第24話・足音
ねちゃ。
ぬちゃ。
びちゃ。
一階から聞こえてくる悲鳴が弱弱しくなってくきた、まさにそのタイミングだった。ドアの向こうから、ずぶぬれの全身を引きずって這ってくるような音が聞こえてきたのである。
女性従業員を沼に引きずり込んだ存在が、ついに二階まで上がってきたのか。あるいは外の場所からやってきた怪異がここまでたどり着いたのか。
「あ、あああ、あ……」
「お、落ち着いて、紗知ちゃん。か、懐中電灯、しっかり持って……!」
万が一の通信手段でもあるので、スマホのライトはひとまず温存することにした。二人で懐中電灯をドアの方に向け、身を寄せ合って震えるしかない。
ホテルのドアは、どちら開きだっただろう、と紬は思った。
向こうに押す形だったか、あるいは手前に引く形だったか。おかしい、ついさっき自分も部屋から出て来たばかりのはずなのに、そんな簡単なことが思い出せない。もし、向こうから押し込む形であったなら、バリケードは大きな効果を持つだろう。が、向こうから引く形であったなら――。
――わ、私、自分の部屋からドアを押して出てきたっけ?引いて出てきたっけ?あ、いや、そういえば、こういうのって建築法とかで決まってるんだっけ?あ、あ、どうしよう、全然頭が回らない……!
チェーンはかかっているから、開くとしても小さな隙間であるはず。鍵がかけられない、この事実が今はこんなにも心細いだなんて。立てかけられた机、積み上げた椅子。その方向にライトを当てながら、どうにか恐怖を押し殺すしかできない。
ねちゃ。
にちゃ。
ずちゃ。
濡れた音とともに、ゆっくりとうめき声のようなものが聞こえてきた。いや、果たしてそれは声なのだろうか。まるで腹の底から響くような、何かをがりがり引っ掻くようなひび割れた音。
「アアアアア、アアア、アアアア、アアアアアアア……」
最初は、ただの音のようにしか聞こえなかった。しかし近づいてくるにつれ、それがある種意味ある言葉を形成していることに気付くのだ。
「アアアア、アアアアアアア、グルジイ、グルジイ、ジニダグナイイイイ……!アアアア、アアアアアアアアアアアアア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……!ゾノバエニ、アアア、アアアアアア……!」
――苦しい、死にたくない?……その前に?
紬は目を見開く。襲ってきている存在は、得体のしれない妖怪ではないのか?地下に封印された化け物が蘇り、自分達を襲撃しているとばかり思っていたのに。
まるで、彼らの方が被害者であるよう。死にたくないから人を襲っている?そんな馬鹿げたことがあるのだろうか。
ただこうして聞いていると、確かにうめき声には殺意などというよりも、深い深い絶望や恐怖が滲んでいるような気がしてくる。まるで手負いの獣が、怯えて暴れているかのような。
ドン!
「ひぎっ!」
突然、ドアが派手に叩かれた。紗知がびくっと体を震わせる。紬は、彼女の体を抱き寄せて声を殺すしかなかった。きっとまだ、怪物は自分達がこの部屋にいることまでは知らないはず。ドアを開けて、チェーンがかかっていることを知ればその限りではないだろうが。
このまま、ドアを開けないでやり過ごすことができれば助かるかもしれない。相手が、この部屋には誰もいないと判断してくれれば。そのためには、声や物音を立ててはいけない。とにかく静かにして、気配を殺して、この部屋に誰もいないと思わせなければ。
――落ち着け、落ち着け、落ち着け。大丈夫……ま、万が一入ってこられたって、ちゃんと明かり持ってるんだから。明かりを嫌うっていうからには、懐中電灯で照らしてさえすれば、きっと向こうは入ってこないんだから……!
落ち着け、と自分に言い聞かせる。かつて読んだ漫画で、勇ましい主人公が言っていたのを思い出した。考えることができる、それが人の力であり権利であるのだと。生き延びたいのならばけして、考えることをやめてはいけないのだと。
その意味が、今ならわかる。
ホラーやミステリーで、考えることを放棄して逃げまどうだけの人間に未来はない。そういう者は、あっさりと怪物に食われて死ぬだけだ。最後まで生き残るのは冷静に状況を判断し、最善の選択をした主人公たちだけ。化け物の弱点をきちんと考えて戦ったり、隙をついて仲間の手を引いて逃げることができた者だけだ。
紬は、漫画のキャラクターではない。主人公補正なんて、都合の良いものはない。
それでも今、自分の命を守れるのは自分自身だけで、そして隣で震えている少女を助けられるのも自分だけなのだ。彼女の存在は足手まといではない。紬がまだ、人間として大切なものを忘れていないという証明そのもの。ここで彼女を見捨てたらきっと自分は、人ではない何かに成り下がってしまう、そんな気がするのだ。
だから考えなければいけない。相手の正体が何なのか。生き残るために自分ができる最善とは何であるのか。
――ど、ドアの外にいるのが、庭の池から出て来たやつと同じだと仮定しよう。私は、従業員さんが襲われるのを目撃した。停電しているのに何で目撃できたのか?月明かりがあったからだ。
ということは、あの敵は月明かりには耐性があるということ。もしくは、一定以上のパワーのある光源でなければ効果がないということか。確かに、懐中電灯やランタン、スマホのライトの方が明るいのは確かだ。
もう一つ、思ったことがある。典之の言葉からの考察だ。
『下から来るもん、は眩しい明かりが苦手や。せやから電気に干渉して停電を引き起こす。でも全ての明かりを消せるわけやない。人間が自分の手で持っとる懐中電灯や携帯電話には、そうそう干渉できひんっちゅうこともわかっとる。だから今、二人はなるべく早くその部屋で明かりを探すこと。どうしても見つからなかったら、携帯電話を充電器に繋いでライトをつけっぱなしにすんや』
『明かりが照らしている範囲やったら。怪物もそうそう近づいてきぃひん。万が一部屋に入られても連れ去られることはないはずや。ただし、スマホや懐中電灯の類はずっと手で触れて持っておくこと。手から離れたら、そういった機械であっても電気が消されてしまうかもしれへんし、奴らに奪われてしまうかもしれへん』
彼の言葉通りなら。ホテルが停電したのは、怪物が電気に干渉したせいということなのだろう。何故、人間が自分の手で持っている懐中電灯などは消せないのか、それはわからない。情報不足で考察しようがない。ただ、ホラー小説を書くために日本のホラーを研究していた知識があるので、多少の想像はつく。
日本のホラーには、窓やドアを叩いて家主に“開けさせる”ことで襲ってくる類の怪異が存在する。
それは、家主に許しを得なければ家の中に入れない、ということ。生きている人間は無意識のうちに、自分の気の力でバリアを張っている。己の縄張りである家がその最たるところ。弱い力の幽霊は自力でバリアが破れないため、家主の許可を得るという条件をクリアすることで侵入するのではないか?以前、そんなことを考察をしたことがあったのを覚えている。
ということは、鍵をかけたドアで閉じこもっているだけで、ある程度効果があるということだ。
「ごめん、紗知ちゃん。ちょっと窓確認してくる。窓は鍵がかかるから」
「は、はい……」
思いついたら行動するべし。まだ、ドアが開く気配もバリケードが壊れる気配もない。大丈夫だと判断して、窓の方に近づいた。さっきよりしっかりした声が出たことに自分で安堵する。
――よし、大丈夫。
紗知もそこはうっかりしていなかったようだ。窓にはちゃんと鍵がかかっている。今のところ、窓から何かが侵入してきそうな気配はない。それは無意識のうちに、“人が入るのは玄関から”という認識が、怪異にも働いているということなのだろうか。
ということは、あの怪異は怪物ではなく、怨霊の類であるということ?そう考えるなら、あのお喋りにも多少筋が通るのだが。
――今の時期、朝日が昇るのは早い。うまくいけば四時くらいに明るくなるはず。その時、すぐに窓から日が入ってくるようにした方がいい。
相手の眼を見ることで呪われる怪異もあるが、今はそういう方向ではないと信じよう。紬は部屋のカーテンを全開にした。これで、太陽が昇ればすぐ部屋の中が明るくなるはずだ。
再び玄関に戻った時、ドアの向こうからがつん!とさらに叩きつけるような音がした。
ガツン!ドン!ベチャン!ドン!ガンガンガン!ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン――!
「ひ、ひいっ……!」
「だ、大丈夫。声出さないように、頑張って、紗知ちゃん……!」
ドアを開けてこない。ドアが開く音がしない。引いて開けるタイプのドアだと向こうが気付いていないのか。まだ、この部屋に人がいるかどうか確かめている段階なのか。
やがて、音の嵐は止んだ。べちゃ、ぬちゃ、という音とともに怨霊らしき存在の気配が離れていく。この部屋にいない、そうみなしてくれたのだろうか。あるいは、なんらかの理由でドアを開けられなかったのか。
「い、いなくなった……?」
紗知が、か細い声でそう呟いた、その時だった。
ギイイイ。
まるで、そんな自分達の小さな安堵に反応したかのように。あるいは、それを嘲笑うかのように。
浴室のドアが、開く音がしたのである。
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