第68話 包丁を盗られる
家を出た瞬間から、何故かとてつもない磯臭さが匂っていた。
駅まで歩いても、電車に乗っても、学校までの道のりでも、教室に入っても、その臭いは消えない。
家を出るまでは感じなかったのだから、自分やその持ち物から匂っているはずはない。その証拠に、教室で談笑するクラスメイトたちもこの臭いに気づいた様子はなかった。
「うっ……あっきー、今日なんか教室臭くない?」
ただ一人、半坂さんを除いて。
臭いは僕が家に帰るまで続いた。ただの悪臭なら嗅覚疲労という生理現象でいずれ順応するはずなのだが、何故か僕は慣れることがなく、帰る頃には吐き気と頭痛で憔悴することになったのだった。
◆
「やばい、やばいやばいやばいやばいやばいやばい」
朝の七時過ぎ。寿司職人の見習いとして働く彼は動揺していた。
傍らにやってきた一年先輩の見習いが「どうしたんだ」と声をかけると、真っ青な顔を振り向かせて言う。
「親方の包丁が、柳刃包丁がない……。なくなってる!」
それから二人は店中を隈なく探した。仕入れの時に乗った車の中や、仮眠用の別室も探した。しかし包丁は見つからなかった。
先輩は電話で昨日の戸締り当番に確認を取る。先輩よりさらに一年勤めている彼は、昨晩には確かに包丁は調理場にあったし、鍵もしっかり掛けたと訴えた。
まさかの事態を察した彼は、心配なら別室のPCから監視カメラを確認しろと言って電話を切る。先輩は言われるままPCから監視カメラの記録にアクセスするが、空き巣に入られた様子は無かった。
隣でパイプ椅子に座った後輩の見習いは、この世の終わりを迎えたような顔で独り言ちる。
「お、親方に、言わなきゃっすよね……」
「そうだな……。そうだよな……」
この後のことを考えて項垂れる二人。
すると、ピンポーン、とインターホンの鳴る音が聞こえる。さらに続いて、「辰倉急運の塩田でーす!」と叫ぶ声。朝早くに仕入れた魚が届けられたらしい。
「おい、行くぞ。出んわけにいかんだろ」
「そっすね……。ああ……」
二人が重い足を進めて、たどり着いた従業員用裏口の扉を開く。
現れたドライバーの男はなぜかひどく申し訳なさそうな、あるいは不可解極まると言った怪訝な顔をしている。
そしてこう言った。
「あのう……実は、見てほしいもんがあってですね……。いや、悪く考えてほしくないんですけど、マジで……」
男は二人をトラックの元へ連れて行く。荷台の後部扉を開け、中に入って一つのトロ箱を持ってきた。
「マジの話、気づいた時にはこうなってまして……」
その発泡スチロールの箱に、深々と親方の柳刃包丁が刺さっている。
◆
「ええ……」
「すごいよね。どうしてそうなったのやら」
困惑する僕に屋根裏部屋の怪異が賛同する。その言葉は自然、「親方の包丁が夜中の間に消えてなくなり、今朝がた仕入れた魚の箱に突き刺さっている訳」を知らないことを意味していた。
「二人がそのあとどうしたかとか、それすら知らない?」
「私なら親方には黙っておくかな。後輩の反応からして、怒ったら怖い人なのは火を見るより明らかだからね」
知らないらしい。僕は観念して、話の落としどころを考えることにした。
ベッドから体を起こして、カーテンを捲って窓の外を見る。
遠くで何かが蠢いた気がしてすぐに目を逸らす。
しばらく悶々と考えて、やっとオチを思いついた。
◆
昼の仕込みを始める前、出勤してきた親方に二人の見習いは恐る恐るこの事実を報告した。
「一応念入りに洗って、欠けや曲がりがないかも確認して……、問題ないとは……」
「空き巣とかは監視カメラで見て絶対なくて……、でも無くなってたのは確かで……」
支離滅裂な言い訳を並べ始めた二人を、親方はじろりと睨む。
「やましいことがねえんなら堂々としとけ」
そう言って木製のケースから件の柳刃包丁を取った。
殺される。そう思った二人はぎゅっと目をつむり肩を竦める。
……しかし、彼らに降りかかったのは刃ではなく、意外な言葉だった。
「俺の親父にもな、ウン十年前こんなことがあった。親父が言うには、親父の親父にもあったことらしい。魚に包丁盗られたってな。俺もそれぐらいの手前になったってことかねえ」
その後親方の男は、近くの神社にその柳刃包丁を奉納した。
◆
「なんだ、良い話にしちゃったのか」
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