第19話 狐への婿入り

空が晴れているのに降る雨のことを、「狐の嫁入り」と呼ぶことがある。

その由来については諸説あるが、「狐の婚礼儀式の一環として、狐の一族の霊力で新郎新婦に慈雨を浴びせるものがあり、晴天の雨はこれによるもの」というのが僕の地方での主流の説だ。

だから青空の見えている日に雨が降ると、浴びれば狐の幸せを分けてもらえるだとか、逆に狐の未婚者に目を付けられてしまうだとか言われていた。

僕も最初はみんなと同じように考えていた。そしてどちらかというと、「浴びればいいことがある」と考える派閥の者だった。傘を忘れがちな少年だったから。


だがある奇譚を聞かされて、宗旨替えをすることになってしまった。


それは僕が眠れない夜、屋根裏部屋に棲むが語った話。

狐に婿入りした男の子の話だ。



その女性はいつも木陰に座っていた。

若草色のワンピースを着て、広い公園の片隅の木の下に淑やかに座る彼女。

年齢はおそらく十代後半から二十代前半。

肩まで伸ばした長い茶髪は秋の山を思わせる。

とろりとした垂れ目と微笑みを湛えた口元が優しげな雰囲気を醸し出す美女。

その女性は、いつも、木陰に座って少年たちを見ていた。

ある日、彼等の中の一人の、視力が一番良かった少年が友達に訊く。

「あのお姉さん、なんかいっつもこっち見てんな」

ちょっと気味が悪いよな、と共感を得られると思っていた。


「え?お姉さん?なに、どこ?」


それを聞いた目の良い少年は大して驚かない。

彼は山遊びをしたときに誰よりも早く遠くの狸を見つけたり、学校の窓際から裏山の木々に紛れ入る狐を見つけたりできるほど、見る力において優れていた。

だから今も、他のみんなは見えているのに気づいていないだけなのだと思った。

なにしろ少年たちが遊んでいた場所から女性が休んでいる木までは、横並びのテニスコート二つと少年野球団が使うグラウンドを挟んでいる。

そこから見た女性は駄菓子屋で買った豆粒大のグミの、半分の半分ほどのサイズだった。友人たちが見逃すのも無理はない。

「オレちょっと話しかけてくる!見てて!」

女性の位置を正確に言い表して伝えるのは彼にとって難しいことだった。

彼女の元まで駆けて行ってその位置を教える方がよっぽど楽なことだった。

後ろから「気ぃつけろよー!」と気遣う友達の声が聞こえる。

少年の後ろ姿はみるみるうちに小さくなり、グミの半分の半分の半分より少し大きいくらいになったところで止まる。


彼は木に向かって何か話しかけているようだった。



少年は近づくにつれ、そのお姉さんは人間ではないのかもしれないと思い始めていた。

彼女の纏うオーラのようなものに、人間とは違った神々しさを感じていたのだ。

いつも同じ若草色のワンピースのはずなのに見た目は新品同然。服の下に隠れていて見えなかった足は靴を履いていない。そして遠目からでは気づかなかった彼女の瞳は、少年がそれまで見たことのないような綺麗な琥珀色。

しかもその視線が、駆け寄る間中ずっと少年に注がれていた。

あれだけの距離が離れていたのに、狐色の髪をした女性はこちらに気づいていたのだ。

少年は自分と同じものを見れる視力の人間と会ったことがない。そんな人はいないかもしれないなどと思っていたほどだ。

少年はただ無機質に微笑むその女性に若干の恐怖を抱いていたが、同時に強い興味も湧いていた。

意を決して、話しかける。

「お友達を放っておいていいの?」

口を開いたのは木陰の女性の方が先だった。掛けようとした言葉がから回った少年は混乱し、ぱくぱくと口を開閉させる。

それを見て女性は柔和に垂れた目を細めて笑う。

「ゆっくりでいいのよ。気楽に話して」

女性は見た目通りに優しい人で、少年はかちこちになりながら話をした。

どうしてオレたちを見てたの? 楽しそうだったから、つい

こんなに遠いのに見えたの? あなたも私を見てたでしょ?

目が良いの?オレはすっごい良いの 私もすっごい良いの。偶然ね。

話していくうちに打ち解けて、二人の仲はたちまち深まる。

話題は次から次へと移り変わって絶えることがなく、少年の提案で始まった「遠くのもの当てっこ勝負」は白熱し、日が暮れて遠景が闇に呑まれるまで続いた。

さすがに少年も帰らなくてはならない時間だ。

少年は惜しい気持ちを少年特有の純粋な語彙で伝える。

茶髪の美女はことわざを持ち出してから、改めて別れるのが寂しいと直接口にした。

「また明日、ここに来てくれる?」

「うん!オレ絶対来るよ!約束!」

少年は街灯が頼りなく照らす暗い夜道を、一人走って家に帰った。


次の日、公園の隅の木陰にやって来た少年は落ち込んだ様子だった。

今日もそこに座っていた美女は、立ち上がって彼に歩み寄り、なにがあったのと問うた。

「オレ、もうみんな大嫌い。おねえさん以外大っ嫌い!」

少年は言う。

彼女と別れた後何があったのかを、泣きそうになる気持ちを殺しながら語った。


彼女と別れた後家路に着いた少年だったが、家に着いたのは彼の母親が取り決めていた門限を二時間も過ぎたころ。

母親は激昂して少年を締め出し、扉の前で泣き喚く彼を夜の十時を過ぎまでそのままにした。

帰ってきた父親がドアの鍵を開けてようやく中に入ることができたが、今度はうるさく泣いたことを叱られ、宿題ができるまで晩御飯ももらえず、その後は怒鳴られながら風呂に入り歯を磨いて寝ることしかできなかった。

その間、父親は庇ってくれなかった。

触らぬ神に祟りなしと言わんばかりによそよそしい態度を決め込み、彼を助けてはくれなかった。

少年はすすり泣きながら布団に入り、やがて眠って、お姉さんとの楽しい会話を夢に見た。

そして朝。学校に行くと別の問題が彼を待っていた。

昨日一緒だった友人たちが、誰一人口を利いてくれない。

しつこく話しかけると押し飛ばされて、「お前気持ち悪いんだよ!」と怒声を浴びる。

「みんな聞いてよ!こいつ昨日遠くに女の人がいるーっつって走って行って、何時間も木と話してたんだぜ!」

視力の良かったその少年以外に、あの女性は見えていない。

彼はそれを、その時になるまで知らなかったのだ。

そしてそうと信じようともしなかった。

友人よりも自分の目を信じた。

自分の見た美しい女性を信じた。

少年は、綺麗な大人の女の人と自分が話していたのを羨ましがっているんだろと突っかかって、結局殴り合いの大喧嘩に発展した。

それから先生に叱られ、呼び出された親に叱られ、心にもない謝罪を言わされて形だけの仲直りをさせられ、友達だった男の子からは絶交だと言われ。

すっかりみんなが嫌いになってしまったのだった。


「……大変だったね」

夕日が山の端に掛かっている。

少年は泣きじゃくりながら女性の膝に顔を埋めていた。

狐色の髪をした女性は少年の髪を優しいリズムで撫でつける。

繰り返し、繰り返し、優しく撫でて、ふと言葉を漏らす。

「私のとこ、来る?」

え?、と起き上がって女性を見る少年。

木陰の美女はいつものように柔らかな微笑を浮かべている。

「パパもママも、お友達も学校も、嫌になっちゃったんだよね」

心から少年の悲しみに寄りそう声で言う。

「それはこれからもずっと続く。辛くて、消えたくなっちゃうよね」

女性はゆっくりと足を動かし、屈んだ姿勢で茶髪の滝を前に零しながら立ち上がって、優美にその髪を後ろに払いながら言う。

「お姉さんの家に、婿入り……する?」

ぴょん、と彼女の頭から狐の耳が起き上がって、ワンピースの裾にぱさりと音を立てて尻尾の先が現れる。


「ただし、もう人間の世界には戻れない」


狐耳の美女は少年に手を差し伸べる。


少年は小さな手をその上に重ねた。



「……あれ、良い話だ」

幼い僕の目の横を暖かな雫が流れる。

親にも冷たく扱われ、友達には信じてもらえなかった少年が、唯一理解してくれた妖狐の美女に救われる話。

紛れもなく感動の異類婚礼譚だ。

こんな話をこの屋根裏部屋の怪から聞こうとは夢にも思わなかった。

僕は感動し、それ以上に驚いていた。

語ったそれとしては、そういうわけでもないらしいが。

「このあと突然世界が滅びたなら、良い話だったねえ」

屋根裏の怪はそう言って、続くその後の話を語る。

「怪異と人間が結婚する。存在する世界の大きな違いを乗り越えた愛は確かに美しいけれど、それは結局その時だけのもの。すぐに腐って壊れてしまう。

想像してみてよ。君が明日から山の中だけで暮らすことになったら。

トイレはどうするの?食べ物はどうやって手に入れる?殺していい生き物と殺しちゃだめな生き物の違いは?言葉の通じない先住者たちと仲良くできる?」

僕は想像した。すぐに無理だと思った。

「違う生き物同士が結婚して生活するなんて不可能さ。すぐに二人ともそれに気づいて、より力のある方が力のない方を支配する生活に切り替わる。まあ人間同士でもそんなものかもしれないけど、怪異との婚姻はその比ではない。迎えるのは、血も涙もない結末だよ」

僕はさっきまでの暖かな心が、鬱々として重く冷たいもので塗りつぶされていくのを感じていた。

もうそれ以上聞きたくなくて、屋根裏の怪に早く怪談のオチを話してと強請る。

天井の向こうからは仕方のないといったような溜息が聞こえて、それから得々と声が語り出した。


「涙は血液が濾されたものだって知ってるかな。

晴れている日に降る雨のことを「狐の嫁入り」と言うけれど、私の知る限りあれは、狐の結婚式で新たな夫婦を祝って降らされるものではない。




帰りたくなってしまった小さな夫を、無惨に食い散らかして吹きあがった血飛沫。

それが雲に濾されて、涙の如く地に降り注いだものなんだよ」

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