第18話 おいでおいで
林間学校の思い出。
宿泊施設の隣の森を夜に歩く「ナイトウォーク」のイベントで、僕は半坂さんとペアになった。
半坂さんはそれまで日が完全に落ちてから外出したことがなかったらしい。玄関ホールから一歩出て光の届かない世界を見るや、隣でかちかちと歯を鳴らして震え始めた。
僕と引率の先生とで手を引いたが、彼女は三歩と歩けない。がたがたと震える足はさながら生まれたての小鹿で、とても夜の森を歩ける状態ではなかった。
しゃがみ込む生徒を見てトラブルを察した先生たちが集まる。先生たちの間で話し合いがなされ、彼女になんとかナイトウォークを楽しんでもらうための作戦が立案された。
まず二人の先生が両手にライトを持って僕たちの足元を照らす。さらにガイド役の人を一人から三人に増員して、少し離れた先を照らしてもらう。そして最後に力自慢の学年主任の先生がライトを持って後ろについて安心感を与える。
作戦の甲斐あって、ようやく半坂さんは半泣きで唸るのをやめて立ち上がり、一歩一歩、とぼとぼと歩き始めた。
かくして急遽結成された近衛騎士団の中心で、僕たちと半坂さんのナイトウォークが始まる。
しかしこの半坂さん、どうも極度の怖がりらしい。今度は風で揺れる木々の音や虫が草むらを跳ねる音に怯えだして、足取りはまた重くなり始める。
とろとろと進む速度はどんどん落ち、涙目の彼女はいまにも立ち止まって大声で泣きだしそうだ。
――僕もさすがにあわれに思って、少しでもこの状況が怖くなくなるよう何かしてあげないと、と思った。
幼い僕にできたのは、怖い話くらいだったが。
◇
彼にとって夜の世界は恐ろしいものではなかった。
彼が強い男だったから?それもある。彼は毎朝仕事前にジムに通っていて、その屈強な体格が秘める暴力は心に一本の太い芯を伸ばしていた。
彼が怖いもの知らずだったから?それもある。彼は子供の頃から素手で蛇を捕まえるような恐れを知らない人間だった。
だが、彼が夜を恐れない一番の理由はもっと単純で、誰だって簡単に持ちうるもの。
慣れだ。
男は毎夜ランニングを欠かさなかった。近所の公園から高校の周りをぐるっと回るコースを三周。これをもう二年近く続けていた。
最初は寒気がして恐ろしかった暗さも静けさも、今や心を落ち着かせ運動神経を研ぎ澄ませるエッセンスに感じられる。
何度も何度も繰り返し見て、その度に何も起きないとなれば、どんなに怖く思えたものも怖くなくなるものなのだ。
夜の世界と彼はすっかり友人だった。
ただそこに退屈さを感じるときもあった。
人間同じものをずっと見ていると、それだけで疲れを感じるようになるもので、二年も経つと同じコースを走ることに飽きが出てくる。帰る時間を決めて後の予定を合わせるにはいつものコースが良いのだが、翌日がオフだとその必要も薄い。
それである金曜の夜、男は慣れ親しんだ道を外れて、住宅街に残された大きな森林公園の周りを一周するコースで走ってみることにした。
中に歴史的価値のある木が生えているとか生態系に独自性があるとかで、開発しないことに決められた場所。
その周りは今より少し長い道のりになるが、早朝に走る人も多いランニングしやすいコースだ。
夜の十時過ぎ。男が走り始めると、これがかなり良かった。
森の中から澄んでいて美味い空気がひんやりと吹いて心地よく、なぜか他に走っている人がいなくてペースを乱されない。
二年前なら恐ろしかったかもしれない森林公園の木々のざわめきも、今の彼には友人の話声も同然だから、浮き立つような楽しい気分で走ることができる。
躍る心のままに男は走る。
気持ちのいい疲れが体を引き締めて、コースはいよいよ折り返し地点というところまで来た。
住宅地から見ると森の向こう側にあたるその場所には、公園の名前が掘られたレンガの小さな柱と、灰色の石材で作られた小さな柱、そして真っ白なベンチと、その隣に一台の自販機が置かれている。どうやらこっち側が公園の正規の入り口らしい。
なんとなく心が惹かれたのでその入り口に入り、ゆっくりと速度を落として歩いてからベンチに座る。
座って、はあ、はあと息を整えながら。
隣の自販機を見て、なにか記念に買ってみようかと思いついた。
やや重く感じられる体をずいっと起こして立ち上がり、自販機に向き直ってラインナップを見ようとする。
ジュースの取り揃えより先に、自販機の横から伸びる腕に目を奪われた。
青白い、薄汚れた肘から先が、自販機の陰から出てきている。
その根元から斜めに上った先の手は、かくん、かくんと上下する。
おいで、おいで。
そう言っているかのような動き。
こっちに、おいで。
誘うようにこまねく手が、自販機の弱い薄白い光を浴びている。
男は息を呑み、その気味の悪い光景から少し後ずさりして……、
背を向けて一心不乱に逃げ出した。
結局、男はコースをいつもの高校周りに戻した。
あの後一回か二回ほど、気分転換にその森林公園の周りを走ることもあったが、その度にあの白い腕を同じ場所で見かけた。
別に近寄らなければいいだけの話、と思ったこともある。
だがご近所づきあいで参加した地域清掃で、隣に住んでいるおばさんの話を聞いてからは、まったく近寄らなくなった。
曰く。
あの自販機の白い手に近づくと、森の中の異界に連れていかれるのだとか。
「毎年一人はいなくなっちゃうのよねぇ~。去年は一丁目の寺田さんでしょ?一昨年は三丁目の殿井さんで、その前は四丁目の大川さんとはす向かいの山重さんのおじいちゃんね。
あ、そういえば今年はまだ誰もいなくなってないのかしら。怖いわねぇ~」
◇
話し終えるころには僕たちは夜の森を巡り終え、宿泊施設の明かりに向けて坂道をくだっているところだった。
「ねえ、それって怖い話よね」
そう訊く半坂さんの顔には不思議と、恐怖の色は浮かんでいない。
というより、一切の感情を失った完全な真顔だった。
「うん。……もしかして怖くなかった?」
一応半坂さんの怖がりを考慮して大して怖くない話を選んだのだが、怪談のより強い恐怖で現況の怖さを塗りつぶすという僕の企てでは、彼女を怖がらせられなければ意味がない。
僕は不安げに尋ねた。
だが彼女はきっぱりと言った。
「怖かったわ。怖かったわよ」
それを聞いて僕はほっとした。
「よかった。じゃあ、もう夜の森は「なんで今怖い話したの?」
僕の言葉を遮るようにして半坂さんが言う。
「なんで。今。ナイトウォーク中に。怖い話を。したの」
真顔で、首をきっかり90度横に回して僕を見つめる半坂さん。
大きく見開かれた眼はもう涙目ではなかった。
「えっと、夜の森より怖いものの話をしたら、逆にこんな暗闇くらい怖くなくなるかなって、思ったから……」
「そう。わかった」
彼女は首を正面に向き直して、再び無表情のまま歩く。
僕たちの周りにはなんだか重苦しい空気が満ちていて、近衛騎士の先生たち共々、誰も口を利けなかった。
――こういうとき、あの屋根裏部屋の怪なら、静寂を切り裂いて僕の問いに答えてくれるだろうな。なにかしら面白みがあったり、ためになるような一言を僕に与えてくれるだろうな。
僕はそういう振る舞いに憧れがあった。
だから僕は、近衛騎士団が結成されたときから思っていたことをとりあえず言うことにした。
「夜の森を大人数で回るときってさ、たいてい誰か一人増えてたりするんだよね。
いるはずのない人が」
僕は半坂さんに思いっきり殴られた。
彼女には怒ると冷淡な無表情になる癖があると、あとで相部屋の佐藤くんから教えてもらった。
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