2:偽られし『二番目』の告白
「運命が少しだけ動いたか」
暗闇の中で少年の声が響いた。空も大地もない世界で、彼の声は歌うように囁く。忘れるなと、忘れてくれるなと。失われてしまった人の声が、遠くでこだまする。
「従者は、最も近きもの。だから容易く動いたが……この先は、絡まった糸の上に存在する時間だ。これを超えられないなら、運命は変えられないと思え。さあ」
少年は、笑う。わたしの背中を押す優しい声。それが世界に広がった瞬間、わたしの手の中で二つ目の時の果実が光を放つ。
「さあ、再び行くと良い。人の心は頑なだが、お前は変えると誓ったんだろう——?」
光が、わたしを導く。
※
私は、アルフィナ。みんなは『お姫さま』と呼ぶけれど、その呼び方はあまり好きじゃない。
私の家はオルフェ家と縁戚関係にある地方貴族で、昔から何かと交流があるらしい。
らしい、というのは、私がそれを実感したのが最近だからだ。実感と言っても、決して良い方向性のものじゃない。なぜって私は、突然その家の息子と婚約させられた——まあ、貴族社会では良くあることではあったのだけども。
「……あーあ」
私は憂鬱な思いを抱えながら、オルフェの屋敷の庭先に立っていた。この裏庭は中庭とは違い、あまり人が訪れることはない。たまにぶつくさ言いながら寝転んでいる人がいたりはするけれど、それは風景なので気にしないことにしている。
今日も先ほど、ブラブラと『あの人』が庭の奥に向かって歩いて行くのが見えた。裏庭は割と縦横無尽に木々が生い茂っていたりするのものの、奥の方には拓けた場所があるのだ。
けれど私がそこに行くことない。わざわざ行ったところで、言い争いになるのは目に見えている。第一どうして、私が彼を気にかけなければならないのだろう。『あの人』は、ただの——婚約者の弟に過ぎないというのに。
そこまで考えて、私は自分の思考に笑ってしまった。妙なことを気にしてしまうあたり、私もどうかしているのだろう。いくら『あの人』——エンジュと婚約者であるエルンストが双子でも、二人が『同じ』のわけもないのだから。
「あーあ」
なのに、どうして私の気分は沈んでしまうんだろう。そばにあったベンチに腰を下ろし、私は足元を見つめた。理由はわかっている。それは先ほど見た双子の諍いのせいだ。
「あの樹は処分するよ。……だってそうしないと、いつまでも君は気づかなからね」
エンジュの怒鳴り声と、エルンストの不穏な言葉。それは廊下にいた私にもはっきり聞こえていたのだ。思わず物陰に身を隠してしまったけれど、部屋から出てきたエンジュの顔は蒼白で、いまにも死んでしまうのではないかと思えるほどだった。
もともと仲の良くない二人だから、珍しいことではないとは思う。しかし今回に限っては、私にも責任がないとは言えない。なぜならその諍いのきっかけはきっと、私がした話だから。
「あー……あ」
うつむいて髪を引っ張っても、何の慰めにもならない。私は間違えた。エンジュに言わなければよかった。言わなければたぶん、二人が今日争うこともなかった。だからこれは私のせい。だからきっと、彼に——
「怒られる」
「何を怒られるというのかな? さっきからひどく悩んでいるようだけど」
「……!」
笑いを含んだ声がした。驚いて体を後ろへ向けると、ベンチの後ろに『彼』が立っていた。淡く微笑む彼——エルンストは、私の前に回り込むんで首を傾げてみせる。
「どうしたんだい、アルフィナ。そんな顔をして君らしくない。悩みでもあるのかな」
「あ……いえ、その。……え、エルンスト様はどうしてここに?」
まさか考えをそのまま伝えることもできず、私は不自然に問いを返した。さすがにおかしかったのだろう。エルンストは一度表情を薄れさせ——そっと私の隣に腰を下ろした。
「どうした、アルフィナ。本当に君らしくない」
「いえ、本当に何でもないんです! ちょっと……そう! 天気が悪いから気分が塞いでいただけで!」
「……今日は晴れだけど」
「え、あ。その……」
「アルフィナ」
笑顔で頰をつままれた。当然ながら私は石のように固まってしまう。そんな私に極上の笑顔を浮かべ、エルンストはいたずらっぽく片目をつぶった。
「わかっているよ、アルフィナ」
「え……は、はい? え、エルンストさま……?」
「……君が、僕とエンの会話を盗み聞きしていたことはね?」
ガンッと衝撃が走った。心に。完全に硬直した私に、エルンストは笑顔を向け続けている。だからこそ何か恐ろしい。私に彼が何かするはずもないと、わかっているというのに。
「あ、あああの、盗み聞きというか、ただ近くにいたら聞こえてしまったというか!」
「そんなに慌てなくてもいいよ。怒っているわけじゃない。ただ、それでどうして君が落ち込んでいたのか……それが少し気になってね」
私の頰を両手で包んで、彼は憂うような笑みを浮かべた。エルンストの手は冷たかった。手の冷たい人は心が温かいというけれど、彼の場合、少し違う気もする。
「あ……いえその、特に深い意味は」
「そう? たぶん君が、エンに金耀樹の話をしたからじゃないかと思ったんだけど」
私は言葉を失った。当たりだった。軽く目を見開いていると、エルンストは私の頰をから手を離し軽く首を振る。その顔は変わらず微笑んでいたけれど、少し、前と何かが変わっていた。
「困ったね。……だが、ちょうど良いのかもしれない」
「エルンスト様……?」
「アルフィナ、君に言っておくことがある」
エルンストは笑っていた。変わることのない笑顔で、私を見つめる。しかし私はその笑顔に、薄ら寒いものを感じていた。何か異様なものが顔を出した。そんな気がした。
「なあ、君。……僕の邪魔をするなら、消えてもらうことになるからね」
世間話のような口調で、彼はそんなことを告げた。一瞬、私は意味がわからなかった。何度も瞬き、彼を見つめ——気づく。エルンストの目が、暗く濁っていることに。
「エルンスト様……わ、私は」
「僕のそばに愚か者はいらない。盗み聞きをするような輩もね。だけどまあ、君はまだ利用価値があるから……まだ、使ってあげても良い」
この人は何を言っているのだろう。笑いながらも、口にするのは恐ろしい言葉ばかり。私はベンチから立ち上がり、彼から距離をとった。そんな私に、エルンストは変わらぬ笑顔を向けるのだ。
「僕が怖いのかい。構わないけれどね……だけど、くれぐれも僕の邪魔はしないでくれよ」
エルンストはゆっくりと腰を上げると、私に背を向ける。自然な様子で歩き出す彼に、かける声などあるわけもない。私は去っていく背中を見送る。見送ることしかできない——
(止めないと、あなたは大切な何かを失ってしまうよ)
声が響いた。私の心の中に誰かの言葉が響き渡った。去っていく背中を見つめたまま、私の時は静止する。目の前の光景と心の声が絡み合い、私は自分の居場所を見失う。
失う? 私が何を失うっていうの?
(いろんなものを。たぶん、あなたが大切にしているはずの人たちも)
そんなこと言われたってわかるわけないじゃない。私に彼を止めろっていうの?
(あなたにしか出来ない。今彼を止められるのはあなただけだ)
無理よ。彼はどう見ても普通じゃない。それをどうやって止めろっていうのよ。
(何とかしてでも。そうしないと……)
知らないわよ! あんな怖い人と対峙しろなんて無理無理無理!
(……え……)
声は戸惑っている。私はここぞとばかりに、心の中に向かって畳み掛ける。
大体、どうやって止めろっていうのよ。何の作戦もなしに止められるわけないでしょ!
(それはそうだけど。で、でも、そこを何とか)
無理なものは無理ー! 今の状況で何か言ったら、私が消されるわよ!
(う、だ、だけどね。何とかしないと全部終わっちゃうんだよ?)
全部が何かはわからないけど、どっちにしたって止めようがないわよ。
(どうして……あなたは彼の婚約者なんでしょ)
形ばかりのね! あの男はいつもエンジュエンジュって……そうよ! 止めたいなら、エンジュから説得させれば良いじゃない! エンの話なら、あの人だって聞くでしょう⁉︎
(いや、たぶんそれ逆効果……下手すると全部無駄になる……)
何だか知らなけれど、声は落ち込んでいる。私は心の中で腕組みした。もしこの声が私の知っている人を助けようとしているのだとしたら……。
ねえ、あなたは何を知っているの。教えてくれないと、私も動けないわ。
(……詳しくは言えない。けれど、エンジュとエルンストの身に不幸な出来事が起こる。わたしは、それを変えたい……)
不幸な、出来事……。それは。
(今は言えない。だけどお願い……手を貸して……。わたしだけでは変えられない)
……私は。
彼らのために、どうするべきなのだろう……?
私の時が解ける。顔を上げ、去っていく男の背中を見た。ひとりきり、ずっとそうであったかのような姿に、私は唇を噛み締め——声を張り上げた。
「エルンスト様……! 私は……あなたの役に立ちたい」
声に、彼はゆっくりと足を止める。冷たい風が吹き抜ける。私は思わず身震いする。その刹那、静かに振り返った男は——笑みも浮かべずに私を見た。
「どういう風の吹き回しだ? 僕の役に立ちたいだって?」
「私のためです。あなたを『ひとり』にしておいたら、何をしでかすかわからない……。だから、私をそばに置いてください」
自分でも何を言っているのだろうと思う。けれどもし、あの声の言う通り、不幸が起こるのだとしたら。たぶんそれは、エルンストではなく『あの人』に降りかかるもののはず——
「エンジュのためか」
心がわかるとは思えない。しかし彼は、私の内心を正確に言い当てた。私は頷かなかった。その代わりに笑みを作ると、エルンストに歩み寄っていく。
「あなたの大切なエンジュのためなら、あなたは私を拒まない。そうでしょう? 何故って、あなたにとって大切なのは……」
「うるさい、黙れ」
歩み寄った私を威嚇するように、エルンストは目つきを鋭くする。それでも私は止まらない。彼の前に立つと、手を伸ばし——その頰に触れた。
「あなたは『ひとりきり』じゃない」
「……なに、を」
「だから私がそばにいてあげます。あなたが決定的に壊れてしまう、その前に止めてあげる」
エルンストは戸惑うように視線を彷徨わせる。そんな彼に、私は静かに笑いかけた。
今だからはっきり言おう。私はエルンストを愛していない。だが別に、エンジュに思いを寄せているわけでもないのだ。
だからこれは、私のけじめの問題なのだ。面倒な二人に関わってしまった私なりの、けじめのつけ方。それがエルンストのそばにいて、彼が間違いを犯すと言うのなら……それを止めるということ。
決意なんて大層なものなんかじゃない。だけど、触れた頰の冷たさに、私は彼らを見捨てられないのだと悟るのだ。不器用な双子、決定的にすれ違ってしまった、馬鹿な二人の男のことを。
それはたぶん、彼らが——互いを想いながらも、どうでも良いことで目を曇らせているからかもしれなかった。
「もう決めました。だって私……あなたの婚約者なんですよ?」
「……勝手にしろ」
苦々しげな言葉を吐き、エルンストは手を振り払い去っていく。私はその背中を見つめ、すぐに追いかけ走り出した。
(これで)
心の中で声が響く。まるで何かを祈るような声音に、私は胸が痛くなる。大丈夫だと、そう心の中で告げても、声は遠ざかるばかりで想いは届かない。
(これで、彼らは『ひとりきり』ではなくなった。ならば——)
この声は、そこまでして変えたいというのだろうか。その願いの強さに、心に痛みが走った。
破滅的な結末が待っているのだとしても、それはきっと——彼らの運命でしかないというのに。
愛しいもの、それを守ること。
そんな想いを持たない私には、『あなた』を語る資格なない。
けれど願ってしまう。その願いが叶い、彼らが笑い合う未来を夢想してしまうのだ——
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