第62話 勧誘

部屋で明日の授業の範囲の問題を解いていると、ピンポーン、とドアホンの鳴る音が聞こえて来た。この時間ならお母さんが出るだろうと思って、僕はそのまま勉強を続けた。

ピンポーン、また音が聞こえた。

お母さん、寝てるのかな。僕は下の階に降りた。リビングにはお母さんがいて、お気に入りらしいソファに埋もれながら本を読んでいた。

「お母さん、さっき誰か……」

ピンポーン。すぐ外から音が聞こえると、「ひゃあっ!」と高い悲鳴を上げてお母さんは跳び跳ねた。

「なっ、なに今の」

本に熱中していて、今まで音に気づかなかったのだろうか。僕はドアホンのボタンを押してディスプレイを起動した。


……いや、おかしい。

このドアホンは外の誰かがボタンを押すと音を鳴らすと共に自動で画面が点いていたはずだ。なぜ今の今まで、画面は暗いままだったんだ。


その問いに答えるように、、ピンポーンと声が聞こえた。



父から相続したその家には、まだ大量のローンが残っていた。齧る脛をとうとう失ってしまった男は吐き気を催すほどの嫌悪感に歯を食いしばりながら、就職活動を行う。スマートフォンに表示されるいくつもの求人の中から、少しでも楽で少しでも高給の仕事を探した。いくつか気になるものはあったが、どれも年齢や資格の条件が設けられていて、男には応募することができない。

「ちっ……、クソがよぉ……」

胸にわだかまるムカつきを静めようと卓上のタバコを掴み取り立ち上がった、その時。


ピーーンポーーーーン。


長く響くチャイムの音。来客を知らせるドアホンの音だった。

舌打ちをして男が画面を見ると、軒先を映すカメラは二人の中年の女を映し出していた。どちらも中肉中背、夕方のスーパーに入ればいくらでも見かけそうな普通の顔立ちの二人。だがその表情は気味の悪い微笑みを湛えている。

男には二人の目的がすぐにわかった。乱暴にボタンを押してドアホンを通話状態にすると、こう言う。

「宗教勧誘なら他当たれボケッ!」

叩くようにしてボタンを押しドアホンを切った。男はまた舌打ちをして換気扇の下へ歩いていく。箱に入った最後の一本を取り出し、オイルの少ないライターで火を点けようと何度も試みる。カチカチカチカチと耳障りな音を立てていると、


ピーーンポーーーーン。


再びチャイムが鳴った。ドアホンのカメラ映像には、やはりあの二人の中年女が映っている。男は悪態をつきながらライターを台所に叩きつけ、ドスドスと踏み鳴らしながら近寄り、ドアホンの通話ボタンを殴った。

「他当たれっつってんだろ!日本語通じねえのか!」

男の低く荒々しい怒号は確実に向こうへ伝わっている。その証拠に後ろを通りすがった小学生の集団はびくりと飛び上がったあと、すぐに逃げ去って行った。

しかし二人の中年女はまるで聞こえていないかのように、浮かべた微笑みを絶やさず、薄目の奥に覗く瞳を画面越しに男に向けていた。

女の片方が口を開く。


「あぁなぁたぁ、ぃいまぁ、ぅおしぃあぁぅわぁせぇ?」


女の声はまるで壊れた機械でスロー再生したかのように伸びていた。強く当たりすぎたせいか、ドアホンを壊してしまったかと男は思った。

しかし。


「あぁぁなぁぁたぁぁ、ぃいぃぃまぁぁぁ、ぅぅおぉぉしぃっぃぃあぁぁぅわぁぁぁせぇぇぇぇ?」


同じ文言を繰り返す中年女。その作り物じみた薄笑いに、冷たいものが背筋を走る。これは機械の故障ではない。この女の口からそのまま出ている音だ。男は確信した。確信して、遅れて全身に粟立つ感覚を覚えた。こいつらは異常だ。まともに取り合ってはならない。そう直感で思った。


「ああぁぁぁぁぁぁなあぁぁぁぁぁぁたあぁぁぁぁぁぁぁ」


さっきよりも大きく、低く、長い声で女は同じことを言う。男は悲鳴を上げながら仰け反り、テーブルに腰と手をぶつけて止まる。その手が偶然スマートフォンに触れていた。男はハッと我に返り、スマートフォンに番号を入力してすぐさま警察に電話を掛けた。

「あの、すいません、すいません、いま家の前に、なんか変な女が二人、変なのが来てて、助けてください!助けてくださいぃいぃっ!」


しかし電話口から聞こえて来たのは、警官の声ではなかった。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああたああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」



「あれ?普通に怖くない?」

「え?そうかな」

父親の死、住宅ローンの重圧、就活のストレス。荒れていた男の元に訪れた、明らかに様子のおかしい中年女性二人。「あなた、今、お幸せ?」おそらくそう訊いているのだろう女の声は異常に低く伸びていて、繰り返し聞いてくるたびに大きく、遅く、長くなる。我に返った男はスマートフォンで警察に助けを求めた。しかし、そこから聞こえて来たのもまた、中年女の叫ぶような大音声で……。

「うん。もう十分綺麗にまとまって怖い話だったよ。僕がなにかこの後を付け足したりしたら蛇足になる気がする」

「ええ?それはちょっと困る……というか、残念だな。君にはぜひこの怪談の語るべきところを語って欲しいんだけれど」

「語るべきところ?」

そう、と怪異は肯定する。それが言うには、この話に限らず多くの怪談が濁して終わる部分、体験者がどうなったかというところを明かさぬまま終わるのは、気に食わないのだそうだ。

まあ、気持ちはわからないでもないけど……。


気に食わないって、なんか嫌な言い方だな。


「さあ、ぜひ語って聞かせておくれよ。助けを求めて掛けた電話からも中年女の声が聞こえた後、男はどうしたのか」

僕は納得しきれないモヤモヤを抱えたまま、とにかく頭を働かせた。油の刺さっていない歯車がぎしぎしと軋むような無理のある動かし方で思考して、とりあえずの結末を僕は作りあげる。

「男は……失踪した」



男は裏口から家を出た。何も見ないように下を向いて走り、何も聞こえないように手で耳を塞いだ。頭の中に残響した中年女の声をかき消すために大声で叫んだ。息が切れ脳に酸素が回らなくなって倒れて気絶するまで、ただ必死に逃げ続けた。

男がどこへ行ったのか、知る者は誰一人としていない。


「あなた、今、お幸せ?」


どこまでもついてくる、あの二人の女以外は



「うーん………………………」

「なに」

「男は結局、どんな最期を迎えたの?」

「えぇ……。さあ……。狂って死ぬと思うけど」

「うん。……それでいいっ」

天井の声は、朗らかに笑っていた気がした。

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