第27話 男女の言葉

店で店員に横柄な態度をとる男が、女を連れていたりする。公園でタバコをポイ捨てしていく男が、左手の薬指に指輪をしていたりする。

僕には今でも理解できないが、そういう男には何かしらの魅力か、あるいは魔力があるらしい。

毒牙に掛かった哀れな伴侶を、永久の僕としてしまうような魔力が。

僕が幼い頃、眠れない夜に聞かされた怪談の数々の中にもそれが伺えるものがある。

屋根裏部屋の語り手、人間ではないそれが語ったのは、こういう話だった。



「この部屋、出るんじゃない?」

男の彼女がそう言った。彼女は自分で霊感が強いと言ってこれまでも男に様々な助言をすることがあった。まあね、と男は適当な返事を返す。男はこの部屋に幽霊が出るという噂があることを承知で住んでいた。

いわゆる事故物件である。

「今の仕事安月給で、首が回らなくてさ……」

「首が回らないとか……あんま物騒なこと言わない方がいいよ。で、ここ、なにがあったの?」

男はベッドから出て机の上の缶の群れからまだ中身の残っているものを探しながら、その部屋で数年前に起きたことを話した。

「殺人。介護してたばあさんが夫を絞め殺した挙句、風呂場に放置したんだと。それからばあさんは何も食べずに餓死して、数日経って異臭で通報された結果二人とも見つかったって話」

男は酒の入った缶を求めてキッチンの冷蔵庫の方へと歩く。後ろでまだベッドに入っている彼女が彼の背中に向かって問う。

「おばあさん、どうして餓死したの?餓死って、だいたいは我慢できずなにかしら食べちゃうから今の時代そうそうないって聞くけど」

「知らないよ。でもまあ近所の人は納得だったらしいよ、餓死。ばあさんケッペキっていうか、頑ななとこあったんだって。人から物を絶対もらわなくて、引っ越しの挨拶で持ってったものも受け取らなかったとか。夫殺しの罪悪感で何も食べられなくなったとかじゃねえのかなあ」

銀色に輝く缶をぐいっと煽ってから、この話気持ち悪いからやめない?と男は言う。言われた女はベッドの上に乗って手を突き頭を下にして、ベッドの下の隙間を覗いている。以前はなんとも思わなかった女の奇行が、このところその男には鬱陶しく感じられていた。

「ここ」

「なにが」

「ここに布団があった」

「今もあるじゃん。ベッド」

「そうじゃなくて」


ここで殺された。

その場所には以前寝たきりの夫の布団があり、彼が絞殺されたのはまさにここだったと、彼女は男のベッドを指差して言う。

男は大きなため息を吐いて、置かれていたタバコから一本取り出し火をつけた。

「もう帰ってくんね?そろそろ電車あるでしょ」

「……うん」

二人とも、この付き合いは潮時だと思った。彼女は床に散らかしていた服を身に付け、バッグの中にスマートフォンを入れて、膨らんだポーチを持って洗面所へと向かう。洗面所に入ってから、すぐに戸を開けて「それから」と言ってくる。


「死にたくなかったらなるべく早くここ出た方がいいよ」


平気な顔でそういうことを言う彼女。男はそんなところに惹かれていたはずが、その時は嫌悪感しか湧かなかった。


彼女と最後に会ってから一週間が経った頃。

「…………さい……んな……さい……」

真夜中のワンルームで、男の住んでいる事故物件の中で、誰かがすすり泣きながら何か言っている。

「ごめ……なさい……、ごめんなさい……」

喉を通る空気の道がだんだんと狭まり、息苦しくなって男は目を覚ました。

体が重い。何かが体の上に倒れてきたのかと思った。

闇の中に視線を漂わせて、男の目は息苦しさの原因を見つけた。


男の上に馬乗りになった半透明の老婆。下を向いて泣く青白いその老婆が、ミイラのような細い腕で男の首を締めあげていた。


「ぁ……!がぁっ、かはっ……!」

老婆をどかそうと体を激しく動かすが、伸ばした腕は老婆をすり抜けて空を切るばかり。骨と皮だけのその腕のどこにそんな力があるのかわからないが、老婆の首を絞める力は徐々に強くなっていく。男は息ができず、脳が閉塞し、目玉が飛び出そうな圧迫感に苦しむ。自分はここで、この老婆の霊に絞め殺されて終わるのか。そう思う彼の脳裏には、憎たらしく思ったあの彼女の顔や言葉が浮かんでいた。

「なるべく早くここを出た方がいいよ」

ほんとうに、その通りだと思った。

「ここ。ここでおじいさんが殺された」

もっと話を聞いておけばよかった。

「死にたくないでしょ。あんた臆病だし」

死にたくない。死ぬのが怖い。まだ生きて、やりたいことがある。


「じゃあ枕の下探して。それをおばあさんに撒いて」


はっと我に返った男はすぐさま枕の下に手を突っ込み、そこにある巾着のようなものを引っ張り出した。顔の前に持ってきて中を漁ると、和紙に包まれた白い砂のようなものが出てくる。男は紙の一部をちぎり、小さな包装の中にある白い砂を老婆に向かって必死に振り撒いた。

すると、老婆は焼かれたように苦しそうなうめき声を上げながら手を離し、ベッドの下に沈んで消えていった。

男は大きく咳き込んでから荒い呼吸を繰り返す。次第に明瞭な意識と落ち着きを取り戻し、老婆の吸い込まれていったベッドを見て、それからそこに散らばった白い砂を摘まみ上げた。

「…………塩……か」

男は着の身着のまま部屋を飛び出し、彼女の元へ駆けて行った。



「生き残る話だ!」

幼い僕は思わずそう言った。屋根裏部屋の怪が聞かせる怪談には当事者が無事に生き残る話があまり多くなかったからだ。たまにそれに当たったときには、給食で好きなおかずが出た子供のようにはしゃいだものだ。

天井裏では困ったような笑い声がしてから、なにか訊きたいことはないか、と優しい声が尋ねる。

「じゃあいっこ。おばあさんはどうして男の人を殺そうとしたの?」

話によれば、おばあさんは夫を殺したことを悔い、絶食という罰を自らに課して自死したほどに意思の強い人物だった。それがどうして、その部屋に入居してきただけで無関係な男を殺そうとしたのだろう。僕はそれが気になった。

くつくつくつ、と屋根裏部屋の怪異が笑って、楽し気に答える。

「霊感の強い女もそうだけど、健気だよねえ。ろくでもない男のために色々としてあげてさ。

霊になった老婆が男を絞め殺そうとしたのも、夫のためなんだよ。夫が言ったんだ。俺だけ死ぬなんて不公平だ。お前も死ななければならない。全員死ななければならない。ここに来る者みな、誰一人生かしておいてはならない、ってね」

僕は呆れた。なんと無茶苦茶な要求だろう。そんな命令に従ってしまうおばあさんがあわれに思えた。

…………そして一つ、引っかかった。

「それ、おじいさんはいつ言ったの?」




「霊感の強い女が忠告をできたのは、洗面所に入ったからだ。洗面所に入って、かつて夫の死体が放置されたその浴槽を見たから。……そこに何がいたと思う?」

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