第58話 事故の原因
「学校、楽しい?」
ある日、突然、お母さんが僕にそう聞いてきた。半端に上った宵の月が綺麗な夜。夕食を食べた後の食器を流し台に持っていったときのことだ。お母さんから話しかけられたのはいつ以来だろうと、僕はなんだか不安になった。
「別に……どっちでもっていうか……」
俯きながら歯切れの悪い返答をする。お母さんは何も言わない。どんな顔をしているのか確認するのは怖かったが、見上げてその表情を僕は見た。
お母さんは顔をぐしゃぐしゃに歪めて、静かに涙を流していた。
意味が解らなくて、僕は鳥肌が立つのを感じた。
◆
新聞記者をしている男がPCで執筆中の原稿と向き合っていた。本人としてはセンセーショナルな書き出しで世間の注意を集めたい記事なのだが、編集長からは「マトモな文章で」とのお達し。一人の記者としての使命感と職業倫理の狭間で男は揺れていた。どうするべきか迷う男。今一度、事の内容を振り返ってみることにした。
合縞小学校近くの曲がり角で、また痛ましい交通事故が起こった。朝の通学時間帯で子供が和気あいあいと登校する歩道に乗用車が突っ込み、三名の子供が軽傷、一名が重傷、一名が死亡。この場所で車の暴走事故に子供が巻き込まれるのはこれで三度目であり、合縞小学校は「生徒の通学路の変更や集団登下校、教師のパトロールなどを行い、予防策の徹底を図る」と述べる。さらに市は道路状況にも問題があるとみて、道路標示の位置やカーブミラーの見え方、ガードレールの老朽化等の調査を行うと発表している。
「そんなんじゃ無くなんないよ、事故」
聞き込みをした地域住民の多くがそう口を揃えた。どうも彼らは、事故の原因が両者の手に負えるものではないと感じているようだ。付近の住宅街に十年以上住んでいるというAさんは語る。
「もうこういう車の事故ね、何年も前から起きてるし、その度に色々やってるけどね、効果が出てるのはせいぜい三カ月くらいで、無くなったりは全然しないね」
Aさんの言うとおり、実はこうした小学校側の対応や市の調査は毎年のように行われている。去年、一昨年にも年に数回の交通事故があり、死傷者も少なからず出ていた。当時も今回の発表と同じ対応を取った小学校と市の交通安全推進課だったが、その効果は長続きしていない。小学校側は遠方に住む子供の保護者から通学時間が伸びて朝が忙しいとクレームを寄せられたり、教員の人手不足で朝から通学路を回れる余裕が無かったりで、やがて対応は打ち切られてしまうそうだ。市の調査と道路状況の改善は続けられているが、地域住民の考える事故原因から察するに意味の無いことだという。
「子供の間じゃ有名な噂話らしいですよ。あの曲がり角付近ではみんな自転車に乗りません」
……それはなぜかと聞いた記者の男。地域住民のAは辺りを見回してから、顔を寄せてひそひそ声で言った。
「後ろに誰か乗ってくるそうですよ。あの辺走ってると、急にドサッって」
事故を起こした運転者は全員、「考え事をしていたせいで前方不注意になっていた」と語る。だがそれは、事情聴取で述べられた供述とは巧妙にニュアンスが取り換えられていた。記者の男が詰めていた警察署の記者クラブで聞いた話では、今回事故を起こした会社員男性の本当の供述はこうだった。
「会社に遅刻しそうで近道をしようと小学校近くの道を通った。十分気をつけて、一時停止や徐行をしながら進んでいたが、例の曲がり角の近くに入ったとき、突然後部座席に何かが落ちてくる音がした。それからごそごそ、にちゃにちゃと何か湿ったものが動く音や、苦しそうに引き攣った呼吸の音が聞こえて気になって、ルームミラーを見ていたらいつのまにかアクセルを踏み過ぎて、ブレーキもハンドルも間に合わず歩道に突っ込んでしまった」
PCに向き合う記者は事を振り返り終えて、溜息をついた。気持ちとしてはこの話を記事に載せたいが、生憎自分が勤めているのはオカルト雑誌の出版社ではない。科学的な根拠を持たない噂話を、ただ事実だけを取り扱う新聞紙面に混ぜ込むわけにはいかないだろう。それは新聞社の看板に泥を塗る行為だ。
男は諦めて、PCの電源を落とした。
◆
「まあ、普通そういう対応になるよね……」
怪談の文脈で考えれば、そういった事故にはなんらかの霊や怪異が関わっていると考えるのが当然で、執るべき対策はお祓いなどということになろう。だがそれが現実に起こった事故であれば、そんなことを記事に書くのは遺族への侮辱にすらなりうる軽率な行為だ。記者の男性の決断は、納得のいくものだった。
しかし、天井裏の声は「そうかな」と一言呟く。
「この類の事故は何年も前から続いていると言われていた。犠牲になった子供の数もきっと二桁はいるはずだ。なのに、学校も交通安全課も対応が
その日、僕が屋根裏部屋の怪異に言われて考えたのは、ごく短い締めの二文。
「男は諦めてPCの電源を落とした。
真っ暗になった画面に男の姿が反射して映っている。その後ろには、血塗れで立っている子供の姿があった」
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