第13話 見る女
赤子というものは、ついさっきまで目の前にあったものでも、籠かなにかで隠されてしまうとそれが世界から消えてなくなったと思ってしまう。
その反動だろうか。
人というものは、隠されたものはどうしても見たくなるものである。
そんなつまらない好奇心が、自分の身を危険に晒すと知っていても。
初めてコーヒーを口にした夜。眠れない僕に、屋根裏部屋の住人が天井越しに語った怖い話がある。
その怪談も、そういったことを意味していた。
◇
服を買うお金がもうない。今月は遊びに費やしすぎたなあ。
大学生生活にも慣れた頃のある女子大生が、そんな他愛ないことを考えながら電車を待っていた。
天を貫くビルの群れ、その下を縦横無尽に走る長大な穴とそれを貫く鉄の長箱。地下鉄道。
そのプラットホームの、下りてきた階段から離れた奥の方で彼女はプラスチックの椅子に腰かけていた。
スマートフォンをしまう。モバイルバッテリーの充電を忘れたせいで、節約しなければ音楽を聴きながら帰ることもできなくなりそうだった。
手持無沙汰でなんとなく辺りを見回す。
時刻は夜の十一時過ぎ。周りに見えるのは自分と同じくらいの女の子か、くたびれたおっさんか……と、彼女は右手側の奥、ホームの端の端に立つ長身の女を見つけた。
「うわすご、スタイル鬼いいじゃん……」
腰より下までまっすぐ伸びる長くて綺麗な黒髪の女。この季節にはまだ暑いだろう茶色のコートを着て、左右のポケットに手を突っ込みながら、これから列車が出てくる真っ暗な穴の方を見ている。
こちらに背を向けた格好で、どんな顔かはわからない。
だがその女子大生は、そのぴしっとした姿勢の良い後ろ姿から、きっと自信に満ち溢れた綺麗な顔の人なんだろうな、と想像した。
ちょっと気になるし、声かけてみようかな。
そう思って腰を浮かした瞬間。
電車の到着を先触れするメロディとアナウンスが流れて、彼女は好奇心に見切りをつけ、転落防止柵のドアの方へ歩いて行った。
その女子大生はやや驚愕していた。
彼女が乗った車両の隣。最後尾の車両にあの長身の女が乗り込んでいる。
しかしやはり、彼女は後ろ姿。
今度はカーテンに塞がれた後方の窓の方を見ている。
あの人、何見てんだろ……?
もしかして、ああ見えて電車が大好きなたちで、さっきはホームに入ってくる電車の顔を、今は誰もいない運転席をカーテンの隙間から覗き見て楽しんでいるのだろうか。
それは綺麗な後ろ姿には意外性の大きい、かわいらしい一面だな、と彼女は思った。
長身で、きっと自信に満ちた綺麗な顔立ちをしているだろう女性。
その人が暗闇の中に浮かぶ計器やレバーを見て、頬を紅潮させ唇をふにゃふにゃさせて笑う様子を女子大生は想像した。
「いや……ちょっと見てみたいな」
幸い、隣の車両にその女以外の乗客はいない。
近づいて声を掛けて話してみても、誰も不快に思ったり好奇の目を向けてきたりはしないだろう。あの女性にもそう迷惑はかからないはずだ。思いながら彼女は歩き、スライドドアを開けて隣の車両に乗り込んで、なんとなくこっそり足音を潜ませて女に近づく。
近づくほどその大きさに驚く。180は確実に越えている。少し首を上げなければ視線を合わせられなそうだ。
近づくほど違和感が大きくなる。何の変哲もない、どころか美しく立派な背中。だがなにかがおかしい。
握手を交わせるほどの近さまで来る。
なにかおかしい。
なにがおかしい?
それに気づいた。
女と目が合っている。
女の首は180度回転してこちらを向いており、長い前髪の奥のぎょろぎょろとした目で彼女を見ていた。
◇
「女子大生さんはそのあとどうなったの?」
お約束のように幼い僕が訊いた。
屋根裏部屋の怪はいつもの優しい口調で答える。
「地下中に響く甲高い悲鳴を残して、跡形もなく消えてしまいました。……おしまい」
君も異様な格好の存在には無闇に好奇心を向けないことだ。天井の向こうから声は教訓を伝える。僕はまったくその通りだと思った。
「ところでその長身の女の人って、結局何を見ていたの?首が反対についていたのは最初からだよね。ずっと女子大生の方を見ていたのかな」
屋根裏の怪は答えた。
「少し違うよ。
それは見られていることに気づいたから、電車に乗った後振り返ったんだ」
それまでは、やってくる電車に乗る人々を見ていたらしい。
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