第5話 隣人は
都会へと向かう電車で座席に腰掛けたとき。ショッピングモールでお昼時のエレベーターに乗り込んだとき。新発売の商品を求めて朝から店に並ぶとき。
そのとき隣にいる人は、本当に生きている人なんだろうか。
僕が幼かった頃、眠れない夜はいつも怖い話を聞かされた。
語り手は天井の向こう。屋根裏部屋にいる何か。
それに聞かされたあの話が、そんな疑念を僕に植え付けた。
◇
マンションに住んでいたとある中年女性の話。彼女は正義感が強く生真面目な性格をしていた。
高校時代は風紀委員として朝早くから先生と校門に立ち、放課後には彼女の提案で実現された風紀パトロールを行って、生徒たちの校則違反を厳しく取り締まった。
社会に出てからはその頑なな所が災いして職場で孤立することもあったが、後に夫となる男性と出会ってからは人と合わせることを覚えて、上手く立ち回れるようになった。
しかし角が取れたのも束の間、二人の間に子供が生まれてから、彼女の性格は苛烈になった。
仕事に精を出す夫は帰りが遅く、帰っても疲れ果てて家事も育児も手伝わない。子供の夜泣きは止むことがなく、気絶するように眠り義務感に叩き起こされる毎日。
ストレスはやがて限界に達し、彼女の心のあらゆる機微に鋭い棘を備え付ける。
そこに、その女は現れた。
「隣に引っ越してきた者です~。よろしくお願いします~」
春から近所の大学に通うため越してきたというその若い女は、呑気な喋り方と朗らかな雰囲気が男受けの良さそうな美人だった。
女性はその若い女をドアホン越しの素っ気ない返答で追い返す。
ただでさえストレスの多い生活を送っているのだ。気に食わない女の相手など一秒たりともしていたくなかった。
持ってきていたかは知らないが、手土産を受け取りさえしない薄情なこの態度は女との隣人関係を最悪にし、今後関わることは二度となくなるだろう。
その中年女性はそう思った。
しかし。
彼女はその後、その若い女を意識せずにはいられなくなった。
女が週に何度も男を連れ込んでいたからだ。
それも、毎回違う男を部屋に入れていた。
我が子と共に買い物から帰る度、隣りを尋ねる浮ついた若い男と招き入れるあの若い女を見せつけられた。
まだ女が隣に住み始めてから一週間と少しという頃。出会って間もない男をとっかえひっかえ楽しんでいるということになる。
女性は思った。なんとふしだらな女なのだろうと。
幸い住んでいたマンションは、子供の夜泣きがあっても苦情が入らないくらいには防音に優れた物件だった。隣の部屋で繰り広げられているだろう情事についてはこちらに一切漏れ聞こえてはいない。
しかし今後我が子の教育に良くない事は明白だし、見境なく男を誘うような女が隣に住んでいるという事実は単純に、不愉快かつ不安だった。
女性は女への忌々しい思いを、子育てのストレスとともに日々積み上げた。
そしてある日。ある小さな事件をきっかけに、それが爆発した。
あの若い女が、プラゴミの日に間違って燃えるゴミを捨てたのだ。
中年女性はそれを遠目から目撃した。
ストレスの重みに歪んだ彼女の正義が、彼女をすぐさまゴミ捨て場へと駆る。
あの女が捨てたゴミ袋の前に立ち、鬼の首を取るかの如くそれをひったくって掲げた。
女性は思わずして思った。
ルール違反だ、明確なルール違反だ。ママ友の間で広めて、自治会で議題に上げて、管理人に吹き込んでやる。そうすればあの女、ここにいられなくなるかもしれない!
興奮で女性の頬は紅潮していた。怒りと喜びに引き攣った笑みに割かれたその頬。
それを一層赤く染める雫が、ゴミ袋から垂れてきた。
臭い。
血生臭い。
そのゴミ袋からは、吐き気を催すほどの血の匂いが漂っていた。
女性から血の気が引く。
それで少し冷静になって、女の出すゴミなのだから、ものによっては血の滴ることもあるかもしれない。
そう思い、念のため中を見てみることにした。
白色の文字が印刷された黒色のゴミ袋。恐る恐るそれを地面に置いて、結ばれた口のところを解く。
中のものと目が合って、女性は甲高い悲鳴を上げた。
袋の中には、いくつもの男の生首が入っていた。
事件はひと月ほど世間を騒がせたが、やがて歴史的な経済不況のニュースに取って代わられ、あの若い女は消息不明のまま、逸話は都会の深い闇に消えていった。
◇
「その若い女は、人間じゃなかったの?」
聞きながら、人間だったとしても怖いことに変わりはないなと、幼い僕は思った。
「化物だよ。文字通りの意味で、若い男を食っていたんだ。顔は残したみたいだけどね」
「
一瞬の沈黙の後、屋根裏のそれはバタバタとのたうち回る音を立てながらけらけらと笑った。大笑いしながら、どこでそんな冗句を覚えてきたんだか、と楽しそうに言う。
僕はその反応が、正直嬉しかった。
「あーあ、笑った笑った。まあ、顔を食べなかったのは単純に、食べられる部分が少ないからだけどね」
その声はまだおかしさに震えていて、とても楽し気に聞こえた。
けれど、
「君は」
一瞬で声色は暗く冷たく低いものになった。
明るく感じられた僕の部屋の闇は、毒虫の這う壺の中のそれになった。
「どこか他人事だと思っている」
追い詰めるような口調に、僕はわけもわからず困惑していた。
屋根裏の怪は怒ったのだろうか。
それとも厳しく忠告しているのだろうか。
張り詰めた沈黙のあと、それは口を開いた。
「いいんだよ。そういうものさ。所詮これはどこかの誰かの体験談。自分の身に置き換えて心底怖がれる人間はそういない。
隣人がもし人間のふりをしている化物だったら。これは潜在的な毒だ。現実に自分の身に降りかかって初めて体感できる恐怖だ。だから今の君にはちっとも怖くない。
でもそれじゃつまらないだろう?
君にいいことを教えてあげる。
靴擦れをしたことがあるか。
明日隣に住んでる秋山くんのお父さんに、そう尋ねてみるといい。」
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