第24話 井戸から声がするんです

僕が幼い頃、具体的には物心ついたころから中学を卒業するまでの間は、眠れない夜はいつも怖い話を語り聞かされた。

語り手は天井の向こう。屋根裏部屋に棲んでいる

つまるところ僕は、幼少期の九年を怪異の棲みついた家で暮らしていたということ。怪異と共生していたということになる。

屋根裏部屋の怪がそういった、怪異と人間の共生……あるいは共存した話をすることはなかった。怪異が現れれば人間は必ず、逃げ延びるか殺されるか、生きているとも死んでいるとも言えない状態になるかの三つに一つだ。

だがいくつかの話について、当事者が生き延びた話について僕は、怪異と共存していると思えたことがあった。

これは、その話の一つだ。



思えば最初から奇妙な通報だった。

長閑な田舎町の外れにある古びた日本家屋、昔は地元の豪商が住んでいたというその広い敷地に来た二人の警官。比較的年齢の若い方が匿名の通報内容を頭の中で振り返る。


「犬の散歩をしていたら、荒れ屋敷の方から小さく声がしたんです。それで近づいていったら、その声、庭の古井戸の方から聞こえていて。もしかしたら遊んでいた近所の子が落ちたのかもしれません。助けてあげてくれませんか」


男とも女ともわからない低くぶっきらぼうな声。その主はどうして、、などと言ったのだろうか。

地元の人間が「荒れ屋敷」と呼ぶその廃屋があるのは、住宅地や学校から車で四十分はかかる場所。子どもがわざわざ遊びに行くには遠い。それは無論、犬の散歩をするにしてもそうである。

それにどうして、かもしれない、などと不確定なのか。誰かが古井戸に落ちたと思うなら、普通は井戸の中を覗いて落ちた人の特徴や人相を確認しそうなものだ。不法侵入か、単純に井戸を覗くのが怖かったという可能性はあるが、電話口から聞こえたあの声に、そういった恐怖や不安は感じられなかった。

あの通報をよこした者は何者で、なんの目的があったのだろう……。

「そんなこと考えても仕方ないだろ。通報されたら確認に行かなきゃならん。そういう仕事だ」

パトロールカーを降りて荒れ屋敷に向かうまでの間、疑問を吐露する後輩警官に先輩が言った。その先輩は自分の言葉に忠実に、ただの仕事として荒れ屋敷の敷地をまっすぐ縦断し、件の古井戸がある裏庭に向かう。足取りに迷いがなかった。

そこにまた違和感を抱いた後輩が聞いた。

「先輩、なんか慣れてません? ……あの、まさか……」

古井戸から声がする。

この通報自体よくあること……なのか。

先を行く経験豊富な警官は後をついてくる若輩を振り返って、目を閉じて笑い、肩をすくめた。


警官たちは目的の古井戸に到着した。子どもの声は聞こえていない。

先輩警官が井戸の側に近寄り、「おーい!誰か落ちたかー!」と呼びかける。装備していたライトを取り出して点灯し、井戸の中を照らして入念に確認した。

確認が終わると、やや離れたところで見ていた後輩警官の方に歩いてきて言う。

「異常なし。風の音か、野生動物の鳴き声と勘違いしたのだろう。そういうことで」

先輩は後輩の肩をポンと叩いて元来た道へ戻る。後輩警官は一度古井戸を振り返り、怪訝そうに目を細めてから、先輩のあとに続こうとした。

その時。


ザーーーーーー。 と、携帯無線機からノイズが走る。

やがてノイズが収まると、そこから声が聞こえてきた。

男とも女ともつかない、低く無機質な声が言う。


「井戸の中から、子供の声がするんです」


あの匿名の通報の声。

警察官が持つ無線に、市民から直接そうした通報が入ることはあり得ない。


「井戸の中、あなたは覗いて見てくれた?」


嫌な冷や汗を額に滲ませて、後輩警官は立ち尽くす。

背を向けた古井戸の方から何か聞こえる。

小さな音。だんだん大きくなる小さな音。

だが子供の声ではない。

カッ、カチャッ、ビチャッ。

何の音か、彼は想像する。


これは、井戸の中を、登っている音ではないのだろうか……。


冷や汗をだらだらとかきながら、振り返ろうとする警官。

その手首が突然がしりと掴まれ、前に引っ張られた。

「馬鹿。聞かんでいい。行くぞ」

経験豊富な警官が手を引き、若い警官と共に帰り道を行く。

その間もずっと、古井戸から響くあの音は彼らの耳に響いていた。



「井戸の中には何がいたの?」

その怪異の正体は、なんだったのか。

幼かった僕がよくぶつけたその質問。普通はその答えを誰も知ることがないはずだとは、このときの僕は知らなかった。

なぜなら、屋根裏部屋の人ならざる住人はほとんどいつも答えてくれたからだ。

「着物の女の子。もうずっとあの井戸の底で、助けが来るのを待っているんだよ」

「それは、通報してきた人とはどういう関係なの?」

「赤の他人だね。……ああ、人間ではないけれど」

僕はその答えを疑うことはない。それを真実として受け取り、だとすれば……と浮かんだ疑問で話を続ける。

「井戸の底には女の子がいたんだよね。だとしたら……ちょっとおかしくない?先輩のお巡りさんは井戸の中を覗いてたよね?


その井戸の底にいる女の子を、その人は見たんじゃないの?」


屋根裏部屋の怪はくつくつと押し堪えたように笑った。




「見えていて、無視してるんだ。だってありえないからね」


怪異と共存する、とはそういうことなのかもしれない。そう思ったのを、今も覚えている。

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