第4話 苛めの連鎖
不倫というのは、連鎖があるのか、一人が見つかると、他でもやっているのが、なぜか発覚するのだった。
ただ、この場合は、
「発覚が連鎖する」
ということであって、不倫が連鎖しているわけではない。
逆にいえば、不倫というものは、今に始まったことではなく、どこでもあるということになるのだろう。
一つが発覚すると、
「他も怪しい」
という目で見てしまうからなのか、どうしても、そういう感じになってしまうのではないだろうか。
もう一ついえば、連鎖という意識から見てしまう場合もあり、
「一匹いるのを発見すれば、10匹はいるだろう?」
というような話もよく聞くので、たとえは悪いが、結局、
「誰でもやっていて、バレてないだけだ」
ということになるのではないかと思うのは、過激すぎるのだろうか?
だが、不倫くらいは、まだかわいいもの。何しろ、今の日本には、不倫を罰する罪はないのだからである。
戦後すぐくらいまでは、
「姦通罪」
というものが存在した。
いわゆる、大日本帝国の時代までである。
その頃の姦通罪というのは、男女で不公平があった。
「女性が不倫をして、男性が不倫をされた場合だけ、訴えることができる」
というものであった。
男性だけが不倫をした場合は、姦通罪にならないというのが、日本における姦通罪だったのだ。
これは、日本国憲法における、
「法の下の平等」
というものに違反してるということで、男性が不倫をしても、罰せられるということにするわけではなく、新しい刑法では、スッパリと廃止されたのだ。
実際にお隣の韓国では、ここ20年くらい前に廃止になったようで、まだ続いている国もあったということであった。
今世界で姦通罪が適用される国はないという認識であるが、どうであろうか?
ということになると、不倫をしたとしても、そこは、刑事罰を問うことはできない。
そうなると、不倫された側とすれば、離婚を視野に考えた場合。
「いかに慰謝料を取るか?」
ということが問題になってくる。
不倫された方とすれば、配偶者にも、不倫相手両方に慰謝料を請求することもできる。ただ、それはあくまでも、民事上の離婚問題であり、刑法における、前科という問題にはならないだろう。
基本的には、裁判になるかも知れないが、起訴されても略式であり、刑事罰のような傍聴人のいる裁判のような大げさなものではない。
だから、弁護士同士の話し合いであったりするのだろうが、離婚するとも限らない。
不倫して、もう一度やり直すというのは、結構難しいことなのかも知れない。
なぜなら、再犯しないとも限らないからだ。
「すまない。俺にはお前しかいないんだ。今後二度としない」
と言われて、信憑性を感じるだろうか?
「どうせ、不倫相手にも、私の悪口を散々言って、同情を買う形で、不倫を続けていたんでしょう?」
と言われれば、
「いや。そんなことはない。出来心だったんだ。本当に愛しているのは、お前だけなんだ」
と言われるに違いないが、そこで許してしまうのは、正直おかしいというものであり、
「出来心? 出来心で、不倫をしちゃったということね?」
と聞くと、
「ああ、そうなんだ。本当に愛しているのは、お前だけなんだ」
というだろう。
「じゃあ、これからも、出来心が出れば、不倫をするということね?」
と言われてしまうと、もうグーの根も出ないことになってしまう。
「口は災いの元」
というが、まさにその通り、自分の立場が完全に弱いということになると、相手はそこに付け込んでくる。
一度弱みを見せると、そこからは、どんどん、
「負のスパイラル」
に落ち込んでいって、その急降下に頭が追いついてこず、防戦一方になってしまう。
そうなると、言い訳しかできなくなり、相手に愛想を尽かされて終わりということか?
いや、もう不倫がバレた時点で、すでに終わっているのだ。
不倫というものは、バレなければいいという人がいたが、本当にそうなのかも知れない。
その前にしなければいいのだろうが、男の性として、肉体的に、一人ではどうしてもダメだという人もいるだろう。
ただ、そういう人は、結婚しなければいいのかも知れない。ただ、そうなると、
「一人で我慢できない人は、人並みの幸せを手に入れようと思ってはいけないのだろうか?」
と考えるが、そもそも、人並みの幸せというのは何なのだろう?
幸せの定義は、人それぞれ、結婚して子供や家族に囲まれた楽しく過ごすのが幸せと思う人もいれば、金があれば幸せと思う人もいるだろう。
また、孤独であっても、自分のやりたいことを続けられれば、それが幸せだと思う人もいるだろう。そういう人も二つに分かれるかも知れない。一つは、最初から、結婚などを望みもせず、孤独でも寂しいと思ったことはなく、それは充実した人生を生きているからだと思っているという人である。
もう一つは、以前に家庭を持っていて、何らかの原因で家庭が崩壊してしまい、孤独の毎日を過ごしているうちに、悟りのようなものが開けてきて、孤独に慣れてきたというのか、孤独であっても、充実がそれを上回れば、それでいいという考えである。
後者の場合は、ある程度の年齢がいった人が考えることで、若い人は、前者が多いかも知れない。
ただ、一度も結婚したことのない人は、ほぼ、結婚というものに憧れがあり、結婚生活を夢見ているはずだ。もし、それがないとすれば、例えば、両親が離婚したところを見ているとか、外的要因で悟りを開かずにはを得ないというところであろうか?
鈴村にはそのあたりの事情は分からない。ただ、
「会社内で不倫が、最近、続々と発覚している」
という事実だけを客観的に見ていたからだ。
そういう意味では、他の人と、感じていることが、随分と違っているのかも知れない。今だ、独身で、彼女もいない鈴村には、不倫と言われても、ピンとこないからだった。
鈴村は、童貞ではない。正直、素人童貞ではあるが、大学の時、先輩に連れて行ってもらった風俗で卒業は済ませていた。
正直、最初は、
「こんなものか」
という、期待したほどではないという思いがあったのも事実だった。
だからと言って、セックスが嫌いというわけではない。最初こそ、拍子抜けした感じではあったが、最初から、ハードルを上げて行った自分が悪かっただけで、何も本当に、
「こんなものか」
といって落胆する必要もない。
そこで、少し期間を開けて、2回目の風俗に行って、相手をしてもらうと、今度は、しっくりくるものがあった。手順も分かっているし、一度下げきってしまい、下ろしてしまいかけたハードルだっただけに、今度は、新鮮だった。
「今回が初めてなんだ」
というほどに感じたことが、その一番の理由なのかも知れないが、相手の女の子も、最初の子の態度が、
「相手は童貞なんだ」
という目で見ていたことと、自分のハードルの高さがうまく噛み合っていなかったこともあって、ぎこちなかったのだが、2回目は、その歯車がきっと、うまく噛み合ったのだろう。
そのおかげで、
「俺はひょっとすると、人とうまくコミュニケーションできる人間なのかも知れないな」
と感じたのかも知れない。
確かに最初に相手をしてくれた女性は、明らかに自分よりも年上で、それは、先輩が選んでくれた相手だった。
「童貞のお前には、大人の女性がいいかも知れないな。包容力という点では抜群なので、任せておけばいいさ」
ということだった。
実際に話を聞くと、
「私、結構、筆おろしの役が多いのよ。そんなにお姉さんっぽいのかしらね?」
と聞くので、
「いえ、包容力だって言ってました」
というと、
「そう? それだったら嬉しいわ。私って、そんなに、童貞に合うのかしらね?」
といって笑ったが、確かにそうだと、実際に終わった後に感じた。
彼女がもし、お姉さんだったら、
「きっと、口うるさいんだろうな?」
と感じた。
だが、それは嫌味ではなく、そう感じるのは、先輩の言う通り、包容力の有無なのかも知れない。
鈴村には姉や妹はおろか、男兄弟もいない。だから、いつも、何でも分けるということはなく、一人ゆっくりと自分のペースでいられるのだ。
子供の頃は、
「寂しい」
と思ったことも確かにあった。
だが、孤独と思ったことはない。一人でいることが、自由だということが分かっていたからだ。
だから、兄弟げんかもしたことがない。兄弟げんかをすると、
「お母さんが、必ずどっちかの肩を持つから、またしても、しこりが残るんだよな」
と友達が言っていた。
贔屓された方も、兄弟げんかをして、相手が必死になって向かってくるのは、自分が母親に贔屓されるからだと思うことで、母親を恨んだものだとまで言っていた。
その友達は贔屓された方だったのだろう。
ただ、その気持ちは、分からないでもなかった。
というのが、鈴村は、小学生の時、いじめられっ子だった。
よく学校で苛められて、痣を作って帰っていた。母親でなくとも、子供の様子を見れば、学校で何があったのか分かりそうなものである、
母親としては、苛めっ子に対してよりも、学校に文句を言いに行ったようだった。
「うちの子供が毎日のように痣を作って帰ってきているのを、担任の先生が知らないということはないんじゃないでしょうか?」
といって詰め寄ったという。
学校としても、苛めの問題は、シビアな問題として、考えていた。いじめられっ子の中には、下手に騒がれて、苛めがエスカレートするのを怖がって、
「なるべく騒がないでほしい」
と思っている生徒もいる。
特に苛められっ子というのは、内に籠る性格の子が多いので、鈴村も、そんな感じだった。
そして、いつも自問自答を繰り返していて、気が付けば、自分が今どこにいるのか分からなくなっている。感覚がマヒしてしまっているのかも知れないと感じるのだった。
感覚がマヒするというのは、一般的に時間の感覚である。
「時間が解決してくれる」
ということを考えるから、時間というものをいつもは、考えているのに、辛いことがあれば、
「早く時間が過ぎてくれないか?」
と思うことで、余計な意識が働いてしまい、
「1時間は経っただろう?」
と思うことでも、実際には、10分も経っていなかったりするのは、結構あったりする。
だが、次第に、
「あの時が最悪だったんだ」
と思うと、スーッと気が楽になってくる。
そう感じた時にやっと、時間の呪縛から逃れることができるようになり、時間というものが、
「相応と思える時間」
に変わってくるのだった。
苛めにというものは、決して許されることではないが、それは、苛める側の問題というよりも、母親は、
「本当はいさめる立場の学校側が、見て見ぬふりをしていることが問題なのだ」
といっているのだ。
もちろん、苛める相手に対して怒りがないわけではない。だが、
「苛められるには、あなたにもそれなりに理由があるんじゃない?」
と聞かれ、考えてみたが、
「分からない」
と答えたのを聞いた母親は、それ以上何も触れなかった。
今から思えば、母親にとって、分かっていようが分かるまいが、答えは一つしかないと思っていたのだろう。分かっていて聞いたのは、子供の自分が、そのことについて考えようするかどうかだったと思う。
考えようとしなかった場合は、自分でも苛められる理由について心当たりがあるからではないかと思ったのだろう。
考えようとしているのを見て、心当たりがないことが分かり、ただ、それは母親を安心させるものではなく、そのことを今まで考えようとしなかった子供にも問題があると思ったに違いない。だから、何も言わなかったのは、
「どうせ、今は言っても同じだ」
ということと、
「これからは、この子は、あまり深く物事を考える方ではないということを覚悟してみていかなければいけないということだわ」
ということを考えているのだと思うのだった。
いじめられっ子というのがどういうものか、どうやら母親は分かっていたようだ。
性格的に、男みたいなところがある母親は、よく鈴村が子供の頃、まだいじめが始まる前のことであるが、
「昔は苛めなんてなかったって聞いたことがあるわ。もしあっても、すぐに仲良くなったんだって、そんな時代があったというのが昔だったのよね」
といっていた。
もちろん、まさか自分の子供が苛めに遭うなど思ってもいなかったからなのだろうが、なぜそこまで、自分の息子が苛めに遭うことはないという思いがあったのだろうか?
今だったら、苛めっ子でなければ、一度くらいは、苛めに遭ったとしても、不思議のない世の中なのだから、何を根拠にそこまで感じたのか分からない。
鈴村は、苛めをするタイプでは絶対になかった。それだけに、苛めっ子がどういうもので、いじめられっ子っがどういうものなのか、分からなかったのだろう。
鈴村が苛められるようになったのは、途中からだった。
三人目くらいだったのではないだろうか。
急にクラスで一人が苛められるようになり、その頃はまったくの他人事で、気にもしていなかったが、そのうちに、今度は違う子が苛められるようになっていた。
つまりは、クラスの中で、
「苛めの連鎖反応が生まれた」
ということであった。
苛めるメンバーが変わったというわけではない。完全にターゲットが変わったのだ。
これは、
「苛めたい相手が新たに表れた」
ということで、自然と今苛めていた子から、そっちに流れたのか、それとも、
「苛めていた子を苛めることに飽きたので、必然的にターゲットを探したということなのか?」
ハッキリとは分からなかったが、前者ではないかと思っている。
そのせいで、2人目が苛められるのを見ると、急に鈴村は怖くなってきたのだ。
「次は僕かも知れない」
という思いであり、そこには何ら根拠のようなものはなかった。
しかし、自分がそう思った瞬間、次のターゲットは自分に決まっていたのではないかと思うのは、他の子が苛められている時に、苛めている連中が、鈴村を見る視線だった。
よそ見をしているように見せかけて、明らかに鈴村の方を見つめていた。それを分かっているのか、意識して見ていると、連中が、何やらほくそえんでいるように思えた。
それは、
「今度はお前だ」
という予告のような感じがして、ゾッとするその感覚は、
「苛めというものが、連鎖によるものだ」
ということを示しているような気がしたのだった。
そんな苛めを受けていた自分が、ある日、急に苛めを受けなくなると、
「苛めていた連中の気持ちが分かる気がするな」
と思えてきた。
特に、
「お前最近変わったな。もう苛めはしないから、安心しろ」
と面と向かって言われたりすると、急に自分が偉くなったような錯覚に陥ったりする。
別に偉くなったわけでもないのだが、苛めていた本人から、
「変わったから苛めない」
と言われたのだから、成長したのは間違いないと思うのだった。
あくまでも、
「苛めをしない」
と言われただけで、成長したなどと一言も言っていないのに、そう思うのだから、自分がどれほど自惚れが強いのかということが、次第に分かってくる。
「ひょっとして、この自惚れだったのか?」
とも感じるようになった。
確かに、以前は自惚れが強かったような気がする。しかも、その強さは、まわりにも分かるものだっただろう。自分で自惚れだと感じ始めたのは、苛めがなくなる少し前だった。
ただ、その頃には他にも分かるようになったことがあった、一番大きいのは、
「自分が他の人と同じでは嫌だ」
と感じたことだ。
それまでは、そんなことを感じないままに、ただ、まわりにさからっていたような気がする。この思いも、苛めに繋がっていたのかも知れない。
ただ、他人と同じでは嫌だということに気づいただけで、そもそもの気持ちは変わっていない。
「ひょっとすると、自覚もなしに感じていることが、まわりに対して予期せぬ不快な思いを与えていたのかも知れない」
と感じた。
どうやらこの思いは強いようで、自分を苛めていた人から、
「俺は、素直なやつが好きなんだ。自分の気持ちを内に籠めようとしていて、それが、鼻につくと、我慢ができなくなるんだ。だから、苛めっ子になんかなったんだろうな」
といって笑っていた。
「苛めって、どうしても、していないといけないというわけじゃないんだ。いじめっ子だって、本当はこんなことはしたくないんだが、どうしても鼻につくやつがいると、我慢ができなくなる」
といって、実際に悩んでいるようだった。
「そうなんだ」
といって、共感すると、
「だって、苛めなんて、する方にメリットなんかないんだぞ。好きで人を苛めるわけないじゃないか。だけど、苛めていないと、どうしようもなかったりするんだよ。例えば、家に帰ると、親からは迫害を受けたりしてね」
という。
「だけど、それって、言い方は悪いけど、八つ当たりなんじゃあ?」
というと、一瞬そいつは、ムッとした表情になったが、
「まあ、そうだな。苛められるやつには関係ないわけだからな。しかも、苛めの連鎖というか、苛められたから、苛め返すなんていうのは、同じ相手に返すなら分かるが、違う相手に返してしまうと、永遠に終わらない気がするのは、分かっているつもりなんだ。それでも辞められないのは、本人にとっても、辛いところなんだよ」
というのだった。
「うーん、どうも、弱い者苛めの連鎖のような気がして仕方がないな。いじめっ子のお父さんだって、ひょっとすると、会社で苛めのような目に合っているのかも知れないし、苛めた相手が、今度はさらに弱い奴を苛めているのかも知れない」
というと、ふと、鈴村は自分の父親を思い出した。
まだ、ホームレスになる前の父親だったが、あの頃は、よく酔っぱらって帰宅していたものだった。
そのたびに、上司の悪口を言っていたが、子供には、どうしてそんなことになるのか、分からなかった。
理由として考えられるのは、会社で苛められて、やけ酒を呑んできたということになるのか、それとも、会社の付き合いで、飲まされたのか、とにかく、上司に対して文句があるのは、間違いないようだった。
とにかく、格好が悪いというのが、見たそのままの気持ちだったのだ。
だが、ホームレスになってからの父親には、その時の感じがまったくしなかった。
怖さというか、圧力のようなものを感じることがなかったからだ。
人に対して怖さを与えたり、圧力を感じさせるというのは、その相手が、どう感じるかには関係なく、受けた方には、それ以上の圧力となるのだ。
それを、プレッシャーというのだということを、苛められていた時には知る由もなかった。
そして、そのプレッシャーが、次第に大きなトラウマになり、その人の中で、本人の意識をしない中で膨れ上がってくる。それは、連鎖を引き起こすことになるのかも知れない。
そういう意味で、苛めに連鎖があるのは分かったのだが、それ以外で連鎖が生じるのは、一体どうしてなのだろう?
よくいうのが、
「事故が一度起こると、連鎖反応が起こって、何日も続いたりする」
などというものだ。
「そんなの偶然さ」
といって気にしない人もいるが、昔の人はそうもいかなかっただろう。
特に、天気などの影響をまともに受ける農作物を相手にしていると、ちょっとしたことでも、
「不吉な予感」
といって、お祓いをしてもらったりする。
古墳時代などの太古の昔などでは、病気も祈祷で治すという時代があったのだ。
邪馬台国の卑弥呼が、霊媒師のような人物だったという話もあるように、
「祈祷で国を治める」
あるいは、
「ありがたいお告げを聞く」
ということは当たり前だった。
奈良時代に、道鏡という僧を時期みかどにするかどうかを、天皇が、宇佐神宮に遣わして、そのお告げを聞かせたというではないか。
それだけ、加持祈祷の類は、生活に密着していたのだ。
そういう意味で、連鎖反応というのも、もちろん、言葉はなかっただろうが、偶然で片付けられないこととして考えられていただろう。
しかも、不吉なことが何度も続けば、社と建てて、霊を鎮めるというくらいのことはしただろう。
大宰府に流された、菅原道真の怨霊であったり、坂東で新皇を名乗り、東国支配をもくろんでいた、平将門が討たれた時など、かなり不吉なことが起こったという。
それは今でも語り草になっていて。
「現代によみがえった将門の怨念を描いた物語」
というのが、流行ったりしたのも、だいぶ以前のことであるが、映画化もされたりしたらしい。
今のここまで科学が発展した時代ではあるが、それだけに、解明できないものがあると、余計に怖さを感じる。
科学で証明しようとすると、そこで行き詰って、堂々巡りを繰り返すものもあれば、
「科学の限界」
というものを感じさせるものだってあるではないか。
コンピュータができて、AIなどの、人工知能ができようとしているのに、50年も、60年も昔から、
「近未来の発明」
と言われてきた、
「タイムマシン」
「ロボット」
などというものは、一切発明されていないではないか。
そこには、タイムマシンであれば、
「タイムパラドックス」、
ロボット開発であれば、
「フレーム問題」
であったり、
「ロボット工学三原則の遵守」
などと言った問題が、山積していることになる。
しかし、これは正直、簡単に打ち破れる問題ではなく、堂々巡りを繰り返してしまう問題なのだ。とにかく、ここでいう、堂々巡りと、連鎖反応というのが、同じものなのかどうなのか、そのあたりが問題なのではないだろうか?
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