第2話 小さなストーカー
みんなが知っているような童話を何一つ知らない僕だったが、身の毛のよだつような話ならいくらでも知っていた。
学校の友達にそれを語ると、最初ははしゃいでいた誰も彼もが、最後には顔を真っ青にして離れていった。
僕の頭の中にある、何十何百のおそろしい話。
そのほとんどが、僕が眠れない夜、屋根裏部屋にいる何かから聞かされたものだ。
これから記すこの話も、その中の一つ。
◇
薄明るい朝。ある女性が家に帰るため、豊かな自然が残る郊外の住宅地を歩いていた。
女性は夜に仕事がある人だったから、朝といえど、もう疲れてくたくたになっている。
それでも、彼女はこの帰り道が好きだった。
営みを始める小鳥たちの囀りを聞き、肌を撫でる涼風の香りをかぐ。
朝の澄んだ空気を深く吸い込んで吐きだせば、都会の闇にくすんだ自分の心までもが洗われるような心地がする。
この爽やかな時間に全ての感覚を預けて癒されるのが、彼女の密かな楽しみの一つだったのだ。
しかし、その日の朝は違った。
いつからだったのか、彼女にはわからない。
何が目的なのか、彼女は考えたくもない。
こっそりと後ろを盗み見る。
電柱の陰に誰かがいる。
前を向いて少し歩いて、今度は立ち止まって振り返る。
ブロック塀の陰に誰かがいる。
彼女は不快感を露わにその者へ呼びかけた。
「あの!警察呼びますけど!やめてもらえます!?」
こういう経験が彼女には何度かあった。
そしてその度に、何か月という長い攻防を経て、厄介な追跡者たちをストーカーとして警察に突き出してきた。
今ブロック塀の陰に隠れている誰かも、その類だと考えたのだ。
憤然として歩き出す女性。
その後ろを小さな足音が追う。
女性は苛立ちと共に足を速める。
足音は変わらず彼女を追ってくる。
「いい加減にしてよ!!」
怒鳴りながら後ろを振り向いた。
植木の陰から誰かが覗いている。
顔と体を半分だけ晒している。
それは、ぼさぼさの髪をした少女だった。
「……え」
女性の予想とは大きく異なるそのストーカーの姿に、彼女はしばし言葉を失って立ち尽くした。
その間も少女は動かない。やんわりと緩んだ口元と大きく見開かれた眼の顔を
真っ直ぐに女性に向けていた。
あの年頃の子供といえば普通、落ち着きなく動き回ったり我慢できずに笑いながら喋りかけたりしてきそうなものだが、少女はそんな素振りは微塵も見せない。
それどころか、息すらしていないように見える。
――女性の直感がこう告げる。
おかしい。
気味が悪い。異常だ。ただごとではない。
朝のこんな早い時間に子供が一人で、それも知らない大人を追いかける理由などさっぱりわからない。
あれは本当に人間なのか。そこに存在している子供なのか。
いやきっと違う。あれは人間じゃない。なにか関わってはいけないものだ。
早く逃げないと!
そう思いたったと同時に女性は前へ向き直り、何事もなかったかのように歩き出す。
トッ、トッと小さな足音も彼女に合わせて動き出す。
耳に聞こえる足音がだんだん近づくのが怖ろしく、彼女は徐々にスピードを上げて、やがて全力で疾走し始める。
少女の足音は一切変わらない。トッ、トッ、トッ、トッと小さな靴の地面を打つ音が聞こえる。
女性が走っているにも関わらず、歩いているはずのその足音はしかし、確実に女性に近づいていた。
トッ、トッ。
トッ、トッ、トッ、トッ。
トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ。
女性は力の限り走る。
ぜぇはぁぜぇはぁ、必死な呼吸の音と。どくんどくん、脈打つ鼓動の音。
タッタッタッタッ、踵の高い靴で苦しく走る音。
それに規則正しく差し入る、トットットッという少女の足音。
いまやそれは、
振り向けば手も届く距離に!
「いやああああああああああああっ!!!!」
後ろに倒れながら振り向いてしまった女性。
そのとき、彼女は目撃した。
自分のすぐ後ろまで迫っていた、無機質な顔で笑っていた少女が、
驚いた顔をして慌てて電柱の陰に跳んでいく様を。
「………………………え……っ?」
少女はあの石のような笑顔を、さっきまでのように電柱から半分だけ覗かせている。
息も絶え絶え、脚も痛む女性は、ただその様を眺めている以外にできない。
なんなのだこの空気は。少女は何をしているんだ。結局何がしたかったのだ。
女性は少しずつ冷静な思考を取り戻してきた。
すると。
「あ~あ」
少女が喋った。
顔はそのまま。ただその口元だけがぐにゃぐにゃと形を変えて言葉を作る。
「動いちゃった」
少女はそう言うと、ゆっくりと電柱の陰から出てくる。
電柱の陰から、
ばりばり、ばりばりばりばりばりばり、ぐちょぐちょぐちょぐちょ、音を立てて、縦長に引き延ばされた半身を引っ張り出してくる。
その高さは女性の身長よりはるかに高く、電柱に架かる電線に届きそうなほど。
それはちょうど、絵の描かれた飴細工を熱して引っ張ったかのように上に伸びていた。
「い、……いや……!」
少女のようなそれはゆっくりとその全身を朝日に曝す。
そして。
「負けちゃったからそっちに行くね」
ダダダダダダダダダダダダダダダダッと大きな足音とともに近づいて、女性の視界いっぱいに途方もなく間延びした、無機質な少女の笑顔が広がった。
◇
「わかんない。女の子は何がしたかったの?」
僕は屋根裏のそれに尋ねた。
それはくつくつと愉快そうに笑い、わからないかい、と言う。
「だるまさんがころんだ、という遊びがある。君は友達がいないから知らなくても無理はないね」
それは「だるまさんがころんだ」がどんな遊びかを教えてくれた。
壁や木に向かった鬼役が、「だるまさんがころんだ」と言って最後に振り向くまでの間に、他の参加者が動いているところを見られないようこっそり鬼に近づく遊び。他の参加者が鬼を触れたら彼らの勝利。鬼が振り向いた瞬間に動いていた者を捕らえて、誰もいなくなったら鬼の勝利。そういう遊びだと。
「後をつけていた少女は、勝手にだるまさんがころんだをやっていたんだ。その女の人を鬼役に見立ててね。この遊びでは、鬼に見つかった人間は鬼と手をつないで、他の人間に触ってもらうことで解放してもらうのを待つ。少女は実に律儀にこの約束を守ろうとしたわけだ」
動いているところを見られて、「負けちゃった」から、鬼に手を繋がれるために「そっちに行く」ということだったのだ。
「女の人はどうなったの?」
僕は次に気になっていたことを尋ねた。
屋根裏のそれは少しの沈黙のあとに、その答えを返した。
「朝の道路の真ん中で気絶していたから、少しも痛くなかったようだよ」
「……?」
「いずれわかるさ。それよりも、もっと別に聞きたいことがあると思ったんだけれど」
僕はもう気になることはなかった。
それを察してか、屋根裏の怪が笑いながら言った。
「知りたくはない?
少女が勝っていたらどうなっていたか」
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