第26話 足跡
世の中には二種類の人間がいる。
追う者と、追われる者だ。
義憤に燃えて作家を追い回す編集者がいれば、どの締切の手も届かないところを求め遁走する創作者もいる。愛に狂って一人を追い求める求道者がいれば、危険なストーカーの存在を苦にして居を移す被害者もいる。
人は何かを追い求めるか、何かに追われるように逃げているか。そのどちらかに常に振り分けることができる。
しかしながら、自分がそのどちらかということは容易に決定づけることができないものだ。
僕はその話を、屋根裏部屋に棲みついた何かによって聞かされた。
果たして彼らは追う者だったか、追われる者だったか、それとも――
◇
「ありゃ、こりゃあいかんな……」
仕留めたニホンジカに歩み寄りながら、熟練の狩人が言った。彼に付き添っていた同じく熟練の、しかしいくらか若い男の狩人が訊く。
「ええ?仕留め損ねましたか?」
「いやあ、しっかり逝っとるみたいやけんど……、あれ」
言いながら彼が指さす方を付き添いの者も見た。そして彼の言葉に得心が行く。
そこには昨日の雨が作った小さなぬかるみがあった。
誰か、一人の人間の足跡をくっきりと模ったぬかるみが。
足跡は二人が来た方向とは反対の山の奥側から来て、ついさっき引き返したような具合に見えた。
「誰か来よるかもしれん。無線で連絡して。罠もあるんに、危ないわ」
現在その山は指定の猟友会の者を除いて立ち入り禁止の触れが出されていたが、それを知らない登山客がいるのかもしれない。やや若い方の狩人が仲間に連絡を回し、銃の発砲を控えるよう言った。
「ほいじゃ行こか」「ええ。困りますなあ」
二人は足跡を追った。足跡の主に、危険だから山を出ていくよう言わねばならない。森が深いところへ、川の水流に逆らう方へ、藪の茂る方へと進んだ。この方向ならば罠は仕掛けられていない。とりあえずよかったと安心しつつ、二人はその跡を注視しながら追う。ずんずんと山の奥へと向かい、太陽が少し傾くほどの時間山を登ったころ。
足跡に奇妙な変化が起きた。
「おい。おいおいおいおいおいおいおいおい。これは、どこ行きよるんじゃ」
「狐に化かされましたかねえ……」
足跡は、突然二手に分かれていた。
右足は右へ、左足は左へ。逸れて分かれて別々の茂みに入っていった。
「濃さは変わっとらん」
足に掛かる力が変わっていないということだ。
「棒の跡ないですし、もたれかかれるような木も……無理ありますね」
何か補助を使って見せかけているわけでもないと見える。
つまりこの足跡の主は、その場所で真っ二つに分かれて、片足ずつで当然のように奥の山道を歩いて行ったということだ。
「おいおい………………」
「いやあ………………」
二人は重い溜息を一つ吐き。
上を見上げてすぅーっと息を吸ってから、もう一度足跡を見た。
一足ずつの足跡は変わらずそこにある。熟練の狩人は指に唾を付け、その指で眉をなぞってから、もう一度見た。
そして言った。
「帰ろか」
もう一人の狩人は何も言わずにそれに従った。二人で来た道に向き直り、気持ち早足で歩き出す。
すぐに熟練の狩人の方が、付き添いのやや若い狩人に耳打ちした。
「絶対振り向くなよ」
やや若い彼は黙ってうなずく。さらにもう一言狩人は囁く。
「なんで気づかんかったんやろな
あの足跡、裸足やわ」
言った瞬間。二人の後ろの二つの茂みで、同時にがさりと音がした。
◇
「……二人は、無事に帰れたの?」
幼い僕が訊く。
屋根裏部屋の怪は少しの沈黙の後、どこかつまらなそうに言った。
「振り返らず、結局走って逃げたからね。こういう状況で生き延びるための全速力を躓きもせず発揮できるのは、流石は山の人だなといったところかな」
二人は無事に山を出て、その仲間たちも何事もなく下山できたらしい。となると残る疑問はあとひとつ。
足跡を残したのは、一体何者だったのか。
僕の問いに、天井の上にいるものが淡々と語る。
「彼らは安心してたよね。足跡をなぞりながら、この先なら罠を仕掛けていないから、この人が怪我をすることはないだろうって。
自分たちが罠に掛かる方だとは微塵も思っていなかったんだね」
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