第23話・籠城
確か、204号室だと言っていたはず。
紬が紗知との電話の内容を思い出しながら、部屋の外へと飛び出したその時だった。
『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
下の階から、凄まじい女性の悲鳴。死を目前にした、あるいはそれ以上に恐ろしいものを見て必死で叫んでいる――そんな悲痛な声だった。
それから微かに暴れるような音も聞こえてくる。紬は背筋が冷たくなるのを感じていた。
――何が、起きてるの?なんで旅館の人は誰もいないの?
この時間だから、眠っていて気づかない人がいてもおかしくはない。だが、階段を駆け下りるにつれ状況が変わってきた。
一階にも少ないとはいえいくつか客室がある。その多くから、怒号のような悲鳴や物音が聞こえてくるのである。
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!』
『来るな、来るな来るな来るな来るなあああああああああああああああああああ!!』
『助けて、誰か助けてえええええっ!!』
『ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!』
『死にたくない、死にたくないいいいいっ!』
『ああああああああああああああああああああああっ!』
一体、何が起きているのか。闇の中、複数の人が同時に得体のしれないものに襲われているとしか思えない。さっきの沼から這い出してきたものだけではないというのか。
そして、その者達は下の階から――そう、下から襲われているような。
――い、一階に降りるのは危ない……!
とりあえず、紗知のところに行くのが先だ。彼女の安全を確認するという名目だったが、半分は“自分も独りぼっちで怖かったから”である。
204号室に飛びついて、ドアを叩いた。
「紗知ちゃんいる!?私です、紬です!ここ開けてもらってもいい!?」
ドアノブに触れたところで、あっさりがちゃりと回った。そういえば停電していたんだ、と思い出す。すべてのオートロックが無効になっているのだ。
「つ、つ、紬さん!」
飛び込むと、紗知が泣きそうな声で玄関に飛び込んできた。
「紬さんも見ましたか?あ、あ、あの、沼から出てきたおばけっ……!」
「み、見た!ホテルの女の人が引きずり込まれてた……!」
「あれなんなんですか、下蓋村の怪物なんですか!?なんで、なんでここの沼から出てきたんですかっ!?」
「わ、わかんない!私もこの村の人間じゃないし……!」
矢継ぎ早に質問されても、答えようがない。今自分達がすることは落ち着くことだと理解した。パニックになっていては、助かるものも助からないだろう。
特に、年下の女の子の前で恥ずかしい様を曝すわけにはいかない。まだ、紬にも辛うじてそれくらいのプライドは残っていた。
「ホテルの人達が、何かに襲われてるのは確かみたいなの」
紬はまだ混乱する頭を必死で宥めながら口にした。
「一階の方がパニックになってた。多分、沼から上がってきたもの以外にも何かいる。ほら、耳すませてみると、下からいろいろ聞こえてこない?」
そう言った次の瞬間。ういいいいいいいん、と不自然な機械音が真下のあたりで鳴った。何の音か、と思って気づく。
あれは、チェーンソーが動く音ではないか、と。
そう、超有名なホラー映画で、殺人鬼が振り回していたような。
『がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!腕、うで、う、う、うで、俺の、うでっ……!痛い痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
今度は、男性の声だった。男の人があんなにも、泣き叫ぶような声を上げるところなど聞いたことも見たこともない。まるで、何かにチェーンソーで襲われて、手足を現在進行系で切断でもされているような。
だとしたら、襲ってきているのは人間なのだろうか?幽霊がチェーンソーを振りかざして殺しにくるなんてあまりにもナンセンスである。
いやしかし、沼から上がってきたものは明らかに生きた人間ではなかったわけで。
「あ、あああ、あ……」
紗知は、カチカチと歯を震わせている。歯の根が合わないとはまさにこのことだろう。紬も恐ろしかったが、その姿を見て強引に自分を奮い立たせた。今、彼女を守れるのは自分だけなのだ。年上の、大人の自分がなんとかしなければ。
「……良くわからないけど、ヤバいものは下から来てる。とりあえず、籠城するしかないと思う」
そこまで言ってから、紬は自分がスマホとハンカチとティッシュ、それから部屋から持ち出した懐中電灯しか持っていないことに気付いた。紗知と合流するならせめて、財布が入っている小さなバッグぐらい持ってこれば良かったのに。
「さっき、私がこの部屋に入ってきたの見たよね?鍵、かかってないみたいなの。オートロックが、停電で解除されてるっぽい。だから、玄関に鍵がかけられない。チェーンだけはかけられるだろうけど、気休めみたいなものだと思う」
「ど、どうすれば……」
「チェーンして、簡単なバリケード作って立て籠もるしかない。とにかく、こういうゾンビみたいな奴等って、朝になれば消えるのがホラーの定石だし……!」
「わ、わかりました!」
女子とはいえ二人いれば、ソファーを運ぶくらいのことはできるだろう。チェーンロックをした後、ずりずりと部屋のソファーを引きずってドアの前に立てる。それから椅子も。ホテルの備品を勝手に動かしたり壊したりしたら本来間違いなく叱られるところだろうが、今回だけは非常時ということで許して貰おう。
どうにか簡易バリケードをしたところで、ようやく紬は貴子と貴子の家族のことを思い出していた。このわけのわからない現象は、果たして自分達の旅館でのみ起きているのだろうか?それとも、村全体で発生しているのか?
さっきベランダから外を見た限りだと、かなり広範囲で村全体が停電している様子だったが。
「さ、紗知ちゃん。バリケード見ててくれる?私、一緒に来た先輩とかに連絡する。助けを呼べるかも……!」
「ほ、ほんとですか!?わかりました!」
少しだけ希望の光が射した。アドレス帳を呼びだして貴子の電話番号に発信してから、警察を呼んだ方が良かったかと気づく。まあ、とりあえず貴子の無事を確認してからでもいいだろう。
一回、二回、三回。
コール音がやけに長い。祈れば祈るほど、心臓の音が煩くなっていく。
やがて。
『もしもし、紬ちゃんか!?』
「!」
聞こえてきたのは女性ではなく、男性の声だった。それも聞き覚えのある声だ。
「貴子先輩の、おじいちゃんですか!?」
多分、彼女の携帯がどこかに置いてあって、それを近くにいた典之が取ったということだろう。ただ、妙に焦った声が気にかかる。やはり自分が危惧した通り、増岡家にも危険が迫っていたということなのだろうか。
『せや。貴子ちゃんのじいちゃんの、典之や。今はどこにおるん?ホテルの部屋か?』
「は、はい。あ、でも自分の部屋じゃなくて二階の……紗知ちゃんっていう、ユーチューバーの女の子の部屋で、彼女と一緒にいます。急にホテルが停電したと思ったら、に、庭でホテルの人が襲われてて、庭の池が変な臭いになってて変な怪物みたいなのが這い出してきてて、そ、そそそ、それで」
思い出したら恐怖が戻ってきた。視界が滲みそうになるのを、ぐいぐいと手の甲で拭う。泣いている場合ではない。自分が泣いたら、紗知を不安にさせてしまうだけだ。
『落ち着き、紬ちゃん。ゆっくりや。ゆっくり息吸って、順々に話しとくれ。傍に怪物がおらんならできるやろ?』
「は、はい……」
典之の声は存外優しい。そして、怪物みたいなのが、という紬の言葉も否定しなかった。それだけでどれほど安堵させられたのかは言うまでもない。
ひとつ深呼吸して、順繰りに起きた出来事を話した。夜、プロットを考えるために起きていたら停電したこと。紗知に電話をかけていたら、庭の異変に気づいたこと。庭の池から這い出してくる髪の長い女?のような幽霊と、それに襲われて引きずり込まれる従業員の女性を見たこと。一階が何やらパニックになっており、従業員が来る気配もないこと。
そして今は二階の紗知の部屋で二人でいて、籠城する体制を整えていること――。
『状況はわかった。……電気がつかないのが厄介やな。明かりさえつけばどうにでもなったんやけど』
典之は少し考え込んだ後、そう口を開いた。
『ええか。朝になったら、ひとまずこの状況は収まるはずや。言い伝え通りやったら、太陽が出てる間異変は起きひん……あるいは起きにくいはず。紬ちゃんは紗知ちゃんって子とともに、朝を迎えることを最優先で考えるんや。ほんまは、二階より三階の部屋のが安全やったんやけど、降りてきてしもうた以上どうしようもないし』
「どういうことですか?」
『言い伝え通りなら、あかんもんはすべて“下から来る”からや。地面に近いほど危ないと思った方がええ。特に、排水口や池、水がある場所や穴があいている場所が危ないって言われとる。二階のその部屋まであかんもんが上がってくるまでには多少時間がかかるやろうけど、それでも完璧に安全とは言えない』
ええか、よく聞き、と典之。
『下から来るもん、は眩しい明かりが苦手や。せやから電気に干渉して停電を引き起こす。でも全ての明かりを消せるわけやない。人間が自分の手で持っとる懐中電灯や携帯電話には、そうそう干渉できひんっちゅうこともわかっとる。だから今、二人はなるべく早くその部屋で明かりを探すこと。どうしても見つからなかったら、携帯電話を充電器に繋いでライトをつけっぱなしにすんや』
「わ、わかりました!紗知ちゃん!」
とりあえず、紗知にその旨を伝える。彼女は頷くと、スマホのライト機能をオンにした。紬のスマホも、通話が終わったらライトを使うことが出来るだろう。
『明かりが照らしている範囲やったら。怪物もそうそう近づいてきぃひん。万が一部屋に入られても連れ去られることはないはずや。ただし、スマホや懐中電灯の類はずっと手で触れて持っておくこと。手から離れたら、そういった機械であっても電気が消されてしまうかもしれへんし、奴らに奪われてしまうかもしれへん』
言われるがまま、ベッドルームに行く。自分の部屋と同じところに設置されているはずだ。紬が持ち出してきた懐中電灯もあるが、一つより二つの方が便利であるはずである。
『お祭りの期間は、明かりをつけて寝なければいけない。そう言われているのにはちゃんと理由がある。……本来なら、電気つけて寝るだけでなんも問題なかったはずなんやけどな』
電話の向こうで、典之がため息をつくのがわかった。
『今夜は寝たらあかん。ライトをどれか一つ、必ず一つ以上つけて部屋で二人、くっついて起きとるんや。怪物はドアから来るとは限らへん。洗面所の排水口やトイレから上がってくるかもしれへん。そういった場所からなるべく離れたところにおるんや。ええね?』
「わかりました。あの、典之さんと、貴子先輩は……」
『なんとか無事や。詳しいことは明日の朝になってから話す。……助けに行けなくて堪忍な。必ず、必ず生き残ってまた会おうな』
「……は、はい……!」
これ以上スマホの充電を消費するわけにはいかないと思ったのか。典之はそこで、通話を切ったのだった。
紬はすぐに玄関に戻り、紗知に聞いたことをそのまま伝える。徹夜で明日を迎えなければいけない。気が遠くなるような話だが、やるしかない。こんなところで死ぬなんてごめんなのだから。
二人がどうにかその覚悟を確かめあった、その時だった。
べちゃん。
ドアの向こうから、濡れたような足音が聞こえてきたのは。
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