第61話 シックハウス
ごほっ。ごほっ。
朝の混み合う電車の中。誰かが近くで咳き込む音が聞こえる。
ごほっ。ごほっ、ごほっ。
風邪、というよりは、咳払いで注目を集めようとしているようだった。
僕は絶対に咳の聞こえる方を見ないようにした。
僕はイヤホンで音楽を聴いていたからだ。
その上に被さるように聞こえて来たあのクリアな咳の音は、きっと人間のものではない。
◆
その物件は人の入れ替わりが激しい部屋だった。
前の住人は近所の大学に通う大学生で、三カ月。その前の住人は単身赴任で越してきた三十代の男性で、半年。さらにその前の住人は事業を立ち上げて事務所代わりにと契約した二十代の男性で、七カ月。一番短かったのは、職場に近いからと引っ越してきた二十代の女性で、一週間だったか。友達を呼んで引っ越しパーティーを開いたところ、霊感の強い親友からすぐに出て行った方が良いと勧められたと言っていた。
物件の売り主はその話を聞いて腹を煮やす。その部屋に事故や自殺などの心理的瑕疵が無いことは不動産業者からあらかじめ確認している。ありもしない幽霊話が広まってせっかく購入した部屋の価値を下げられてはたまったものではない。
そう思った彼は、その年大学一年生になる自分の息子に頼んでそこへ住んでもらうことにした。大学生活の四年間をそこで過ごしてもらい、曰く付き物件の汚名を濯ごうと企んだのだ。
五月。息子が件の部屋に入居してから二か月後のこと。
売り主である父親はスマートフォンの小刻みな振動がベッドの淵で唸る音で目が覚めた。画面には何件もの不在着信。全て息子からだった。すぐに電話に出る。
「どうした、朝から。何の用だ」
「父さん、父さん、俺もうここ出たいよ。ここ絶対やばいよなんか……!」
「なんだお前、まさか幽霊が出たなんてぬかすんじゃないだろうな。俺がそんな馬鹿馬鹿しい話信じると思うか」
「違うよ父さん!!俺……、おれぇ…………死んじゃうかもぉ……!」
彼は入居から一週間ほど経った頃から原因不明の体調不良だった。時々ズキリと頭が痛み、眠っても眠っても疲れが取れず、好物を買って帰ってきても食べる気を失くしてしまう。そんな生活にだんだんと精神をすり減らし、その晩にはついに、金縛りに遭った。視界の端には女性のような影が見える。何を言うでもなくじっとそこに立っていた。
気を失うように眠っていた彼が朝の四時に起きると、そこに女の影はない。
あったのは、彼の枕の上。
大量の髪の毛が落ちていた……。
「この……馬鹿息子は……!」
「父さん……?」
「それはお前の抜け毛だろうどうせ!長さを見ろ長さを!」
「あっ……、でも女の影が……」
「お前はこの間家に取りに来たものを忘れたのか。お気に入りのアイドルのポスターだとか言っていただろうが!!」
「……あ」
結局、この歳でこの量の抜け毛はおかしいと喚いて譲らない息子に負けて、物件の持ち主である父親は彼の退去を認めたのだった。
◆
「笑い話?」
「うーん……そうとも取れるね」
屋根裏部屋の怪異が語り終えて、僕は感想を述べる。
住人がなぜかすぐに出ていく部屋。霊感の強い人間が「すぐに出て行った方がいい」とは言ったものの、結局幽霊が出たということもなく。ただただ体調不良になるだけだったという話。
なぜ心身に不調を来すのかという点はもしかしたら怖い要素かもしれないが、日当たりが悪くて湿気がちだとか、実は高層階で微妙に揺れているとかでいくらでも説明がついてしまいそうだ。
「一応聞きたいんだけど、これって怖い話なんだよね?この部屋には何か怪異がいたの?」
「さあ、どうでしょう。この部屋について私が持っている情報は今語ったもので全てだよ。この先の一切は君に任せられている」
「うぅん…………」
正直困る。
語り手が知っている全てを語ったということは、ここから先僕が語るのは、ありもしない嘘話。罰当たりではた迷惑な、あの売り主の男が嫌っていた人聞きの悪い噂話ということになろう。
それを考えるのはなんというか、快くないことだと感じた。
「そうかそうか。君は申し訳なく思っているんだね?登場人物である売り主の男が嫌がっていたことをするのを。本当は他に現実的な理由があるかもしれない話を、怪異のせいにしてしまうことを」
その通りだった。僕は天井の方を向いてこくりと頷く。
「なら……、心配することはないよ。
昨今はほら、そういう曰くのある物件に好んで住む人間がいるそうじゃないか。そしてそれに合わせたビジネスも存在する。安く済んでスリルのある体験をしたい人と、とにかく売って利益を出したい売り主。あと仲介業者。彼らにとっては、そこが事故物件だと噂されることは望ましい事だと思うよ。本当は霊なんていない物件だとしても」
「ふん…………」
「じゃあ、わかった。こういう展開があったっていうのはどうだろう」
◆
それから数年後のこと。件の部屋に入居したある男性が、過重労働を苦に自殺した。不幸なことにその死体は数日の間発見されず、高い密閉性を持つ壁に囲まれた部屋で夏の気温に曝され続けた。結果、男性が首を吊ったドアの前の床にはくっきりと痕が残ってしまい、床板を張り替える工事が必要となる。
その工事に勤めた作業者たちが、それを見つけた。
床材の裏側に貼られた何枚もの仰々しい札を。
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