第15話 望まぬ再来と神様

すごく幼い頃。まだ眠れない夜に怪談を語り聞かされていなかった頃。迷子になったことがある。

初めて訪れたショッピングモールで、ちょうど縁日風の催し物が開かれていたために人が多く、お母さんと、そして珍しく一緒だったお父さんとはぐれてしまった。

もう家に帰れないのではないかという恐怖、本当は捨てられたのではという不安。

幼い僕は太刀打ちできず、フードコートの隅っこでただ椅子に座っていることしかできなかった。

しかし動かなかったことが幸いしてか、慌てた様子で戻ってきたお母さんに僕は発見され、無事家に帰ることができた。

あのとき、僕を見つけてくれたお母さんが神様のように眩しく見えたのを、今でも覚えている。


ある夜。屋根裏部屋の何かから、山で迷子になり神様に助けられた男の話を聞かされて、そのことを思い出した。



男は山で鳥の写真を撮るのを生業としている。

だからその日入った山にも、もう数え切れぬほど足を運んでいた。目隠しをしても歩けると豪語するほど道にも慣れ親しんでいた。

そんな自分が、迷う訳がない。

男は自分を信じていた。だからその状況を信じなかった。

いつもと同じように杉の大木を右に曲がったはずなのに、次に見つかるはずの朽ちた看板はどれほど歩いても見つからない。見知った景色だったはずのその山林は、いつのまにか鬱々とした背の高い木ばかりの雑木林になっていた。

こんなところには来たことがない。

戻ろうにも、もはや来た道がわからない。

前も後ろも何処までも続く杉と薄霧の林だった。

大の大人である彼の心にも、子供と同じように強烈な孤独と不安が訪れる。

「だ、だれか……!いないか……!?」

ぼやけた木目が目玉に見える。獣に遠くから見られているような視線を感じる。

「だれか、だれかーっ!だれかああああっ!!」

たまらず叫ぶ。腹の底から声を振り絞る。

こんな大きな声を出すのは男にとって初めてのことだ。

山の静寂と鳥のさえずりが成す優しい音楽を愛する男が、一生ここから帰れないという恐怖に絶叫していた。


「静かにしなさい」


生気の無い声が男の前方からふっと湧く。

太くて高い杉の木の影から白い男が出てきた。

白く乾燥した木の冠を被り、白い布で顔を隠した、神道の神主風の恰好をした男だ。

写真家の男はその雰囲気に神を連想した。

その神は言う。

「ついてきなさい。外は遠くない」

真っ白に色の抜けた長い白髪をなびかせながら、うっすらと光を帯びた神が行く。

写真家の男は一言二言困惑の声をどもらせて、それから他に頼れるものもなしと後を追うことにする。


神は歩きながら独り言のように呟いた。

「ここは境。迷う者の場所。彼岸と此岸を知っていれば、道がわかる」

「山で生命の気配が消えたら、帰る場所を忘れないよう頭に思い浮かべ続けなくてはならない」

「ここは生者がいつまでもいられる場所ではない。出なくてはならない。出なくては、ならない」

いつの間にか景色は男が入り浸るいつもの山に戻っていて、目の前には目印の大杉がそびえ立っていた。

神はその木に体を半分埋めるようにしながら言う。

「もう二度と、あの場所に来てはならない」



この事を話した男は、飲みの席の笑い者になった。

「バッカお前、狐につままれたって言い方の方がまだマシだろ!なに?うっかり道に迷ってたら神様が出てきて助けてくれたって?いやいやいやいや!」

酒が入って揶揄からかう調子が度を越している。

だが一緒に飲んでいたその男は特に酒癖が悪かったから、信じないで馬鹿にするのもある程度想像の範囲内で、それほど腹も立たなかった。

だが、次の台詞だけは違い、男から冷静さを奪う。


「それにお前カメラ持ってたんだろ?なぁんでその景色とか神様を撮ろうってしなかったんだよ」



本当にその通りでむかっ腹が立つ。からかってきたその男にも、迷子の恐怖で鈍っていた自分にも。腹が立ってしょうがない。

山に入って鳥の鳴き声を聞いても、美しく茂る緑を眺めても、男の心からとげとげとした靄は消えない。

どうすればこの気持ちは収まるのか。どうすればこの怒りは静まるのか。

――いや、静めるなどとバカバカしい。

自分は写真家だ。

写真を撮らなかった失敗を、写真を撮ることで取り返さないでどうするというのか。

男は翌日、再び慣れ親しんだ山に入り、目印のあの杉の大木の元に来た。

大杉にそっと手を添えて、またあの場所に行きたい、導いてくれますように、とほんの少しの間祈りを捧げる。

神様のようなオーラの男は「帰る場所を忘れないようにすれば帰れる」という旨のことを言っていた。彼岸と此岸、おそらくこっちの世界とあの霧の林のことだろう、を知っていれば道がわかるとも。それならば再びあの場所を訪れることもできるはずだ。男はそう踏んでいた。

そしてその思惑は外れることなく。男は気が付かないうちに、怖ろしく背の高い杉と薄ぼやけた霧がどこまでも続く林に入っていた。

男はまずその風景をカメラに収める。ただの証拠写真ではあるが、プライドがあるのでなるべく杉の荘厳さが伝わるようこだわった。

次に大声で叫ぶ。「誰かーっ!いや、神様ー!いるんでしょう!?出てきてくださいよ!

その呼び声に応じたのか。枯れ木の白い冠を頂く、白い衣の男が現れる。

その顔には変わらず真っ白な布が垂らされている。

「ここへは来るなと言ったはずだ」

神は言う。

男も言った。

「ごめんなさい神様。でも私、一つやりのこしたことがありました。実は、神様のことを写真に撮らせていただきたくて……」

言いながら、なんと不遜な申し出なのだろうと気づく。

だがここまで来て引いてはプライドに傷がつく。男はなんとしても写真を撮るつもりだった。


しかし、白い男はまるで耳に入っていないように独り言を呟く。

「来るなと……来るなといったのに……」

「あ、あの……?」

写真家の男の呼びかけにも答えず、白い男は頭を抱えて左右に揺れる。

「耐えてやったのに……が、があ……」

ぐらぐらと揺れる白い男に写真家は言葉を失う。

無意識にカメラを向けていた。

そこには荒ぶる白い男が映っている。


「がまん……がまんしたのに……っ!



俺はお前を、食べないように我慢したのにいぃぃぃぃい!!!」



白い男が最後の理性を振り絞って助けた男は、自分のプライドを回復させるために舞い戻って、愚かにも怪物に食われてしまったのでした。おしまい。

屋根裏部屋の怪はそう締めくくった。

「神様じゃなかったの?助けてくれたのに」

幼い僕が質問を始める。

屋根裏の声は優しく教えた。

「白い男は言っていただろう?あの林は境。彼岸にも此岸にも行けない者の迷う場所。そこで帰る場所を忘れてしまうと、もう元の世界に戻ることはできない」

「でも写真家の人を出してくれたよ?」

「家に案内したわけじゃないさ。白い男はただ、に案内しただけ。写真家の男がもう帰る場所を思い出せなくなっていたら、白い男にもどうにもできなかっただろう」

「どうして白い男は一度助けてくれたのに、次は食べてしまったの?」

「我慢の限界だったんだ。境では色んなものがあやふやになるけれど、生きたまま迷えば肉体の欲だけは絶対に残る。食べたい、犯したい、眠りたい。ただそれを抑制する自我だけが時間と共に薄れていく。男は人としてその欲求に抗ったが、再び目の前に現れたその肉を目にして、ついに理性を失ったのさ」

いつもながら、屋根裏部屋の怪が用いる言葉は難しい。しかし幼い僕は子供ながらにそれをかみ砕いて理解していた。

つまりあれは、同じように境に迷った人間だった。

最初の質問の答え。神様はいない。

僕は残念な気持ちになって、それを口に零した。


「ねえ、神様っていないのかな。この前してくれた話も、神様のフリでいけにえをもらうが正体だったんだよね?」

ただ残念さから愚痴ったその言葉。

しかし、部屋には沈黙が満ちて、いつまでも屋根裏部屋の住人は答えない。




かと思うと、突然静寂を切って答えた。

「いるよ。六柱いる」


コンコン。

扉がノックされて声が遮られた。


「……誰と話してるの。……早く寝ないとだめよ」


お母さんが扉越しにそう言って、そして遠のく足音が鳴った。

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