第12話 見える人

僕が幼い頃のこと。眠れない夜は必ず、屋根裏部屋に棲んでいるから怖い話を聞かされた。

そのほとんどの話に人の世の理では説明のできない、人を脅かす存在があった。

あるものは目の前に姿を現して人を食らい、あるものは遠巻きに見て人を狂わせ、またあるものはその存在の痕跡を見せて人を慄かせる。

だがそれらは全て、見なければ、気づかなければ、認知しなければ始まらない。だから、奇妙だと思った存在をひたすら見ないようにすれば怖い思いをせずに済むのではないか。

幼い僕は一時期そう思っていた。



この話を聞いて、それは浅慮だと思い知った。



今年16になるその少女の悩みは、近頃ますますようになってきたことだ。

高校への通学路。電柱のそばに。側溝の中に。公園の木陰に。

去年の夏、見学に訪れた時には見えなかった者たちが、この世ならざる者たちが見える。

ある者は首の長さを忘れて無際限に伸ばしている。ある者は目の在りかを忘れて手を眼窩に突っ込んでいる。ある者は突っ立って道行く人の言葉をそっくりそのまま繰り返している。

少女は視線を伏せて歩いた。それらを見るのは気分が悪くなるし、それらに「見えていること」がバレたら、何か悪い事が起こる予感がしてならなかったからだ。

少女はそれらのことを、正しく恐れていた。


生まれつき彼女にはそれらが見えていた。物心ついたときから自然に見えていたものだから、最初はそれが世界に当然に存在しているものだと思っていた。

だが言葉を覚えて他者と交流するようになって、それらが普通の人には見えず、確かな存在ではないことを知る。

しかし小さな少女にとって、見えているものは全てだ。そこにそれはあるのに、誰もそれがあると認めないのは、自分だけが仲間外れにされている気持ちがしてイヤだった。

彼女がまだ小学生だったある日のこと、夜の十時を過ぎて帰ってきた父が女性を連れていたので「その女の人だれ?」と問うた。

父親は女の人なんていないよと慌てて否定する。

駆けつけた母親もその父の方を見て、「嫌な冗談やめてよもう」と少女を叱る。

   わたしがまちがってるっていうの?

少女は意地になって声を荒げた。

「女の人いるじゃん!長い髪で、白い下着の、手首がいっぱい切れてる人!」



「アナタ、見えるの?」


がばりと頬を裂く大口を開いて喋った女。

その声のあと、何が起きたのか少女はどうしても思い出せない。

だがしかし、その夜あったことが原因で家族がバラバラになってしまった事実だけは、しっかりと彼女の過去にそびえ立ち現在に影を落としている。

少女に悩みごとを打ち明けられるような身近な人はいない。

いつも伏し目がちで怯えたような態度の彼女には友達もいない。

彼女はただ孤独に、自分の人生を台無しにするそれらから目を逸らして生きてきた。

――それを神は知ってか知らずか、少女の見える体質はますます強くなっている。

ある晴れた春の日。定期テストがあって午前で学校が終わりになる日。

彼女は学校から帰る途中で頭痛と吐き気を感じ、仕方なく通学路にある公園の日陰になっているベンチへ腰を落とした。

鞄を頭の上に置いて日差しを遮ると、少し気分が回復する。どうも軽い熱中症になったらしい。

鞄から財布を取り出して、少し離れた自販機でスポーツドリンクを買い、鞄を置いたあのベンチへと戻る。


いる。


鞄の隣にザラザラした灰色の男が座っていた。

いや、灰色なのは服だけで、その肌は深い海の水底のような濃紺をしている。

顔は……と、つい見てしまいそうになったのを抑えて、少女はいつものように地面を見る。

ベンチとは反対側へ向き直って、スポーツドリンクのペットボトルを傾けて飲む。

どうしよう。鞄の中の通学定期がなければ施設へは帰れない。どこかに消えて欲しいが、経験上一度現れたものはなかなか消えることはない。

冷たい液体を二口、三口と飲みながら葛藤する少女。

ペットボトルを空にしたところで彼女は、いちかばちか「気づいていないフリ」をして鞄を取って帰ることにした。

大丈夫、あいつらは滅多に人に関わってこない。関わってきても、他のみんなと同じように知らんぷりしてしまえば、見えていないと思わせられれば、何も危害は加えられないはず。

下を向く目に震える足取りが映る。一歩一歩ふらふらと揺れながらもそのベンチの方に、着実に戻っていく。

やがて視界の端にあの灰色の靴と青黒い肌が見えて、次にベンチとそこに置かれた鞄が目に入る。

やった、やったたどり着いた!


「あの、大丈夫ですか」


声を掛けられた。

どこにでもいる普通の青年の声だった。

その声がする方を絶対に見ないよう意識していなかったら、つい反射でそちらを見てしまうところだった。


声の主は青と灰の男だ。

「あの、大丈夫ですか。ふらついてますけど」

まるで人間のように自然に話しかけてくる男。

まさか、もしかして、私が勘違いしていただけで、この人はただそういう格好なだけの、確かに存在する人間なのではないか?

そう迷う自分をすぐに打ち消す。

違う。これは人の言葉を真似ているだけだ。今朝見かけた繰り返し呟くあいつと同じだ。これは人間じゃない。これは人間じゃない。これは人間じゃない!

鞄を取り、恐怖にがたがたと震えながら、みっともなくか弱い足取りで立ち去ろうとする少女。

「ちょっと、日射病じゃないですか?ここ座りましょうよ。飲み物買ってきますから」

少女の足元は不安と恐怖、そして迷いでぐらぐらと揺れる。

人外とは思えない流暢な言葉、優しい気づかい。灰色の服も青黒い肌も病んだ自分の見間違いで、この人は本当に親切なだけの人なのかもしれない。

いいやあんな見た目の人間がいるはずない。だいいち人が荷物を置いている隙にその隣に座るなんて正常じゃない。

交錯する思考は少女の視界をぐにゃぐにゃと歪める。彼女の前身からふらっと力が抜け、ついに膝が折れその場に倒れ込んだ。

「あっ、ちょっと。きみ、大丈夫?」

青黒い肌の男はすぐさま少女の元に駆け、彼女が頭を地面にぶつけそうになるのを腕を挟んで防いだ。

ああ、やっぱり、やさしい。

このひとは、だいじょうぶ、ちゃんとひとなんだ。


ぎらぎらと輝く太陽を遮って、青黒い男は少女の瞳を覗き込む。


少女の瞳に反射する自分の姿をしっかりと見つけ、青黒い男は言う。


「ああ、やっぱり。




きみ、見える人じゃん」



「見ないという対処法は、こうでなくとも限界がある。君は目の端に幽霊が見えたら、その後の一生を目を開けずに生きていける?」

優しく諭すような屋根裏の怪に、僕は拗ねつつ負けを認める。

しかし悔しさは一層強く、当たるような質問を投げた。

「でも、じゃあユーレイを見ちゃった人はどうすればいいの?」

ふん、と少し悩んでから、屋根裏から答えが返ってくる。

「したいことをすればいいよ」

僕はさっぱり意味がわからなかった。

どういうこと?と聞き返す。

「例えば君が本屋に行こうとしていたとして、どうしても通らないといけない道で幽霊と出くわしたとする」

「うん」

「でも君の目的は本屋に行くことなんだから、そいつの脇を通って行けばいいのさ」

「……うん……?」

わからないかい?と天井の向こうからいじわるな笑い声がからかってくる。

僕はもう理解を拒んで、わかんない!と苛立った。



「死者が干渉できるのは死者のために生きる者だけ。君が君のための行動をとるのなら、幽霊を見ても問題ない。幽霊に触ってもかまわない。通り抜けたって大丈夫。

生ける者として生きる人に、死者が付け入る余地はないのさ」


その意味を体験で理解できたのは、それから何年も後のことだ。






そしてその言葉の綾に気づくのは、

ずっとずっと、後だった。

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