3:何者も踏み込めぬ『三番目』の虚構
「舞台は整ったのか、銀葉?」
時の暗がりに少年の声が届く。暗闇は深く沈み込むようで、私は音もなく落ちていく。なぜ、これほどまでに暗いのか——不穏な思いとは裏腹な言葉を、彼の声は紡ぐ。
「お前の望む通り、彼らは『ひとりきり』ではなくなった。ならば今なら届くのだろう? お前の心にはどう映っている? この世界に映し出された光景が」
目に映るのは夜のごとき暗闇の世界。わたしが望んだものはこんな光景ではない。そのはずだったのに。
手を伸ばしても何もつかめない。掴んだはずの温もりは手をすり抜けていく。それでもわたしはあがくと決めた。思いに応えるように手から三つ目の果実が浮かび上がり、天上へと登っていく。
世界は光に満ちる。たとえ、光の歩んだ数だけ、行く手に闇が広がったとしても、今は——
「まあ、いいだろう。希望があるのなら、なんであろうと掴んでみせろ。それが結果的に」
声が遠い。わたしは光の中で流されていく。この願いが届かないはずがない。そう信じることで、わたしは自分の選択を正しいと認め続けるしかなかった。
※
ひとりきりの暗闇を知っている。自分の声は誰にも届かず、悪意だけが心に突き立てられた。理不尽だと叫んでも、心は無残に踏み荒らされる。それが当然だと、お前の責務なのだと——
だがもう、僕にはわからないんだ。あれほど信じていたものも、遠い他人以下に成り果てた。にもかかわらず、責務だけが肩にのしかかり、倒れ込んだとしても差し伸べられる手はない。
そんな現実、どうして受け入れられる? 僕はただ、あの頃のように変わらないままでいたかっただけなのに。
光も届かない、深い闇が好きだった。星も輝かない夜の森を、僕は歩く。鳥の声も、風のささやきも耳に届かない。まるで全てが眠りについたように、自分の鼓動すらも曖昧に変わっていく。
それほどまでに静かな世界にいると、生きているのか死んでいるのかわからなくなる。うつむき自分の手を見つめても、そこにあるのは空っぽの手のひらだけだ。
そう、僕の手の中には何もない。かつて持っていたはずの多くは、意志とは無関係に過ぎ去っていった。うつむいた顔を上げても、そこには誰も待っていない。
何のために僕は歩くのだろう。この夜の先で待っているのが、なんの救いもない結末だと理解していても。それでも僕は、かつての想いを投げ捨てることができなかった。
「エンジュ」
手を伸ばして捕まえて、そして閉じ込めてしまいたい、どうしようもないとわかっていても、その幻想は僕の心を縛り続けている。
森の闇を抜ける。その先にあるのは金耀とは名ばかりの、朽ちた鈍色の老樹。その幹に背を預けた男は、僕の足音に目を開く。
険しく厳しい表情、暗い色をたたえた黒い瞳。僕と同じ灰色の髪をした、片割れであるはずの男。
「……エルンスト」
エンジュは僕の名を呼んだ。その呼び方だけは、ずっと変わらない。まるで時が止まったかのような錯覚を覚えながらも、僕はお決まりの笑顔を浮かべ、告げる。
「どうしたんだい、こんな時間にこんな場所で。君がここにいるって、アインが言っていたけれど」
何を企んでいるんだい——とは言わなかった。僕が笑ったままでいると、エンは僕の顔から目をそらし、足元にため息を落とした。なぜ来たと言わんばかりの態度に、心が揺れる。
それきり、エンは何も言わない。不安に駆られ、僕は一歩足を踏み出した。それでも語らない片割れを前に、僕は慎重に一歩ずつ足を進める。一歩、また一歩と。
あと少しで手が届く距離に近づくに至って、エンジュは顔を上げた。まともに視線がぶつかり、僕は足を止める。
「待ってたんだよ」
「……、待っていた?」
視線が、たった一度だけ絡み合う。手を伸ばせば、エンの手に触れられただろう。だが僕はそれをしなかった。互いを瞳に映した瞬間、まるで僕たちは鏡像のように立ち尽くす。
意識が混じり合うように、どちらがどちらかもわからなくなる。それでも僕は自分を見失わなかった。目の前にいる男は……とうの昔に僕とは分かたれたものだ。
それでも黒い瞳に何かを求めてしまうのは、僕が浅はかだからだろうか。
「アインに伝えさせた。そう言えば、お前はここに来るだろうと思った」
「……どうして。そんなことをせずとも、僕は君を拒みはしないのに」
拒むことなどあり得ない。拒んだところで、エンは遠ざかっていくだけだ。それに意味を見出すほど、僕はこの男を見限ってはいない。
なのに、どうしてなのだろう。エンジュは——かつての片割れは、僕たちの禁忌を容易く口にした。
「オレは、お前と話がしたかった。オルフェの嫡子ではなく、オレの弟であったお前と」
——弟。その単語に、思わず笑い出したくなった。あまりにも滑稽な言いぐさに、表情が歪むのを感じる。全く面白くない。にもかかわらず、どうして笑顔でいることができる?
そんなこともわからないのか、エンジュであるはずの男は目つきを鋭くする。エルンストは笑顔でいなければ価値はないのか? そう考えてしまうと、自然に心は凍った。
「……今更、それを言うのか。僕を置き去りにして逃げた君が」
「言い訳はしない。お前がいる場所は、本来オレがいるはずだった場所だ。オレは……どうでもいい我儘のために、お前にオルフェを押し付けたんだ」
エルンスト。エンジュ。僕たちを区別するのは、その名前だけだ。僕たちは双子で、互いに鏡像だった。同じものを見て、同じように笑って——けれど誰も、僕たちが同じだとは思わない。
だがかつて、僕たちの心は分かち難く存在していたのだ。互いを『自ら』として認識し、二人でいれば何もいらなかった。そんな閉ざされた——けれど、穏やかで温かな世界。
けれど、あの日——兄が嫡子エルンストを『僕』に押し付けたとき。その世界は壊れ、僕たちはただの『個』となったのだ。
「それを理解しているなら、僕に何か言う資格がないことも理解しているんだろう?」
エンジュは、兄は苦しげに顔を歪めた。それが本当の感情であることは、僕の目にも明らかだった。そこにあるのは僕を身代わりにしながらも、そのことを悔やみ続ける子供の顔——
だが僕は知っている。この男がその反面で僕を憎んでいることを。僕ひとりをこんな暗闇に突き落としたくせに、こいつは自分を憐れむことしかしない。僕がどれほど苦しんでいるか、知ることもない。
「オレが何も得られないのも、そのせいだって言いたいのか」
その薄っぺらな苦悩に、どうして僕が同情しなければならないのだ?
エンの低い声に、僕の顔は自然に歪んだ。この男は本当に何もわかっていない。僕の苦しみの原因はいつだって、こいつのせいなのだ。だというのに、どうして僕が全てを失わなければならない?
「当然じゃないか。僕がこんな風に苦しむのは、君のせいなのに。なのにどうして、僕が君の願いを叶えてあげなければならない? どうして……君だけが何かを得ようとするんだ……!?」
たった一歩の距離は、永遠にも等しく僕たちを隔てる。最後の希望を込めて伸ばした手は、そらされた視線によって拒絶された。
エンジュの苦悩、僕の苦しみ。それはもう、僕たちでは解けないほどに深く複雑に絡み合っている。『兄』の過ちを許すことができない以上に、僕自身も罪にまみれてしまった。
だから戻ることは出来ない。あの日のように笑い合うことは、永遠にない。
「だから、この樹を殺すっていうのか。オレが心を寄せている、その一点だけを理由に」
「君は、何かを得てはいけないんだ。君はずっと、ただひとりでいなければ……そうでなければ、平等とは言えないだろう……? だって、僕のそばにはもう……」
本当は、この樹のことなどどうでも良かった。ただエンに、僕の想いを気づいて欲しかった。それなのにどうして、こんな風になるしかないんだろう。
力なく落ちた手の先で、エンは遠くを見た。たったそれだけの決別。兄はもう、僕を見なかった。
「終わりだよ、エルンスト」
はっきりと、エンはその名を呼んだ。かつて僕はエンジュで、この男はエルンストだった。だが今となってはそれだけだ。僕たちはすでに、名前とは別の場所で違うものと成り果てていた。
「お前がこの樹を切っても切らなくても……オレはもう、お前のそばにはいない」
「……、兄……さ」
立ち尽くした僕の横を、エンは通り過ぎた。見知らぬ他人のように、なんの関心もなく。距離が遠ざかるたび、心すらも遠ざかっていく。僕は遠ざかる姿を振り返った。エンは止まらない。これが最後なのか。二度と僕たちは、元に戻れないのか。
「もう、オレを振り返るな。……さよならエル」
「——あ……」
歩き去る。僕を残して。エンは、この樹を守ることを理由に、僕を見限った。どうして、と問いかけることもできない。思考は完全に闇の中に沈み、僕は懐に手を差し入れ『それ』を——
(——駄目だ!)
脳裏に声が響き渡った。誰かの手が腕を掴み、駆け出そうとした僕を引き止める。何が起こったのかわからなかった。けれどその一瞬で全てが変わった。
「エン様、逃げてください……!」
聞き覚えのある声。我に返り駆け出そうとした僕の前に、誰かが立ちふさがった。エンは振り返り、驚きに目を見開く。そして、短剣を構えた僕に気づき、叫ぶ。
「ばか、アイン……! お前こそ逃げろ!!」
「こんな時までバカ言わないでくださいよ! 逃げるならあなたが先でしょう!?」
どうしてこんなところにアインが、と疑問に思ったが、それも一瞬だった。
僕は短剣を振りかざし、目の前のアインを切りつけた。だが予期された攻撃は、身を捻っただけでかわされる。息を止め次に備える従者に、僕は無言のまま一気に踏み込んだ。
「アイン!」
エンが叫び、走り出す。逃げる? いや、こちらへ向かって——ああ、エン。君はやはり馬鹿だ。
「エン様! 来てはダメだ!!」
僕の攻撃を辛うじてしのいでいたアインが警告した。しかしもう遅い。僕は唇を歪め、攻撃の矛先をアインからエンジュへと変える。突き出された切っ先は、まっすぐエンに向かい——けれど瞬間、僕のこめかみに何かが激突した。
「エン……! 離れなさい!」
それなりに大きな石をぶつけられたらしい。目の前がわずかの間真っ暗になり、僕はうめいて短剣を取り落とした。こめかみに触れると、ぬるりとしたもので濡れている。その手を見れば、薄闇の中でも鮮やかな赤に染まっていた。……血だ。
「やって、くれたな……女!」
「言ったでしょう! あなたを止めるって……! どう考えても今がその時よ!」
アルフィナが石を構え、そんなことを叫んだ。立て続けに現れる邪魔者に、僕は何者かの悪意を感じた。しかも立ち直る前にアインが短剣を拾い上げたせいで、流れは完全に変わってしまう。
僕は流れ落ちる血もそのままに、地面に膝をついた。荒い息を吐き出し、顔を伏せる。この瞬間、僕は何もかも失ったのだと——そのことを思い知っただけだと気づかされた。
「……すぐに屋敷から人が来るわ。彼のことはそちらに任せましょう」
「だが……オレは」
「エン様、気持ちはわかりますが、ここは抑えてください。今、彼とあなたは一緒にいてはいけない」
少女と従者の警告に、エンは迷いながらも僕を見た。その瞳には戸惑いと、少しばかりの……いや、もういいだろう。僕は皮肉とともに唇の端を持ち上げた。そして立ち尽くす片割れを見つめる。
「これで、終わりだな……君の望み通りだろう、エンジュ?」
「……エルンスト……お前は、そこまでオレを憎んでいたのか」
「知らなかったのか? 相変わらずお気楽だね……だが、これで本当に終わり」
両手を広げ大げさに肩をすくめてみせる。実際、これで僕も終わりだった。こんなことをしでかした男を、領主は嫡子として認めないだろう。僕は何もかも奪われる……失うものがあったことに今更気づいたが、どうでもよかった。
「君は自分には何もないと言っていたけれど、あるじゃないか。体を張ってまで、君を救ってくれる人たちがさ。僕には……そんなものは何もなかったようだけど」
「……エルンスト」
エンジュは制止を振り切り、膝をつく僕に近づいた。そしてそっと膝をつき、僕の顔を覗き込む。こちらを見つめる瞳は、綺麗に澄んでいる。そのことがおかしくて、僕は静かに笑った。
「なあ、エルンスト……まだ、何も終わっていないだろ? オレたちは……まだ生きてる」
「本当にお気楽だ。自分を殺そうとした相手にかける言葉とは思えないね」
「そうだろうさ……オレはいつも見誤る。だがお気楽だろうがなんだろうが、オレとお前が『ふたりきり』の存在であることに違いはない」
真摯な瞳だった。僕とは違う、まっすぐな眼差し。それはずっと求めていたものなのに、今の僕には途方もなく遠いものだった。僕は目を伏せ、首を横に降る。
「無理だよ。僕たちはもう元には戻れない」
「無理じゃない。もし元に戻れないなら、新しくやり直せばいい。それだけのことだろ。難しく考える必要はない。お前オレより頭いいんだから、そんなことわかってるはずだ」
「……そう、だね……そう出来たなら……きっと」
わずかに口から漏れた呼吸が、夜の空気を揺らす。エンジュの肩に額を預け、僕はきつく目を閉じる。それが出来るなら、今にとって最良の結末だ。僕の肩に片割れの手が触れる。昔と変わりない、温かな手のひらだった。
「出来るさ……だって、オレたちは変わっていけるんだから」
エンジュの言葉が明るく響く。何気ない言葉。だがその瞬間、僕の心は一つの答えにたどり着いた。変わっていける。そう、変わってしまうんだ何もかも。僕は、そっと自分の胸に手を当てた。
「そうだね」
僕は目を開き、エンジュの肩を引き寄せた。抵抗もなく、引き寄せられた片割れの体。温かい背中に片手を回し、僕はその耳元で今までの想い全てを込めて囁いた。
「……君は結局、僕を捨てるんだね」
(——やめろぉっ‼︎)
……想いは、届かない。君の願いは叶わない。
ずぶり、と、ひどく現実味のない音が響き、エンジュは息を呑んだ。僕は片割れを抱きしめたまま、静かに目を閉ざす。僕は、ずっと望んでいたんだ。君が思い出してくれるのを。
「——エン、僕たちはずっと変わらずにいようね」
その言葉だけが、僕の支えだった。それなのにこの男は、こいつは……最後の最後でその想いを踏みにじった。なぜわからなかった? 僕が今まで生きてこられたのは、その約束があったからなのに——
「赦さないぞ、エンジュ」
エンジュの口から血が溢れた。そうなるに至って、周囲の二人も異変に気付く。けれど手遅れだ。僕は片割れの胸に深くナイフを沈め、別れの言葉を呟いた。
「どこにも行かせない。お前は
呼吸は途絶え、片割れだったものは糸が切れたように崩れ落ちた。命が絶えるのを、僕はナイフを手に見つめていた。胸から広がる血は死してもなお赤く、まるでまだ生きているかのように、その瞳は空を見上げる。
「……エン様‼︎」
悲鳴が上がる。しかし僕は何も見なかった。何も、興味はなかった。エンジュは死んだ。僕にはもう、こだわれるものなど何もない——
「ああ、そうか」
やっと気づいた。僕はずっと、エンジュに理解して欲しかっただけなのだ。ただそれだけが欲しくて、ずっと生きてきたのに、片割れはもういない。
なら、もうこんなのいらないや。
僕は穏やかな気持ちで笑い、ナイフで自分の首を切り裂いた。痛みは一瞬。吹き出した血が熱いのだと理解した刹那、意識は暗闇に閉ざされる。
あの世があったとしても、エンジュは待っていないだろう。なら僕はもう何も望まない。そう思えて初めて、心からの安息を得たように——僕は温かな闇の中でまぶたを閉ざす。
偽章「あなたを救う物語」了
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