1:過ぎ去りし日々は幻想のように
嫡子エルンストの弟、『エンジュ』はかつて、兄であるエルンストだった。
それを知っているのは、かつてエンジュであった——現在の兄である嫡子エルンストだけ。
二人が入れ替わったのはいつで、どういった経緯によってそれが起こり得たのか。
これから語られるのは、双子が辿る数奇な運命の、最後から二番目の物語——
(……ねえ、わたしの声が聞こえている?)
誰かが僕を呼んでいる。とても優しくて、けれどなぜか少し寂しそうな声だ。まだ眠っていたくて、僕は暗闇の中で首を振る。ねえ、誰だか知らないけどまだ起こさないで。
(聞こえているんだね)
聞こえてる。聞こえてるから起こさないでよ……ううん、目が覚めてきちゃったじゃないか。まだ寝ていたいと言っているのに、その人は僕を呼び続ける。苦しげな声を出されると、僕もなんだか苦しくなる。
(聞こえるなら応えて)
ああもう、聞こえてるってば! 大声を出しても、まだ寝てるからだろう。別に誰も驚いたりもしなかった。けれど、ちょっとその人はためらったあと、最後には安心したみたいに息を吐き出した。
(良かった。今度はまだ間に合う。……どうか、わたしの言葉を聞いて)
そして、その人は僕の名前を呼んだ。日向みたいなあったかい声で——
(——エンジュ)
……。僕は! エルンストだ。思わずカチンときて、暗闇を蹴り飛ばした。でも当たり前だけど、僕の足は何にも当たらない。空を切る、なんてちょっとかっこいい。だけどそういう問題じゃなく。
「……! わあぁっ!」
どすんばたんと、僕はベッドから落ちた。勢いよく落ちたせいで、背中を床にぶつけてしまう。べしんどかん、そんな変な音が体に響き、僕は痛いとか言う前にそれに驚く。
「う……うぅ……痛ったー……」
「だいじょうぶ? にいさん」
床に倒れ込んだ僕の上に、ちょこんと子供の顔がのぞく。子供って言ったって僕も子供だけど、そういう意味じゃなく……って僕は誰に向かって説明してるんだろ?
とりあえず、その子供は僕と同じ顔をしている。なぜって、それはこいつと僕が双子だからだ。双子でも似てないところはある。だけど、見た目だけを言ったら、僕たちは鏡を見ているみたいにそっくりだった。
そんなそっくりな顔が僕を心配そうに見ている。どうやら心配させてしまったみたいだ。ちょっとシワの寄っている眉間を見上げ、僕はそいつに向かって笑う。
「おはよ、エンジュ。我が弟よ」
「おはよう兄さん。……ってエルンスト。一体どうしたの。なんか急にベッドから飛び上がってたけど」
「イヤただ何か変なものに呼びかけられてキレただけ」
「なにそれ」
エンジュ——弟は呆れたように笑って、僕に手を差し出す。その手をためらいなく掴むと、僕は勢いよく立ち上がる。なんだか変な夢を見た気がしたけども、すぐにどうでも良くなってしまった。
(い、いやちょっと待って。聞こえてるんでしょ?)
聞こえなーい。僕は変なものを振り払おうと、首を激しく振る。エンが驚いて僕の手を引っ張った。どうしたの? と訴えてくる目に、僕はできる限り真剣にその事実を伝える。
「エン……僕、妖精さんに取り憑かれたみたいだ」
「みたいだね。明らかに変だよエル」
おいこら。僕は弟の手を引っ張ると頭を小突いた。いくら僕がエンより頭が悪くても、その言葉の中心が『明らかに変』の方にあるくらいわかる。軽くイラっとしたから、エンの頭をいつもより強くぐりぐりしてみた。
「兄さん、痛いです」
「お前が変なこと言うからだよ。……で、それでなんか用だったの? すぐ近くにいたみたいだけど」
「あ……! そうだよ兄さん、早く支度して!」
「は?」
ぐりぐりする手を止め、僕はエンの顔を覗き込んだ。同じ顔が黒い瞳に映っていて、一瞬僕は自分が誰なのかわからなくなる。僕はエル、僕は——
「兄さん、なにぼーっとしてるの? 父さまがこれから会いにくるって使いの人が」
「えー。ちょっと待ってよ。あのオヤジまた来るのー?」
僕はげんなりしてしまった。エンを離すと、仕方なく壁際に置かれた大きな鏡の前に立つ。鏡の中の子供は、顔こそ弟にそっくりだった。
だけど、だらしなく開いた襟元のパジャマとか、寝ぐせで突っ立っている灰色の髪とか。若干死んでる黒い目とか。それを見てしまえば、僕たちが同じだと思う人間はあまりいないんじゃないだろうか。
「なにやってるのエル。早くしないと父さま来ちゃうよ。まさかその格好ででてくつもり?」
「それも一興……いやそれはないなぁ……」
うだうだ言っていると、エンが鏡の中に現れ僕の髪をとかし始める。僕の寝ぐせはちょっとやそっとじゃ直らない。悪戦苦闘するエンを鏡で眺めながら、僕は他人事のようにつぶやく。
「エンは働き者だねぇ……」
「エルがだらけ過ぎなんだよ! 仮にも兄なんだからシャキッとしなさい!」
「えーやだー」
イヤだと首を振ると、無理やり首をひねられる。なんという理不尽。だけどこれは僕だけが悪いんじゃない。
ぶつくさ言っている鏡の中のエンとされるがままの僕。僕たちは確かに双子で、こうしていると違いがわかる。でも、この違いは表だけのものだと、みんな知りもしない。
——面倒だなぁ。
「何が面倒なの?」
声に出していないのに、エンは僕の言葉を拾う。普通なら驚くところだけど、僕にとってはいつものことだ。寝ぐせが直っていくのを見つめながら、僕は心の中で毒を吐く。
だって、あのオヤジうざいんだもん。なんでいちいち来るんだよ。前は放っておいたくせにさ。
「そんなこと言って、機嫌を損ねたら困るの兄さんじゃないか」
「そうなんだけどさ」
振り返るとエンが呆れた顔で僕を見ていた。このことに関してだけは、僕とエンの意見が一致することは少ない。僕には僕の意見があって、エンにはエンの主張がある。それは良いことのはずなのに、僕の心は少し寂しくなる。
「だけど、僕たちは双子なんだよ。なのに、僕だけが特別扱いされるなんて変じゃないか」
「変じゃないよ」
ためらうことなくエンは言う。目の前の弟は、穏やかな笑みを浮かべている。僕が眉を寄せているのに、同じ顔をした子供はなんでもないことみたいにそれを口にした。
「だって、オルフェの家にとって、双子は不吉なものなんだよ。なのにエルが父さまに気に入られているのはすごいことだ」
「すごくないだろ……僕とお前は一緒なのに。なんで僕だけが」
「それでもぼくは嬉しいよ。……『エル』だけでも認めてもらえるら、『エン』にとってこれ以上幸せなこともない」
「……エン」
僕はエンの肩に手を置き、その顔をじっと見つめた。弟の瞳には僕が、僕の瞳には弟が映っている。同じ姿、同じ顔、同じ瞳——同じ、心。
「エン、僕だってそれは同じなんだよ」
僕たちは、お互いがいれば他はいらなかった。ずっと、僕たちは全てを分かち合ってきた。なのに、大人は僕たちを別々のものとして扱い、僕たちを引き離そうとする。
それが苦しくて悔しくて……そして、逆らえない自分がとても嫌だった。
エンはそれでも笑うんだ。だけど僕は、エンがいないと嫌だった。エンが幸せで、笑っていられない世界なら、そんなもの望みもしないのに——
「エル、ありがとう」
僕の手に触れると、いつものようにエンは笑う。穏やかでとても優しくて、その手は温かい。なんとなく悲しくなって顔を伏せると、エンはそっと僕の手を引いた。
「そろそろ時間だよ。……ぼくは兄さんが幸せならそれでいいんだ」
エンの瞳には僕が映っている。その言葉で、エルと僕はやはり同じなんだと気付かされた。
どこまでも同じ、僕たちの心。それが離れることなんて、絶対にない。あってはならない。
「そうだね。……そう、出来るといいな」
まるでそれを願えないと知っているみたいに。
消えてしまいそうな笑顔でエンはつぶやき——そして、何かに耐えるように僕の手を握りしめた。
(……君たちは、ずっと一緒だった)
(それなのに……どうしてすれ違っていくの?)
——それは。
僕たちは、同じだけど。
決して一つにはなれないから——
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