第63話 導く硬貨
目の前で電車を逃してしまった。冬の足音が近づくこの頃、駅のベンチに座って待つのはなかなかに辛い。
僕は立ち上がり、自販機に近づいた。温かいコーンポタージュが飲みたい。
鞄から財布を取り出して、硬貨を……、突然の風に体が震えて落としてしまった。足元で跳ねた僕の百円硬貨は自販機の下へ潜り込む。人前で自販機の下を覗き込むというなかなかに恥ずかしい行為を僕はする羽目になった。
自販機下の隙間には、百円玉と、落ち葉と、レシートやお菓子のゴミ。
そして縦に引き伸ばされた冴えない壮年の男の顔があった。
驚いて尻もちをついて倒れる。恐る恐るもう一度隙間を覗くと、男はいなかった。
◆
「“地域限定、濃厚!山ぶどうスカッシュ”だって」「おー」
男女二人の登山客が休憩所に設置された自販機の前に立っていた。体を休める間、面白い飲み物があれば買って飲んでみようか、と軽い気持ちで寄ったのだった。
「これ見て。振っておいしいラ・フランスジェリーだって」「おお、いいね」
男が鞄から財布を取り出す、その拍子に金色に光る何かが彼の視界を飛んでいった。
思わず目で追うと、丸くて薄い金色のそれは、キーン、キーンと音を立てて山の斜面を落ちていく。
それはチャックの開いていた財布から零れた、五百円硬貨だった。その五百円は坂に転がる石や木に奇跡的な落ち方をして弾かれ、どんどん山を下っていった。そして高い草の茂っている辺りに突っ込んで、ついに視界から消えた。
「あらら……。運が悪いねえ」
「取ってくるよ。流石にもったいない」
女は止めたが、大丈夫だからと言って男は急な斜面を下りていく。何度も滑って転びそうになったが、なんとか五百円玉が飛び込んだはずの草むらまで来た。落ちている木の棒を拾って、草を搔き分けて金色の輝きを探す。がさがさ、がさがさと大きな音が鳴ったが、男はやがて、そこに自分が鳴らしたのではない音も含まれていることに気づいた。
がさがさ、がさがさがさ。
動かずにじっとしていると、その音は草むらの奥からだんだんと男に近づいてくる。
がさがさがさ。 がさがさがさがさがさ。
がさっ。
草のカーテンを搔き分けて現れたのは、
真っ黒で、
巨大な、
ヒグマの頭だった。
◆
「こわ………………い、けど、そういう?」
「とても現実的な恐怖だよね。山でばったり、熊と遭遇するというのは」
屋根裏部屋の怪異はくつくつと笑う。
確かに怖いのは間違いない。だが僕が想像していたものとは全然違う。てっきり翁の面をした白装束とか首が逆さに付いた男とか、そういう超常的な意味で異常なものが出てくると思っていた。
「一応聞くけど、それって熊の首から上だけが出てきたとか、そういう話では……」
「ないね。草むらから現れたのは正真正銘野生のヒグマさ」
「ううん……。男の人は助かったの?そこから」
「ご想像にお任せするよ。私が知っていることは全て話したからね」
そこまで知っていて男が死んだか生きたかを知らないことがあるだろうかと思うが。
天井の声は教えてくれないので、僕は言われた通り想像してみた。
突然の邂逅で叫びを上げる男、立ち上がる熊。逃げ出す男、四足歩行に戻る熊。坂で転ぶ男、走り寄る熊。振り返って見上げる男、覆いかぶさる熊…………。
僕に男が生きている想像はできなかった。
「ほら、次は君の番だよ。この話のオチを語って聞かせておくれ」
熊が出てきたのがこの上ないオチだと思うのだが……。
とりあえず僕は、この話をちゃんとした怪談に持っていくようなまとめを語った。
◆
重傷の男性が運び込まれた病院で、数人の看護師が話をしていた。
「またあの山の自販機のとこだって」
「今度は熊?嫌ねえ~もう」
「前はマムシでしたっけ?」
「ヤマカガシよ。その前は蜂のアナフィラキシー」
「嫌あねえもう~。張り紙でもしたらいいのにねえ?
落とし物拾うべからず!死傷者多数! とかって」
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