第17話 迫る顔

僕の家の屋根裏部屋には、得体の知れないが棲んでいる。

それは僕の寝つきが悪い夜、決まって怖い話をする。

の怪談に怖れおののくことは多々あるが、不思議と、僕は屋根裏部屋の怪物そのものを怖いと感じることは、あまりなかった。

だが普通は、家に正体不明の怪異がいると怖がるものらしい。

これからするのはある大学生の話。

引っ越した一軒家に先住者のいた男性の話だ。



また一限に入れた授業の単位を落としてしまった。

理由は単純。出席回数不足。

彼は一限に入れていた二つの授業のどちらもそうして落第してしまった。

どうして出席できなかったのか。

一言で言ってしまえば遅刻するから。

しかし彼に言わせれば。

「悪夢を見るんです。家の中を逃げ回る夢。俺は顔だけの幽霊に追われてて、どうやっても家から出られないんです」

彼が通う大学の学生支援課の一室で、その大学生は学生アドバイザーの先輩と話していた。

それで、と話を促すアドバイザーの女性に、彼は事の仔細を語る。

彼は大学二年生で、地域再興ボランティアサークルに所属していた。

彼が今住んでいる古い一軒家は、そのサークル活動の一環でリノベーションされたものだ。ここに住み込んで暮らしぶりをレポートにまとめるのが彼の今春の課題だった。

しかしながらその暮らしは快適ではなかった。

改修工事に問題があったわけではない。内装が古めかしいままなのはむしろ気に入っている。

ただ、悪夢を見るようになったのはそこに住むようになってからだった。

それはいつも同じ内容の夢。

朝目が覚めると逃してはならないバスが出るまであと十数分という時刻で、彼は慌てて支度をする。バス停までは走れば五分という近さなので、大急ぎならなんとか間に合う。スマホとルーズリーフと筆記用具、生協で買ったノートPCを鞄に入れて、早く着れるという理由だけでTシャツとジーパンを着用する。

二階からドタドタと下りて洗面所で寝ぐせだけ直し、いざ出発と玄関に走る。


するとそこに、顔がある。


木製の柵にすりガラスを当てはめた古い引き戸。

その向こうに、顔だけがぼうっと浮かんでいる。

体も、首も、髪の毛も映っていない、仮面のように虚ろな顔だけがそこにあった。

そしてそれは戸に近づいて、ぬるりとすり抜け家の中に入ってくる。

大学生は短い悲鳴を上げ、わけもわからずダイニングキッチンへと逃げ込む。

玄関から廊下をまっすぐ抜けたその場所は、どの部屋にもつながっていない袋小路。

ここでは何かあったとき逃げられない。

彼は廊下の方を覗き見る。

もしかしたらあの顔はいなくなっているかもしれないと思ったが、顔は口を半開きにして虚ろな目をこちらに向けながらゆっくりと近づいていた。

恐怖に叫びを上げながら、しかしそこには留まれないことを強く意識し、なんとかキッチンを飛び出して、顔の下を転がり抜ける。

玄関から出ようと戸に手を掛けるが、戸はガタガタと音を立てて揺れるだけで開かない。

鍵はかかっていない。建てつけが悪いのも直したばかりのはずなのに。

背後に迫る視線を感じ、彼は一心不乱に廊下に隣した階段を駆け上る。

上りきって振り返ると顔もゆっくりと浮上してくる。

彼は涙目になりながら自分の部屋に逃げ込んだ。

扉の前に本棚をずらして塞ぐ。すぐにアレが戸をすり抜けて来たのを思い出して焦る。

ここは二階。逃げるにはもう窓から飛ぶしかない。

部屋の窓の鍵を開けて取っ手を掴む。

力任せに引くがやはり開かない。

ガチャガチャと何度も何度も引いたが、わずかな隙間ができるばかりで、何かに押さえつけられているかのように開かない。

彼はいよいよ追い詰められたことを知って、扉の方に向き直る。

ぬぅっと扉をすり抜けて顔が入ってきた。

音もなくまっすぐ浮遊してこちらへ迫るその顔を見て、彼の恐怖は頂点に達し。


目の前に来た顔がぐわりと大きく口を開けると、

いつも目が覚める。


「この夢を毎晩見るんです。それで起きたら、起きたらそれは朝の七時とか、七時半とか、まあ授業には間に合う時間なんですけど……。俺、怖くて……、部屋の外になかなか出られないんです」

それが彼が遅刻する理由だった。

血の気の引いて真っ白なその大学生の顔を見て、アドバイザーの先輩女性は言う。

「それは引っ越した方がいいね。ちゃんとサークルの仲間に相談して、あの家はだめだって情報を共有して、ね?このまま次の秋学期も来年も一限の必修授業落とし続けるわけにはいかないでしょ?」

それはそうなんですけど……、と彼は渋る。彼のサークル活動は地域の自治会や商店街の連合会、市の地域振興課とも繋がりがあるため言い出しづらいようだった。

先輩女性はさらに言う。

「別に君の住んでる空き家だけが活動の対象ってわけじゃないじゃない?その空き家についてのレポートが出せなくたって、他のメンバーがきっと埋め合わせで活動レポートを上げてくれるよ。それに、失敗が許されるのは学生の特権だよ。今のうちにそれを有効活用しよう!どう?」

「でも責任が……サークルの先輩たちが築いてきた地域との信頼関係が……」

責任感の強いその大学生は、女性の助言を聞いてもなお引っ越しの決断ができなかった。項垂れ俯いて、机を見つめて迷っている。

そのうじうじとした様子を見て、女性は言うかどうか迷っていたことを言うことに決めた。


「君、その夢で見た顔……


 今どこにいると思う?」


女性はまっすぐ、彼の頭越しにそれを見ていた。



「……ずっとその人の後ろについて来てたってこと?」

僕の答えに、屋根裏部屋からパチパチパチと控えめな拍手が贈られる。

そして優し気に、話の裏側をは語り出した。

「実質的な管理者がいない空き家は結構あるらしい。介護が必要になった家主が施設や子息の家に移ったりで、手入れのされなくなった家たち。

でも中には、住むことができない特別な理由があって放置されているものもある。

この話のようなことが起こる家だ。

そういった家については、もう住むことを諦めるしかない。

これは場所にまつわる問題だから。そのにはいつの時代にどんなものを建てたところで、生物の安寧を保障できないから」

淡々と説かれる怪異の話を、僕は黙って聞いていた。

しかしごく単純な疑問が湧き出て、ついつい幼い僕は質問をしてしまう。

安寧アンネーってどういう意味?」

短い沈黙のあと、そうだね、と屋根裏部屋の住人は少し考えてから、「平和で怖いことが起こらない、心配をせずにいられる状態ってことかな」と教えてくれた。

僕はそれを聞いて、素晴らしいアイデアを閃いた。

この怪異をして住めないと言わしめる場所を住める場所にする方法があるではないか。

僕はやや興奮気味にそれを言った。


「じゃあ、怖いって思わない人ならそこに住めるんじゃないの?僕、怖いのに強いよ!」






「恐怖しない。

それは怪異だけの特質だよ」

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