第25話・侵入
浴室は、洗面所の隣。ユニットバスで、トイレと一緒に設置されている。
洗面所は自分達がいる廊下の左手に存在していた。洗面所に入るスペースにドアはなく、洗面所に入って左手が風呂になっているという配置である。
本来、風呂のドアは内側に開くものなのかもしれないが――トイレと一緒になっているせいか、洗面所の方に外開きで開く形で設置されているようだった。そして、紬はすっかり忘れていたが、風呂場のドアというものは外側から鍵がかけられるようになっていないのだ。
つまり、風呂場の鍵は開いている。
ドアが開くのは、何もおかしいことではない。――誰も手で触れていないこと、風もないということを除いたならば。
「お、お風呂が……っ」
紗知が掠れた声を出す。その手の懐中電灯は、玄関に向いたまま動かない。玄関のドアの前にまだ怪物がいる可能性がいると思っているからか、あるいは。
キイイイイイイイ――。
軋む音とともに、開いていくドア。紬は、典之が言っていた言葉を思い出していた。
『言い伝え通りなら、あかんもんはすべて“下から来る”からや。地面に近いほど危ないと思った方がええ。特に、排水口や池、水がある場所や穴があいている場所が危ないって言われとる。二階のその部屋まであかんもんが上がってくるまでには多少時間がかかるやろうけど、それでも完璧に安全とは言えない』
奴らがやってくるのは、玄関からのみではない。
排水溝や、水、穴のある場所も危ないと確かに忠告してくれていたのに、どうして自分は忘れていたのだろう。
そして。
明らかにおかしいと思いながら、何故自分の体は動いてくれないのか。
「あ、あああ、あ……」
濡れた音がする。びちゃり、と風呂か、トイレか、とにかくそこから何かが出て来たような音が。
しかし、今聞こえるのはそれだけではない。まるで金属が擦れるような、不愉快な音も同時に近づいてくるのがわかるのだ。
キキキキキ。
キキキキキ。
キキキキ、キキキキ、キキキキ、キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ――。
さながらそれは。膝に細かい針をぶら下げて、四つん這いで歩くたびにそれが風呂場のタイルに擦れるような、そんな音。
やがて鼻孔がかぎ取ったのは、池の外から這い出してきた者とはまた違う臭いだ。あの時は、掃除していないトイレの、どろどろに濁った排泄物のような臭いが強かった。今度はそれとは少し違う。水の臭いと、それから――鉄臭い、血の臭いが。
べちゃり。
次の瞬間。ドアの向こうから、何かを叩きつけるような音がした。トイレと一緒になっているユニットバスなので、ドアは曇りガラスなどではできていない。でもきっと、ドアの反対側に血まみれの手を叩きつけたらそんな音がするのだろう。
どろ、どろ、と黒い液体が風呂場のドアの下から流れてくるのが見えた。ドアが大きく開き、ずるり、と何かが這い出してきたのがわかる。
――あ、明かり。そうだ、明かり、そっちに向けなきゃ。今は、玄関よりも。
目の前に迫っている脅威に対し、恐ろしいほど思考が働かない。なんのために、懐中電灯を握っているのか。その明かりで、危ないものを追い払うためではなかったのか。
そう思うのに、体が恐怖で固まってしまって動いてくれない。かちかち、かちかち、と耳障りな音がすると思ったらそれは、自分の歯が震えて当たる音だった。歯の根があわない。一度は落ち着いたはずの心臓が、またばくばくと煩く鳴り始めている。
冗談抜きで、漏らしてしまいそうだった。振り絞ったはずの勇気が、あっという間にしぼんでいく。
――う、動け、動け動け動け動け、私の体!
薄闇の中で、はっきりとその様子を見ることはできない。
それでも大きく開いたドアの多くから、何かがぬう、と顔を出したのがわかった。髪が少し長い。着物のようなものを着ているように見える。顔は、暗すぎてはっきりとは見えない。ただ。
「オオオオオ、オオオオ、オオオ……イタイ、イタイ、クルシイ……」
聞こえてくる声は。さっきとは違い、男のそれのように聞こえる。這い出してきたそれが、ぬる、とこちらに腕を伸ばしてきた。その手の角度がおかしいように見える。あれに掴まれたら、きっと連れていかれる。
――動け、動け動け動け!動けってば、このっ!
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
己を叱咤するため、腹の底から声を出した。その途端、急に金縛りが解ける。紬は慌てて、自分が持っている懐中電灯の明かりを風呂場のドアに向けたのだった。
その瞬間。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
濁った声を上げて、そいつ、が風呂場に引っ込んだ。その瞬間、眩しい光に照らされた“怪物”の姿を紬ははっきり見てしまうことになる。
紺色の着物のような服を着た、痩せた男だった。髪の毛は長いのに、頭頂部は剃られている。まるで、昔の侍が髷を落とした時のような。
いや、そんなことよりも恐ろしいのは、男の全身が血まみれであったこと。しかも、ただ血だらけだっただけじゃない。
額、頬、耳、鼻、首、肩、腕、指、眼。着物から露出した、ありとあらゆるところからびっしりと――針らしきものが生えていたのだ。その傷から、男は大量の血を流して、痛い痛いと嘆いていたのである。金属の擦れるような音とともの這ってきたということは、恐らく足も似たような有様だったのだろう。
「さ、紗知ちゃん!こっち、こっちへ!」
「は、はいっ……!」
怪物は確かに怯んだ。ということは、懐中電灯の明かりに効果があるのは間違いないということだろう。どうにか硬直から解けたらしい紗知の腕を引っ張り、ベッドルームへ行く。
窓際は、今は安全だと信じよう。窓の前に座り込み、懐中電灯を前方へと向けた。
「さ、紗知ちゃん!時々後ろ気にしてて!わ、私はひたすら前を照らしてるから!」
「わ、わかりました……!」
二人で並んで座り込み、その場で籠城の構えを取る。いや、怪物と自分を隔ててくれる壁もドアも何もない以上、本当に籠城と呼んでいいのかは定かでないが。
自分達が玄関近くから離れた途端、風呂場に一瞬引っ込んだ男がもう一度這い出してくるのがわかった。やはり、明かりが当たっている間だけ、こちらに近づいてこられないということらしい。ということは、懐中電灯に出らされていないエリアは安全ではないということ。トイレや風呂のみならず、洗面所からも何かが出てくる可能性は十分考えられる。
あるいは、ドアの前の女(?)がいなくなったのは、獲物をあの男に譲ったからというのもあるかもしれない。そのような仲間意識が、あの怨霊たちにあるかは定かでないが。
「いい、紗知ちゃん。よく、聞いて」
明かりに効果がある。今は、それがわかっただけで僥倖だ。
あの男が風呂場から出て廊下まで来られたとしても、明かりをそちらに向けている限りベッドルームの方まで来られないならば、襲われる心配はないはず。そしてこの部屋には、蛇口のように下から上がってこられる場所はないはずだ。
「多分……あいつらに襲われると、明かりを使わなきゃってことを忘れちゃうんだと思う。金縛りみたいになって、動けなくされるってのはあるかも。私も紗知ちゃんも、風呂場から来るのがわかってたのに、すぐに懐中電灯を向けられなかったでしょ」
それから、今思い返してみると庭で襲われた従業員もそう。何故、ランタンや懐中電灯を持たずに池に近づいたのか。何かを確かめたり探したりするならば、明かりがなければ間違いなく不便だというのに。
恐らく、そういう心理が働くように仕向けられる。それくらいの力を持つ怨霊だとうことだ。ならば。
「意思を強く持って。明かりを持つ手に集中して。多分、意識をずっとそっちに傾け続ければ、そういう干渉は受けにくくなるから。多分だけど!確信とかそんなのないけど!」
「は、はい……頑張ります!」
「よし、二人で朝まで頑張ろう。大丈夫、そうすれば、きっと助かるから……!」
今はただひたすらそう信じるしかない。廊下まで這い出してきた怨霊に懐中電灯の明かりを向けながら、ひたすら紬は願い続けたのだった。
絶対に眠ってはいけない。
どれほど疲れ果てても、この夜だけは。
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