんなら花子さんが出てきても勝てそう!」

「太田さん喧嘩強そうだもんね~!」

何人かの女子生徒に囲まれ、彼女は仕方なくそこを訪れた。

一カ月前、いじめっ子から逃げて昼食を摂っていた東棟一階の女子トイレ。当たり前のことだが、一カ月前と変わった様子はまったくなく、劣悪な設備から醸し出される不気味な雰囲気もそのままだった。

彼女は反省していた。あの日トイレに入ってきた誰かからすれば、誰もいないはずのトイレで突然ドアを蹴り破らんとする轟音が響いたのだ。洗面台の前でいつまでも身なりを整えているような繊細な子が、そんな怪現象に遭遇したとしたらどうだろう。あらぬ噂が広まってもおかしくはない。

「トイレで待つってどれくらい待てばいいんだろ」

「どうせだし一番奥のドアノックしてみる?」

「そだね!太田さんもいるし、強気に呼び出しちゃおうよ!」

言われるまま、彼女は一番奥の個室の扉をノックした。恐怖は微塵もない。あろうはずがない。噂の発端が自分だと知っているのだから。


彼女の頭をかち割るような轟音がダンッッ!!と響く。

音と共に目の前の扉は大きく跳ね、内側にいる何者かの確かな怒気を伝えていた。



「それ、別の誰かがいたんじゃないの?誰も来ないってわかってる場所なら、他にも誰にも会いたくない子が来てたっておかしくないんじゃない?」

僕の語りを聞いた半坂さんが、やや間を置いてから答えた。僕は拳ではなく言葉が飛んできたことにまず感謝をし、それから半坂さんの疑問に答える。

「そのトイレはもう、学校中で噂になってる場所だ。昼休みになれば女子生徒が怖いもの見たさに訪れるようになっていたんだから、誰かがちょうど利用していたってことはまずないと思うよ」

それに、この話には他にいくつか不審な点がある。

主人公の女子生徒がトイレを出ようとした時入ってきた誰か。いつまでも鏡の前にいて、彼女が扉を蹴ると音もなく消えていた誰か。それは何者だったのか。

そして、いじめを甘んじて受けるような性格の主人公がどうして、その時は暴力的に扉に蹴りを入れたりしたのか。その後いじめっ子に机を蹴り飛ばして反撃したという話だが、まだ暴力性は継続しているのか……。

考察しながら述べる僕を、刺すような視線で半坂さんが見ているのに気づいた。

引き結んだ口と平坦な眉は何の感情も表していなかったが、その眼にはありありと怒りが、その奥には恐怖が滲んでいる。と思った。

「じゃあ、結局なんだったのこの話。なんか中途半端に終わったけど、このあと女の子たちはどうなったわけ」

…………。


この先は、僕が怪異に聞かせた話だ。



彼女は動揺した。

中に誰かがいる?いや、噂の的になっているこんな場所に誰が入ったりするだろう。

中に誰かがいるのだとしたらそれは、それは……

また、自分をいじめようとする何者かのイタズラか。

彼女は深く息を吸い、怒声を張り上げた。

「出てきなさいよ!誰か知らないけど、面白くないのよ!!」

辺りにはあの日ドアを蹴ったあとのような重い静寂が満ちる。


すると、ぎぃっと眼前の扉が開く。




赤黒く皺だらけで鬼のような形相の自分が出てくるのを、彼女は見た。


四人の女子生徒が精神疾患になったその日以降、そのトイレを訪れる者はいなかった。

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