第9話 線香の匂い
マドレーヌを紅茶に浸したときの匂いで、少年時代を思い出す。
このような特定の香りをかぐことで記憶の一部が呼び起こされることを、その描写をした小説の作者から取って「プルースト効果」というらしい。
その由来の真偽は知らないが、そうした体験は僕にもあった。
僕は線香の匂いをかぐと、幼き日の、ある眠れない夜のことを思い出す。
具体的には、その夜に屋根裏部屋に棲む何かから聞かされた、怖い話の内容を――思い出す。
ああ、線香の匂いがする。
◇
高校生になってはじめて、彼女ができた。
これはそんな彼が初めて彼女の部屋に招かれたときの話。
成績の芳しくない彼女に、その男子生徒が勉強を教えてあげるだけという予定だったが、彼の頭の中ではそれ以外の妄想ばかりが盛んにシミュレーションされていた。
彼女の部屋はどんなだろう。ゲームや本の趣味はどんなだろう。カーテンやベッドの色はどんなだろう。どんな匂いがするのだろう。もし勉強だけでなく遊ぶことになって、それでいい雰囲気になったら、どうしよう。
その男子は浮かれていた。浮ついた気分のままに彼女の家の前に到着し、何年振りに押す他人の家のインターホンに緊張し、出迎えた私服の彼女にときめき、その部屋の異常に驚愕する。
「うっ……えぇ?」
部屋に入るなり小さく呻いた彼に、女の子が「どうかした?」と尋ねる。
男の子は訊いた。
「え、ええと、もしかして何か法事とか……なんかあった?」
「ないけど。……なんで?」
「いや、だって、これ……」
部屋には強烈な線香の匂いが充満していた。
廊下にいた時に気づかなかったのは、彼女の部屋が二階に上がってすぐ左の扉だったからだろうか。それとも自分が浮かれていたからか。
彼は結局、なんでもない、と誤魔化してなんとか彼女と勉強を始める。
しかし、やはり線香の匂いに気を取られて集中できない。
それは今までに嗅いだことのないほど強烈なもので、まるで何本もの線香をすぐそばで燃やしているかのような――
そう思って部屋を見回した彼は、ふとそれに気づく。
ウォークインクローゼットが、少しだけ開いている。
真っ黒な闇が詰まったその隙間から、
皺だらけの顔を笑顔に歪曲させた老婆が覗いていた。
彼は自分の見ているものが信じられず、ゆっくりと頭から血が抜けていくのを感じながら、震えた声で彼女に尋ねる。
「このクローゼット……、なかに、だ、だれかいる?」
質問をしてから、初めて視線を彼女に移す。
心底不思議そうな顔をしたかわいい彼女が、無言で首を横に振る。
「おばあちゃんがいるけど」
視線を戻す。
クローゼットから斜めに覗くおばあちゃんの皺くちゃの笑顔。とてつもない悪意に吊り上がった笑み。その下で。
大量の線香が赤く小さく灯っていた。
◇
「男は気づかなかったが、その線香の数は四十九本。それはその老婆が、その日来る男のために燃やしてあげたものなのさ」
屋根裏の怪がこぼれ話を付け加えて、次は僕が訊く番だった。
「おばあさんはどうしてそんなことをしたの?」
「ふん。線香というのは地域によっては少し違った材料で作られていたり、形が違ったり、宗派次第ではその本数による意味まで違ってくるものなんだ。
そのおばあさんにとって四十九本の線香を焚くのは、これから来る死への弔いの意味があったんだよ」
その答えは、僕が次にしようと思っていた質問の答えにもなっている。
「じゃあ、そのおばあさんは人間じゃなくて、男の子を殺しちゃう存在なんだね」
僕はそんな話に、すっかり慣れっこだった。
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