第22話・切断
大櫛初音が池に引きずり込まれる、ほんの少し前のこと。
「うーん、やっぱり電気つかないし、暗いわねえ……」
初音の先輩、松田香苗は事務室で一人ぶつぶつ言いながらファイルを探していた。昔から独り言を言うのが癖だと自覚している。旦那には“五月蝿い”と言われることもあるが、今は部屋に一人しかいないし構わないだろう。
自分と初音だけでは、この後の対処をどうすればいいのかもわからない。香苗も正社員をして長いが、実のところ自分が夜勤をしている時に停電に出くわしたのはまだ二回目だった。
しかも一回目は新人の頃で、一緒に夜勤をしていたチーフがほとんど全部の対応をやってくれたのである。まずはマニュアルから確認しなければいけない、そういう段階だった。今日休んだ管理職が一緒だったなら、多分こうも手間取ることはなかったのだろうが。
「やっぱり懐中電灯から探さないといけないのかしら。面倒くさいわねえ。ああ本当に面倒くさい」
月明かりだけでファイルを探すのは無謀だろう。というわけで、まずは懐中電灯かランタンを探すことにする。初音が持っていってしまった一つ以外にも、どこかにあるはずだった。一応避難訓練の折に、場所の確認をしたはずなのだが――どうにも今は、その在り処がまったく思い出せない。こういう時に即座に取り出せないと、正直意味なんてないと思うのだが。
こういうものは、事務室ではなく洗面所にあるものかもしれない。
そう思い立ち、事務室に併設された従業員用トイレへと足を運ぶことにする。夜のトイレは少しだけ怖いが、窓があるだけマシだ。月明かりに照らされる中、洗面所の下の棚を開いて明かりを探すことにする。
「うううん……ない、無いわねえ。うううん、ううん……」
段々と苛立ってくる。どうして自分がこんなややこしい作業をしなければいけないのか。よりにもよって、自分は夜勤の時にこんなトラブルなんかが起きなくてもいいではないか。
そもそも、この仕事だってそうだ。給料がいいから続けていたけれど、本当は夜勤なんてやりたくなかったのである。しかし、昼の業務だけという働き方を上が許してくれなかった。しまいには“夜の仕事をしたくないのはみんな同じなんだから、貴方だけ我儘言わないでください!”なんて説教されてしまった。自分がいけないのだろうか。働き方改革だなんだと言っているくせに、人に合わせたシフトを許してくれないなんて、なんて時代錯誤な会社だろう?
改装されて、職場が綺麗になり、エアコンも快適に使えるようになったことはいいけれど。それだって働く職員のためではなく、お客様の為という名の業績を伸ばすためだと知っている。従業員が楽しく明るく働けるように、なんて工夫、会社はまったくする気がないのだ。
「ああ、嫌だわ。嫌だ嫌だ嫌だ……」
ぼやきながら棚の中を探る。トイレットペーパーや清掃用のクレンザーは見つかったものの、懐中電灯の類は一切発見できない。
と、そこまで考えた時、ようやく香苗は事務室の机の上に置いてきてしまったスマートフォンのことを思い出した。よくよく考えてみれば、あれをライト替わりにすれば良かったではないか。
「やだわ、あたしったら。うっかりしちゃって」
ぱたん、と棚を閉じて、トイレから出ようとしたその時だ。
ごとん。
すぐ後ろで、何かが外れるような音がした。え、と香苗は後ろを振り返る。このトイレの中に、自分以外に人がいるはずがない。後輩の初音はさっき庭に出て電気室を見に行ったばかり。そして、今従業員は自分と初音だけ。この従業員用トイレに入れるのも、自分達だけのはずなのだが。
「んん?」
香苗は目を細めて、その場所を見た。
月明かりに照らされる、トイレのタイル。こういった場所のトイレというのは、水を流して清掃しやすいように排水溝が備え付けられていることが多い。この従業員用トイレも例に洩れなかった。そのタイル張りの床の真ん中。銀色の円いものが、キラキラと月明かりに輝いているのである。排水溝の蓋だった。円い蓋が外れて、ぽっかりと黒い穴を晒しているのである。
「やだ、ナニコレ。危ないじゃないの」
香苗はぶつくさ言いながら穴へと近づいた。水を流しやすくするためなのか、このトイレの排水溝はかなり大きめに作られている。お世辞に痩せているとはいえない香苗の足も、すっぽり入ってしまいそうなくらいには。
実際つい先日、従業員の女の子の足がはまりそうになって、ちょっとした騒ぎになったばかり。
基本的には蓋を外さないで清掃するようにと言われているのに、昼間の担当者が忘れてしまったのだろうか。
――あれ?でも、さっきあたしが下を見た時、蓋は締まっていたような。
黒い穴を覗き込んだ途端、香苗は思い出していた。
――気のせい?……それにしても真っ暗ね。なんだか嫌な臭いもするし。
蓋を直接手で触るのもなんだか嫌だ。そう思って、足で蓋を蹴って戻そうとした、まさにその時である。
「ひぎっ!?」
突然、何かが排水溝の中からにゅうっと伸びて来たのだ。そして、素早く香苗の足を掴んだ。
青白く、関節を無視してぐにゃぐにゃと曲がるそれは――誰かの、腕。ぬめぬめとした赤黒い液体にまみれたそれは、香苗の右足をぐいぐいと引っ張り、排水溝の方へ引きずり込もうとする。
「ちょ、やめて、何するの!?や、やめて!!」
抵抗するものの、凄まじい力だ。みしみしみし、と骨が軋む音に悲鳴を上げる。一体何なのか、これは。あっという間にパニックに陥った。こんな狭い排水管の中に、人間が入れるはずがない。そして、こんな悪戯をする理由もない。
明らかに、生きた人間ではない。
ということはまさか、本当に出たというのか?下蓋村の地下に眠るという怨霊が――祭りの時期に結界を破って“下から来る”という、そんなことが本当に?
「いやああああああ!離して、離しなさいよ、ねえってば!あたしが、何したって言うのよおおおおおお!!」
洗面台にしがみついて抵抗出来た時間は僅かだった。履いていた靴ごと、右足がずぶりと排水溝の中に嵌る。しかし、大きめの穴とはいえ、サイズには限界があるのだ。つま先をぴんと伸ばした状態で、強引に穴の中に引きずり込まれれば、当然関節に無茶な負荷がかかるというもの。
ぼきぼきぼき、という嫌な音がして、足首に激痛が走った。脱臼したのだとすぐにわかった。
「痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいいいいいいいい!やめて、お願い、やめてえええええええええええええええええええええええええ!!」
助けを求めなければ。そう思って、ひたすら喉が枯れるまで叫んだ。少なくとも庭には初音がいるし、ホテルには他の客もいるはず。誰かが気付いてくれれば、きっと助けてくれるはず。そうでなければ困る。自分はこんな意味の分からない奴に殺されたくなどないのだから!
「誰か、誰か、誰かあああああああああああああ!助けて、誰か、誰かタスケテええええええええええええええええええええ!死にたくないの、死にたくないのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
当たり前のように察していた。このままでは自分は、この狭い菅に無理やり引きずり込まれて殺される。もしくは、足を強引に引きちぎられ、のたうちまわって死ぬことになるのだと。
どちらもごめんだった。自分は何も悪い事なんてしていない。こんなやり方で傷つけられるなんて、どうして納得できるだろうか。
しかし。
「ぎゅっ」
死にたくない。
そう叫んだ瞬間、吸い込む力が強くなった気がした。そして。
バキバキバキゴキゴキゴキブチブチブチブチブチ!
自信の右足から、凄まじい音がした。狭い穴を通るために――関節どころか骨が砕かれ、肉が強引にひきつぶされたのだと知る。一瞬遅れで、頭が真っ赤になるほどの激痛が脳天を焼いた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ぶちゅううう、とゼリーのようになった血肉が、穴と足の隙間から溢れ出す。びちゃびちゃびちゃ、と股間から嫌な音がした。あまりの苦痛のと恐怖に盛大に漏らしたのだと気づいたが、それを恥ずかしがるような余裕は微塵もない。
太ももまで飲み込んだ穴は、それでもさらに香苗の足を吸い込み続けている。しかし、人体の構造上、足までは無理やり吸い込めてもそれ以上は限界がある。どうあがいても、腰から上が排水管を通るはずがない。
となれば、何が起きるかは明白。穴を強引に広げるか――獲物を引きちぎって飲み込むしかなく。
「ぎいいい、ぎいいい、ぎいいっ」
ごきん、と右足と骨盤を繋ぐ場所から、砕ける音が響いた。あるいは脱臼だろうか。どちらかなんてもうどうでもいい。繊維が引きちぎられ、肉がぶちぶちと音を立てて寸断されていく。右足が、股関節から引きちぎられて、持っていかれようとしている。
「あがが、が、が」
ぐるん、と視界が裏返り、香苗はその場に仰向けに倒れた。大量の血を、失った右足の切断面から噴出させながら。
――なんで、どうして?何がおきてるの?あれはなに?なんで、なん。
びくびくと全身を痙攣させ、ショック症状に耐えていた香苗が知ったのは。今度はあの血まみれの腕が、倒れた自分の右腕を掴んで――ぐい、と強引に引っ張りこもうとする、その光景であったのである。
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